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第二話 書き足される日記

 その日の午後、劉生は大学へ向かった。


 文学科の講義では、西洋文学史を専攻する教授が、近代小説の成立について熱弁を振るっていた。


 劉生は講義を熱心に聞き、ノートを取った。


 もっとも、彼にとってノートは記憶の補助というより、考えを整理するためのものだった。


 教授が話した言葉は、すでに頭の中に残っている。


 しかし、覚えていることと理解していることは違う。


 劉生は教授の言葉を反芻しながら、自分なりの解釈を書き添えていった。


 帰りには書店に立ち寄り、以前から欲しかった文学評論を一冊買った。


 寮に戻った頃には、すっかり日が暮れていた。


 夕食を済ませ、風呂に入り、明日の講義の予習を終える。


 その頃には、身体に疲れが出始めていた。


 劉生は咳を一つすると、文机の上に広げていた本を閉じた。


 今夜は早く休もう。


 そう思って布団を敷き、灯りを消そうとした。


 だが、その前に、ふと文机の引き出しが気になった。


 昼間の日記。


 明日になったら寮監に届けるつもりだったが、あの最後の一文が妙に引っかかっていた。


『そろそろ、あのことにも決着をつけねばならない』


 何かを決意したような書き方だった。


 それまでの日常的な記述とは、どこか趣が違っていた。


 劉生は引き出しを開けた。


 黒革の日記は、昼間と同じ場所に収まっていた。


 何気なく表紙を開く。


 そして、手が止まった。


 最後の記述の次の頁。


 昼間には何も書かれていなかったはずの場所に、一行の文字があった。


『本日、新たな住人が入る。名は柳井劉生』


「………」


 劉生は瞬きをした。


 もう一度、文字を読む。


 柳井劉生。


 確かに、自分の名前だった。


 昼間、この頁(ページ)には何も書かれていなかった。


 それは間違いない。


 劉生は日記を最初から最後まで確認している。


 紙の黄ばみ具合も、頁の端に残っていた小さな染みも、すべて覚えていた。


 そして、この文字が昼間には存在しなかったことも。


 劉生は日記を窓際へ持っていき、灯りに透かしてみた。


 紙の繊維に墨が染み込んでいる。


 文字は、他の頁と同じ細く几帳面な筆跡だった。


 それだけではない。


 古い記述の墨は年月を経て茶色がかっているのに対し、新しい一行は黒々としていた。


 つい先ほど書かれたもののように見える。


 誰かが部屋に忍び込んだのだろうか。


 しかし、昼間は戸締まりをしていた。


 鍵を持っている寮監なら入ることもできるだろうが、わざわざ古い日記に新しい住人の名前を書き込む理由が分からない。


 劉生はしばらく考え込んだ。


 不可解ではある。


 しかし、何もかも怪異の仕業と決めつけるのも早計だった。


 自分が知らない事情があるのかもしれない。


 日記の持ち主が誰なのか。


 いつ、この部屋を使っていたのか。


 まずは寮監に尋ねてみるべきだろう。


 そう考え、劉生は日記を閉じた。


 明日の朝、確認しよう。


 今夜はもう休んだほうがよい。


 身体が弱いことは、本人が誰よりも承知していた。


 劉生は日記を引き出しに戻し、灯りを消した。


 ――◇◇◇――


 夜学寮が静まり返ったのは、夜も更けてからだった。


 遠くの部屋から聞こえていた学生たちの話し声も、いつしか途絶えていた。


 古い木造建築は、夜になると不思議な音を立てる。


 柱が軋み、床板が鳴り、風が吹けば障子がかすかに震える。


 劉生は布団の中で目を閉じていた。


 しかし、なかなか寝つけなかった。


 昼間の疲労はある。


 眠気もある。


 それでも、あの日記のことが頭から離れなかった。


 自分の名前。


 新しく書き加えられた一行。


 あれは誰が書いたのだろう。


 考えても答えは出ない。


 劉生は小さく息を吐いた。


 そのときだった。


 ぱらり。


 紙の擦れる音がした。


 劉生は目を開けた。


 音は、すぐ近くから聞こえた。


 文机の方角である。


 ぱらり。


 また聞こえた。


 風ではない。


 窓は閉めてある。


 それに、この音には覚えがあった。


 昼間、自分が日記の頁をめくったときの音。


 紙の厚みと、擦れ合うときの微かな響きまで、まったく同じだった。


