31話「誰でも知っている簡単な道徳」
遠くから男の声が聞こえる。
単に怒鳴っているような、あるいは遠くの者に届けようと叫んでいるような、激情混じりの声色だった。
こちらに向けられたものではない。
しかし、カズヤはそこからただならぬ不穏を感じ取った。
沈んでいた意識がゆったりと、浮上を開始する。馬酔いによる嘔吐感のみを暗闇の底へと置き去りにして。
「イズ! ネメス! 返事をしろッ!」
それは勇者の声だった。
珍しく焦燥を露にした調子で叫んでいる。そういう風に聞こえた。
カズヤは自身の目元を覆っていたタオルを手で取り払うと、上半身を起こして、小さく呻きながらヴィーレの姿を探す。
「クソッ! どこへ行ったんだ……!」
苛立ったように独りごちる男は、カズヤの側に立って、こちらに背を見せていた。
勇者の頬には汗が伝い、朱の両目は小刻みに揺れている。不断に続いていた普段の仏頂面は、動揺をまるで隠しきれてはいない。
「ヴィーレ、一体どうしたの? そんなに慌てて」
いまいち現状の深刻さを飲み込めていない顔色でカズヤが問う。
すると、ヴィーレはこちらをパッと振り向き、緊迫した雰囲気を解くことなく、ある方角を手で指した。馬達が繋がれている木の方だ。
「……二人が消えた」
示された先を確認してみる。
そこには、食べかけのパンと、蓋の空いたパステルカラーの水筒が落ちていた。
「俺が目を離した隙にいなくなったんだ。お前に集中していた、一分や二分もしない間に、揃って姿を消してしまった……!」
ヴィーレの無表情は彼のクールさを表しているように思えた。落ち着いて現状を分析しているのだと。
しかし、違う。
さっきから忙しなく辺りをウロウロと歩き回るヴィーレの足が、彼の心中にある複雑な念をカズヤにしかと伝えていた。
ヴィーレはイズ達がランチをしていた木陰へ近寄ると、膝を折ってその場に屈み、調査を始める。
「何者かに連れ去られたような痕跡だ。十中八九、花を摘みに行っただとかいう生易しい事態じゃあないだろう」
そして再びカズヤを振り返って、強い口調で断言した。
「間違いない。彼女らの命は、現在進行形で危険に晒されている……!」
目が合った瞬間、二人の男は同時に唾を飲み込んだ。
周りを囲んでいるのは森だ。それもとびきり広くて、道は複雑。見通しに至っては最悪である。
そもそも、イズ達が森の中にいるのかも分からない。だのに、消えた仲間をヴィーレとカズヤだけで捜索するのは、困難を極めるだろう。
彼らだってそれは把握していた。
「早く二人を探そうッ!」
けれど、カズヤは即座に立ち上がり、提案する。
魔王の部下である彼の目的は、勇者達を監視することであって、始末することじゃあない。
厳密に述べるとしたら、正反対だ。
(マズイぞ……! 上から与えられた任務には、『第二勇者とその仲間を決して危険に晒さないこと』が大前提としてあるのに……!)
魔王城を出発する前に何度か釘を刺されたことである。
(何としてでも、イズさんとネメスを救い出さなければ……!)
使命感と責任感に駆られ、目的地をハッキリとさせないまま走り出そうとするカズヤ。
しかしながら、ヴィーレに肩を掴まれたことによって、カズヤの動きは物理的に止められてしまう。
「待て、カズヤ。その前に、俺から一つ、質問をさせてくれよ」
生温い風が吹き通った。
勇者の声は先よりもずっと低い。いくらかの怒気を含んでいるようにさえ感じられた。
こちらの肩を握っている左腕が引き寄せられるや、背後から勇者の顔がヌッと、カズヤの右耳に近付いてくる。
そして、ヴィーレは耳打ちをするほどの近距離でカズヤに囁いた。
「お前、扱える呪文の数を偽っているな?」
「なっ……!」
いきなり急所を突かれ、図星の反応を示してしまうカズヤ。
(どうして……!? いつの間に暴かれた?)
開いた口が塞がらないとはこの事だろう。
取り繕うにしても、もう間に合わない。遅すぎたのだ。
呪文の件は既に割れてしまっている。その事実は、わざわざ裏を取らなくとも、カズヤにだって理解できていた。
(尋ねられた内容が具体的すぎる。鎌をかけられているとは考えにくい。まず、仲間の僕を疑ってかかっている時点で、明白な根拠を何かしら掴んでいるはずだ)
ならば、問題はヴィーレがどうしてそこに行き着いたのか、だ。
(隠していた素性までがバレてしまうのはマズイ……。時間は惜しいけれど、ここで相手の手札を探っておかなければ、後で致命傷を負う羽目になる……!)
