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第一話 前の住人の日記

 帝星大学に入学した春、柳井劉生(やないりゅうせい)は、医者からあまり歩き回らぬよう忠告されていた。


 生まれつき身体が弱く、少し無理をすれば熱を出し、雨に濡れれば数日寝込む。


 幼い頃から病床で過ごすことが多く、同年代の若者のように駆け回った記憶もほとんどなかった。


 それでも劉生は、帝星大学(ていせいだいがく)の文学科に進むことを諦めなかった。


 帝星大学は、帝国随一の国立大学である。


 法学、医学、理学、工学など、各分野で優れた人材を輩出してきた名門で、全国から才気ある若者が集まっていた。


 なかでも文学科は、少々変わった気風を持っていた。


 西洋の新思想を論じる者、古典の研究に没頭する者、文壇で名を上げようと小説を書き散らす者。


 夜を徹して哲学書を読み耽る学生も珍しくない。


 劉生にとって、そこは憧れの場所だった。


 ただし、学問を続けるには金がいる。


 身体の弱い劉生には、学費と生活費を十分に賄えるほどの余裕がなかった。


 そこで住まいに選んだのが、大学から少し離れた丘の上に建つ学生寮だった。


 通称、夜学寮。


 正式な名称は別にあったらしいが、学生たちは皆そう呼んでいた。


 大学の創立間もない頃に建てられた木造2階建てで、壁は黒ずみ、廊下の板は歩くたびに軋んだ。


 中庭には桜の木が1本あり、枝は2階の窓に届くほど伸びている。


 夜になると、誰もいない廊下から足音が聞こえるという噂もあった。


 もっとも、古い建物には怪談の1つや2つ、つきものだろう。


 入寮したばかりの劉生は、そう考えていた。


 劉生は20歳前後の青年だったが、実年齢よりも幼く見えた。


 小柄で華奢な身体つきに、色白であどけなさの残る顔立ち。


 柔らかな飴色の髪は首筋にかかるほど長く、整った中性的な容姿から、初対面では女性に間違われることもあった。


 本人は慣れていたものの、周囲から必要以上に身体を気遣われることには閉口していた。


 ただ静かに本を読んで暮らせれば、それでよかったのである。


 ——◇◇◇——


 劉生にあてがわれたのは、2階の奥から2番目の部屋だった。


 広さは6畳ほどで、北向きの窓が1つ。


 机と文机、古びた箪笥が置かれている。


 畳はところどころ擦り切れていたが、寝起きするには十分だった。


 荷物を下ろした劉生は、まず窓を開けた。


 春の風が吹き込み、遠くから学生たちの話し声が聞こえてくる。


 やがて校舎の方角から鐘が鳴った。


 6つ。


 最後の余韻が消える直前、遠くで犬が1声吠えた。


 中庭では、風に揺れる桜の枝が窓枠を軽く叩いている。


 劉生は、そうした音を何気なく聞いていた。


 彼には、生まれつき奇妙な性質があった。


 1度見たもの、聞いたもの、嗅いだもの、味わったもの、触れたもの。


 五感を通じて知覚した事柄を、ほとんど忘れないのである。


 昨日の夕食の味も、3年前に通った路地の景色も、幼い頃に聞いた母親の声も、思い出そうとすれば鮮明に蘇る。


 しかし、劉生自身はそれを特別な能力とは考えていなかった。


 物心ついた頃からそうだったため、誰もが同じように覚えているものと思っていた時期さえある。


 やがて、それが普通ではないと知った。


 ただし、何もかも覚えているからといって、すべてを理解できるわけではない。


 記憶に残るのは、あくまで自分が知覚した事実だけだ。


 そこにどんな意味があるのかは、自分で考えなければならなかった。


「……悪くない部屋ですね」


 劉生は小さく呟いた。


 窓の向こうには中庭と古びた木塀があり、その先に町の屋根が幾重にも重なっている。


 これから、ここで暮らすのだ。


 書物を読み、思索に耽り、いつか自分も何かを世に残したい。


 病弱な身でも、筆さえ動けばできることはある。


 そう思うと、少し気分が晴れた。


 荷解きを終えた劉生は、文机の引き出しを開けた。


 中は空だった。


 次の引き出しにも何もない。


 ところが最後の引き出しだけは、何かが引っかかって動かなかった。


 少し力を込めて引き出すと、奥に薄い紙の束が押し込まれていた。


 取り出してみると、1冊の日記だった。


 黒革の表紙は四隅が擦り切れ、右下には白い紙片が貼られている。


 そこに墨で小さく記されていた。


 ――日記。


「……前の住人のものでしょうか」


 退寮の際に置き忘れたのだろう。


 本来なら寮監に届けるべきだが、劉生はつい好奇心に負けた。


 文学を志す身として、他人の日記には興味がある。


 もちろん、無断で読むのは褒められたことではない。


 少し迷った末、劉生は表紙を開いた。


 最初の頁には日付があり、その下に1文だけ書かれていた。


 大正7年4月1日。


『本日、夜学寮に入る』


 簡潔な書き出しだった。


 筆跡は細く、几帳面である。


 次の頁には翌日の日付があった。


『隣室の男は、夜中にうなされる。何を言っているのかは分からない』


 さらに次の頁。


『食堂の味噌汁は薄い。寮監は妙に愛想がよい』


 その次。


『裏庭の桜が咲いた』


 取り立てて奇妙な記述はない。


 どこにでもいる学生が、日々の暮らしを書き留めたものらしい。


 劉生は頁をめくった。


 4月が過ぎ、5月に入り、やがて夏が近づく。


 授業や友人、読んだ本のことなどが、変わらぬ筆跡で淡々と綴られていた。


 そのなかに、時折、体調を崩したという記述があった。


『咳が止まらない』


『今朝は起き上がれなかった』


『医者は肺が弱いと言った』


 劉生は頁をめくる手を止めた。


 他人事とは思えなかった。


 自分も幼い頃から医者の世話になってきた身である。


 思うように動けない苦しみは、よく知っていた。


 前の住人も、自分と似た境遇だったのかもしれない。


 そう思うと、単なる好奇心では済まなくなった。


 読み終えたら寮監に届けよう。


 そう決めて、劉生は最後の記述を探した。


 日記は8月31日で終わっていた。


『明日から9月だ。大学では新しい講義が始まる。そろそろ、あのことにも決着をつけねばならない』


 そこで記述は途切れていた。


 劉生は首を傾げた。


 あのこと、とは何だろう。


 気になって残りの頁をめくったが、すべて白紙だった。


 最後まで確かめ、日記を閉じた。


 そのときだった。


 窓の外で、桜の枝が大きく揺れた。


 春の風は穏やかなのに、その枝だけが誰かに掴まれたように揺れている。


 劉生が顔を上げると、枝の向こうに2階の窓が並んでいた。


 誰もいないはずの向かいの部屋で、障子がすっと閉じた。


 劉生はしばらく、その窓を見つめていた。


 誰かいるのだろうか。


 それとも、風で動いただけか。


 わざわざ確かめに行くほどのことでもない。


 劉生は日記を文机の引き出しにしまった。


 ただ、最後の1文が妙に気にかかった。


『そろそろ、あのことにも決着をつけねばならない』


 前の住人は、何に決着をつけようとしていたのだろう。


 その答えは、白紙の頁のどこにもなかった。

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