第八話 くまとうさぎは恋する
婚約披露の宴が終わり、紗と誠一はやっと二人だけの時間を過ごせることになった。
人の波が引いた廊下。
静かな庭園へ続く回廊。
夜風が、少しだけ冷たい。
紗はドレスの裾を押さえながら歩く。
隣に神崎がいて、二人は手をつなぐ。
思えば今日はずっと、指に触れ、腰に手を回し、引き寄せられ
……ずっとそばにいた。
それが互いにとってうれしく、緊張など二の次だった。
そして、今日二人を邪魔するものは誰もいない。
噂も視線もない。
初めての、本当の二人きり。
「……疲れてないか」
神崎の低い声が紗の耳元に響き、紗はそれだけで背中がくすぐったくなる。
「ううん、大丈夫」
でも今日は、その“だいじょうぶ”が少し違う。
今まではごまかすような大丈夫。
でも今は、うれしいの大丈夫。
神崎は足を止める。
「紗」
名前で呼ぶ。
婚約してから、まだ数回しか呼んでいない。
紗の心臓が跳ねる。
神崎はゆっくり、手を差し出す。
「触れてもいいか」
確認するしぐさ。
いつだって、確認してくれる。
(もう、今日ずっと手を握っていたのに)
紗は小さく笑う。
「もう、婚約者だよ?」
でもその声は少し震えている。
神崎は指先で、そっと彼女の手を包む。
はじめての、ふたりだけの時間で恋人の手つなぎ。
そして――
指を絡める。
恋人つなぎ。
神崎の鼓動が一気に上がる。
(まずい……)
柔らかい。
細い。
温かい。
理性が、静かに削れる。
紗は、じっと見上げる。
「誠一さん」
呼び方が、少し甘い。
神崎の喉が鳴る。
「……どうした」
紗は一歩、近づく。
「今日ね」
胸元に、こつんと紗は額を押しつける。
「渡さない、って言ってくれたの、うれしかった」
神崎の呼吸が乱れる。
(距離が近い)
今まで触れないことで守ってきた。
きっと自分の理性が崩壊し、彼女を傷つけるから。
だが今は、触れている。
自分は理性を保てているか――。
混乱しかけても、それでも理性はどうにか保っている。
二人は、会場の一室にある休憩室へ行き、ソファに座った。
あらためて紗を見ると美しい。
誠一は、すっかり魅了される。
互いに近い距離で見つめ合う。
彼女は、逃げない。
もっと近づいてくる。
むしろ――紗は、彼の膝にちょこんと座る。
神崎の思考が止まる。
「……紗」
「婚約者だから、いいよね?」
にこっとうさぎの顔。
きゅるんと潤む瞳は、計算なのか天然なのか。
積極的で軽やかに、理性をぶちこわすしぐさ。
神崎の腕が反射で彼女を支える。
柔らかい体温が密着する。
(理性が……心頭滅却!!!)
内心、自分に何度も喝を入れる。
必死に呼吸を整える。
「あまり、調子に乗るな」
声は低い。
紗はじっと見上げるが、その声色は決して責めるものではない。
(誠一さん、優しい)
紗はくすっと笑う。
「誠一さん、わたしのこと、嫌い……じゃないでしょう?」
ばれている。神崎は目を閉じる。
深呼吸。
「……嫌いなわけあるか」
「じゃあ、安心。わたしも誠一さんと同じ気持ちだから、ずっと……」
紗は彼の胸に頬を寄せる。
神崎の腕が、ゆっくり彼女を抱きしめる。
強くしない。力を込めて彼女を壊したくないから。
でも、本当は彼女を強く、もっと強く感じたい。
そんな未熟な自分に叱咤する。
うさぎは、安心した顔で目を閉じる。
くまは、必死で戦う。
これから始まる毎日の攻防。
触れても壊さない距離。
くまは必死に守る。
己の力が彼女を壊さないように。
触れられるからこそ必要な理性。
「紗」
「ん?」
「俺は、君を大切にすると誓う。だから、あまりあおらないでくれ……俺が一番信用ならない」
紗は笑う。
「負けないでね。誠一さんは強い人だもの」
神崎は苦笑する。
「努力する」
夜風が通り抜ける。
庭園の灯りが窓から差し込む。
休憩室から見える、日本庭園。
月のおぼろげな光が、長い夜を包み込む。
静かな室内。
二人は穏やかな空気のなか、鼓動だけが早まる。
触れているのに静か。でも、心は熱い。
静かなのに、甘い。
帝光のくまと、うさぎの政略結婚の噂は、いつのまにか運命の恋の話になっていく。
──おわり。
最後までお読み頂きありがとうございました。




