37話「終わりを迎えた逃走劇」
波の音、カモメの鳴く声、生臭い潮の香り、曇天の日特有の温くジメッとした空気。
そして、悠然と迫ってくる不規則な足音。
魔物共は今度こそ、ヴィーレとカズヤの二人を仕留められると思っているようだ。
故に、子蜘蛛らの遅々とした行進は、勇者達を断崖の端へと追いやっていくために、敢えてやっている事だろう。
だが、そのような状況下でも、ヴィーレは特段取り乱しはしなかった。
(人間や魔物の宿す『魔力』の量、つまり魔力レベルを増減させる要因は、いくつか存在するらしい。生き物を殺すことや、他者の死を側で見届けること。そして、激しい感情を抱くこと)
彼は森を出てすぐのところで、荒くなった息を落ち着けながら考える。
(これらの性質から、魔力レベルは『魂の値』と呼ばれている。心の在り方に大きく左右される概念……。それが魔力だ)
そうしている間にも、魔物との距離は徐々に縮められていく。
大群の先頭にいる個体は、ヴィーレの立っている位置へ残り十五メートルというところまで接近していた。
(魔力量は、明るい感情によって跳ね上がり、暗い感情によって沈みこむ性質を持つ。恐怖や諦念を感じているとき、生物の魔力レベルは著しく減退するんだ。奴らが狙っているのはきっと『それ』だろう)
魔物の行進には動じず、尚も思考を続けるヴィーレ。
隣で地面にへたりこんでいるカズヤを一瞥し、再度魔物との距離を目測すると、彼は崖へと向かって歩を進め始めた。
(俺達をゆっくりと追い込むことで、こちらの精神をすり減らし、呪文も唱えられないほど弱ったところを、じっくり味わって食べ尽くす……。それが目的なんだ)
魔物と変わらない速度で後退りをする。
しかしながら、ヴィーレはそこで、カズヤがあらゆる事柄をすっかり諦めていることに気が付いた。
彼はヴィーレの後ろを追うどころか、立ち上がろうともしていない。
「カズヤ、早く来い! 魔物の餌食になりたいのか!」
叱るように呼び掛けるも、カズヤからの応答は無い。
ヴィーレの言には耳を貸さず、地面についた両手を見つめて、何やら独りごちている。
詳細は聞こえない。が、カズヤは精神的にかなり窮している様子であった。開いた瞳孔からは相応の覚悟が見て取れる。
「こうなったら……仕方がない……」
ボソリと、そう呟いた後、意を決したように顔を上げたカズヤ。
「ヴィーレ。君はこのまま一人で、崖から海へ飛び込んでくれ」
彼は深刻な面持ちでそう告げてくる。
唐突に言い渡された、とんでもない内容の頼みを受けて、ヴィーレは訝しげに聞き返す。
「何……? 『一人で』だと?」
「……うん。そうだよ。君は僕を置いて行くべきだ。でないと、何もかもが手遅れになってしまう」
わずかな逡巡を挟んだ後、カズヤは瞼を強く閉じた。
「いいかい。君と共にここから立ち去るという事は、イズさん達のもとへ、蜘蛛の魔物を寄越してしまう事と同義なんだ……! そうして生き延びたとしても、僕は僕を一生許せないだろう……!」
「……お前、一体何をするつもりだ」
「魔物に食われる……。彼らの餌に、なってやるのさ。ただし、群れが僕に集ってきたら、こちらの意識が途切れる直前に、爆発の呪文で魔物を全て道連れにするッ!」
瞳を開き、拳を握って、それをジッと見つめるカズヤ。
彼が提案した窮余の一策は、己の命を擲つことで初めて成立する『自爆作戦』だった。
魔物がカズヤを食べるために寄ってきたところを呪文で総叩きにする。そうすれば、固まった魔物達の中央にあたる位置で、ありったけの爆裂を発生させられるだろう。
ヴィーレはその前に海へ避難しておいて、後からイズ達の捜索をすれば良い。
魔物を始末できる上、直ちに他二人の救出へ移ることができる。
そういった計画だった。
不確定要素がいくつか存在するが、追い詰められてしまった現状で四の五の言ってはいられない。
机上の空論だとしても、実行するしかないのだ。
「これで勝てる……。僕らは、イズさん達を見殺しにしなくて済むんだよ」
カズヤは強がって笑みを作る。