カズヤは背後の男から飛び退きたい衝動を抑え、得意の『演技』でヴィーレに怯んだ視線を向けた。
「なんで、それを……」
「分析の呪文。俺が唯一使える呪文の名だ。その呼称どおり、相手を調べることができる」
ヴィーレは仮の拘束を解くことなく答えを寄越してくる。
どうして彼はここまで明確に警戒を崩さず、こちらの解放を許そうとしないのか。カズヤはその理由を薄々とだが勘づき始めていた。
(下手な動きを見せたら、無条件で敵だと認識されてしまう。ここで彼の機嫌を損ねる行動は避けるべきだ)
一方で、カズヤは相手方の心理と感情を一所懸命に解明しようとしていた。
平和な世界から来たにしては、やけに肝が座っている少年である。修羅場慣れしているとでも言うべきか。
それが勇敢であるのか、あるいは蛮勇であるのかは、いずれ分かることだろう。
ヴィーレによる尋問は続く。
「さっきお前に対して詠唱したら、メッセージが現れた。『呪文を四つも使える嘘吐き野郎だ』ってな」
「……何かの間違いだよ」
「チェックのメッセージには推定文や疑問文が多い。だが、その中で『断定』された事象は必ず『真実』になる。未来のことであろうと、必ずだ。例外は無い」
カズヤの右肩を掴む左手に、幾ばくかの力が込められる。
「何故だ。何故なんだ、カズヤ。どうして扱える呪文を二つも隠していた! 仲間であるはずの俺達に!」
ヴィーレの声には彼の悲痛な感情が滲み出ていた。
罪悪感がカズヤの胸を締め付ける。
相手が極悪人であれば、一抹の同情すら買ってやらないだろうけれど、勇者達はそうでないと思えた。ここ数日でカズヤがヴィーレらを観察して抱いた感想である。
けれど、現在に至ってはそれも些末な問題だ。
良心の呵責から素性を暴露したところで、失われる命が一つ増えるだけだろう。
だからカズヤは全力をもって誤魔化した。
「……話すほどのことじゃない」
「話せないほどのことだろう!」
が、その態度が相手の我慢を押し退ける結果となる。
ヴィーレはカズヤの肩を引っ張り、向かい合うや否や、彼の体を近くの木の幹へ叩きつけた。左手でこちらの腕を掴み、右の前腕で胸を押さえつけて拘束する。
その体勢のまま、勇者からの尋問は再開された。
「答えろ。どうして俺達に嘘を吐いた。満足のいく回答が得られなければ、この場でお前を始末する」
物理的な圧迫感と共に底知れぬ威圧感がカズヤの呼吸をせき止める。
(やっぱり……! ヴィーレは『僕がイズさん達を消した犯人』だと疑ってかかっている! これはいけない。非常にいけない。何か、容疑を払う方法を考え出さないと……!)
洗いざらい真実を伝えるのは論外。真犯人を探し出すには、時間と情報が決定的に足りていない。
時間が要る。思考を練る時間が。
そのためには、たとえ無様でも愚かでも、急いているヴィーレの気持ちを落ち着けなければならないだろう。
「ヴィーレ、誤解だ! 僕はイズさんやネメスには何もしていない!」
「いいから、俺の問いに対する回答を寄越せ」
「頼むよ、ヴィーレ。信じてくれ。僕らはもう友達だろう?」
カズヤは涙目の涙声で、すがるようにして情けを乞うた。
泣く演技などは部活でよくやったものだ。
当然ながら、語った台詞には本心も混ざっているけれど、友情以外の怯えや恐怖は全てハリボテである。
「あぁ、カズヤ……」
カズヤの真に迫る懇願を受けて、ヴィーレは困ったように目を伏せた。
「これはネメスでも知っている簡単な道徳なんだが――――」
それから彼は、いつかの穏やかな声音に戻り、優しく静かな兄貴分の仮面を拵えて、こう教え諭してくる。
「他人を、人種や生まれ、関係や属性によって差別するのはいけないことだ」
カズヤは直感した。
急作りの企みは失敗したのだと。
「子どもだろうが、老人だろうが、親友だろうが、恋人だろうが、俺は『敵』を贔屓しない。悪いことだからだ。分かるな、カズヤ。敵は敵だ」
ヴィーレの吐息が耳にかかる。
低い音色が鼓膜を揺らすたび、カズヤは奈落に落ちていくような絶望感に襲われた。相手の言葉が詭弁だと分かっていても、鳥肌が背筋から全身に拡がっていく。
つまり、『障害と認識したなら、誰であろうと容赦しない。腹を括って白状しろ』と。
彼はそう告げているのだ。
「いいか、よく聞け。お前に残された選択肢は二つきりだ。質問に答えるか、拷問に答えるか」
ヴィーレの赤い瞳がこちらの眼前まで来る。
体にかかる拘束が一層強くなり、日陰にいるはずなのに、汗が先よりも激しく吹き出てきた。
カズヤの精神は段々と磨耗していく。
「この場で選べ。今すぐに」
やり取りをしながら懸命に組み立てていたプランがあっさり消し飛んだ。カズヤの頭の中は空っぽになってしまう。
だからだろうか。
勇者の言は、脳内で幾度となく木霊した。