 劉生は布団の中で身を固くした。


 ぱらり。


 ぱらり。


 誰かが、日記をめくっている。


 そんなはずはない。


 日記は引き出しの中にしまった。


 部屋には自分以外、誰もいない。


 劉生はゆっくりと顔を文机の方へ向けた。


 暗闇の中に、机の輪郭がぼんやりと浮かんでいる。


 引き出しは閉まっていた。


 何も動いていない。


 それなのに、音だけが続いていた。


 やがて、ぴたりと止まった。


 劉生は息を殺した。


 しばらく、何も聞こえなかった。


 ようやく気のせいだったのかと思い始めた、そのとき。


 さらさら。


 今度は、別の音がした。


 紙の上を、筆先が走るような音だった。


 さらさら。


 さらさら。


 一定の間隔で、何かを書きつけている。


 劉生は、文机の引き出しを見つめた。


 音は間違いなく、そこから聞こえていた。


 背筋に冷たいものが走った。


 誰かがいるのか。


 それとも。


 劉生は布団から手を出しかけた。


 確かめなければならない。


 何が起きているのか、この目で見なければ。


 しかし、指先は途中で止まった。


 もし引き出しを開けて、そこに何かがいたら。


 あるいは、何もいなかったら。


 どちらのほうが恐ろしいのだろう。


 結局、劉生は布団を頭まで引き上げた。


 さらさら。


 音は、なおも続いていた。


 やがて、それも止んだ。


 寮は再び静寂に包まれた。


 しかし、劉生はその後も長いこと眠ることができなかった。


 ――◇◇◇――


 翌朝。


 窓の外から差し込む春の陽射しに、劉生は目を細めた。


 結局、ほとんど眠れなかった。


 身体は重く、頭の奥が鈍く痛んでいる。


 劉生は布団から起き上がると、文机の前に座った。


 昨夜の音。


 あれが夢だったとは思えない。


 頁をめくる音も、筆先が紙を擦る音も、今なお耳の奥に鮮明に残っている。


 劉生は引き出しを開けた。


 日記が、そこにあった。


 手に取り、表紙を開く。


 昨日、新たに書き加えられていた一行。


『本日、新たな住人が入る。名は柳井劉生』


 その次の頁にも、文字があった。


『柳井劉生は、昨夜、眠れなかった』


 劉生は息を呑んだ。


 さらに、その下にはもう一行。


『今夜は、もっと眠れなくなるだろう』


「……何なんですか、これは」


 劉生は思わず呟いた。


 自分が眠れなかったことを、どうして日記が知っているのか。


 それも、昨夜の出来事である。


 誰かが見ていたのだろうか。


 しかし、そんな気配はなかった。


 劉生はもう一度、頁を確認した。


 文字の形。


 墨の濃さ。


 行間。


 いずれも、昨日までの日記と同じ筆跡だった。


 ただ、最後の一行だけが妙に新しい。


 劉生は指先を近づけた。


 墨は、すでに乾いていた。


 しばらく日記を見つめていたが、やがて静かに閉じた。


 窓の外では、春の陽が明るく差していた。


 帝星大学の鐘が鳴り、学生たちの声が遠くから聞こえてくる。


 いつもと変わらぬ朝だった。


 そのとき、廊下を慌ただしく駆ける足音がした。


「おい、聞いたか!」


 誰かが叫んでいる。


「大変なことになったぞ!」


 続いて、別の学生の声が聞こえた。


「何だよ、朝っぱらから」


「寮の下の辻だよ!お巡りが大勢集まってる!」


 廊下がにわかに騒がしくなった。


 劉生は日記から顔を上げた。


「辻……?」


 昨夜、日記に書き加えられた一文が、ふと頭をよぎった。


『今夜は、もっと眠れなくなるだろう』


 劉生は閉じた日記を見下ろした。


 その黒い表紙は、何事もなかったかのように朝の光を受けていた。


 やがて廊下から、ひときわ大きな声が響いた。


「人が死んでるんだとよ!」


 劉生は、しばらく動かなかった。


 日記と、辻で起きた出来事。


 今のところ、両者を結びつける理由は何もない。


 そう考えながら、劉生は日記を引き出しに戻した。


 だが、その日の朝を境に、夜学寮の周囲では一つの噂が囁かれるようになる。


 夜の辻に、人を殺す鬼が出る。


 後に「辻鬼」と呼ばれる怪事件の、始まりであった。

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