けれど、肝心のヴィーレがそう簡単に首を縦へ振ってくれるわけもなかった。
行き場の無い足を止めたまま、後ろをしきりに振り返って敵の警戒をしつつも、彼はカズヤへと返事を投げかける。
「お前の犠牲と引き換えに、か?」
「……本当の事を打ち明けるとさ、僕はまだこの世界が夢なんじゃないかって思っているんだ。目覚めたら、部屋のベッドで横になっていて、全てが平穏で平凡な日常に戻っているんだとね」
落ち着いた調子で放たれた言葉のとおり、こればっかりは嘘じゃあない。
異世界転移という不可思議から始まったこの旅。
魔王の配下である女性によって、召喚の呪文でこちらの世界へ呼び出されたカズヤだったが、そこから現在に至るまでは、自発的に行動をすることなどなかった。
所詮、この世界は『幻想』なのだと、冷めた態度で適当に流されていく自分がいたのだ。
しかしながら、今は違う。少年の中で『幻想』は『現実』へと変わり始めていた。
だけど、否、だからこそ、カズヤは決意を固めたのである。
この世界を、異世界なのだと感じられるうちに。せっかく灯った闘志の炎が消えてしまわぬうちに。
決着をつけなければ。
「悪い夢だ。これはただの悪い夢。でも、ここで仲間を見捨てたら、それは最悪な夢に成り果てるだろう……!」
恐怖心が無いわけではない。
ただそれ以上に、このような理不尽と不条理の中で溺死することを容認したくなかった。
磨耗した気力を振り絞ることで、カズヤはようやく立ち上がりる。
「だからヴィーレ、君は二人を助け出すために、たった一人で逃げるんだッ! この場から、今すぐに!」
彼は勇者のもとまで早足で歩み寄り、ヴィーレの肩を掴むと、両の手に力を込めた。
残酷な選択を迫っていることは彼もよく自覚している。自分自身が嫌になってしまうほどに。
『目の前の人間のみを見捨てるか、大切な仲間を二人も見殺しにするか、どちらかを選びとれ。時間の猶予は与えないけれど、決断はしろ』
と、そう言っているのだから。
それでも、ヴィーレなら即座に合理的な決断を下してくれるであろう事を、心のどこかでカズヤは予感していたのである。
「……難しい選択だ。けれど、それ以前に不服だな、カズヤ」
予想は見事的中する。
少年の期待通り、ヴィーレからの応答はすぐに返ってきた。
「誰が、いつ、どこに逃げるって?」
ただし、残念ながらその内容は、カズヤの思惑に反したものであったのだが。
「勝手に逃走していた気になるなよ。俺達は、奴らを退治するために動いていたんだろ?」
ヴィーレはフッと鼻で笑うと、視線で魔物の方を指し示した。
「それに、この世を去るだなんて、お前らしくもないジョークだな。先に断っておくが、俺は『仲間』を殺させない。誰一人としてだ」
凛然たる態度で断言するヴィーレ。
確かに、カズヤは見聞きした情報を総動員して、最善と思われる策を叩き出した。
だが、彼は知らなかったのだ。
ヴィーレが過去に何度もこの森へ通っているということを。
ユーダンクやアルストフィアへと続く道は勿論であるが、行き止まりへの道もまた、勇者は熟知しているのだということを。
カズヤは知らされていなかった。
だから、勇者の真の狙いまでは見抜けなかったのだろう。
「迷子になっていたわけじゃあない。逃げようとしていたわけでもない。俺はそもそも初めから、『この断崖』へ向かっていた……ッ!」
ヴィーレ・キャンベルは屈しない。蜘蛛の魔物と出会った時から、彼は常に勝つことのみを考えている。
相手に追い込まれていたのではなく、魔物を誘い込んでいた。
後ろを警戒していたのは、敵を恐れていたためではなく、奴らを十分に引き付けるためだった。
カズヤを下ろし、足を休めていたのは、スタミナを回復するため。これからの行動に不可欠な体力を温存するため。
機は熟した。準備も万端。
作戦は今、決行される。
「反撃開始だ」
そう告げるや、敢然と敵に向き直るヴィーレ。
彼の狙い通り、おぞましい数の蜘蛛の群れは、既に勇者達の眼前まで迫ってきていた。
【挿絵一覧に新しいイラストが追加されました】
・『シスター』
登場人物「ネメス」




