I don’t know my eyes color,but I know yours.
エリザベス・ノーランド シューのナニー
黒い喪服を着たまま、シューはベッドの上で蹲っていた。シューのナニーであるエリザベス・ノーランドが亡くなり、この先どうなるのか分からない不安がまだ8年しか生きていない幼子に闇を齎した。
「ギャハハ、貴族の坊ちゃんがそんな面白い顔してどうしたよ。」
しんと静まり返った豪華な子供部屋に相応しくない下卑な笑い声が響き、シューは面をあげた。そこにいたのは、まあ見事に目を逸らしたくなる容貌の悪魔だった。
「君は、何。」
「おおお、俺様を知らねえか?こう見えても凄え有名人なんだぜ。」
「君みたいな顔一度見たら忘れないと思うけど、知らないよ。」
「テメエの無知を俺様に押し付けるなんて、里が知れるぜ。」
「幸せだね。ただ井戸の中に住んでるのを知らないなんて。」
「空の青さを知らねえお前よりは確実に幸せだぞ。」
目の前の悪魔の言葉に苛立ちながらも、シューの顔は少し緩んでいた。久しぶりに他者と会話をしていたのだ。ナニーのエリザベスが病にかかり、他にシューを世話する人間もいたのだが、マトモに会話をしてなかった。週に何日か来る家庭教師たちとも業務連絡程度しかなかった。
「そう、なら教えて。空が本当に青いのか。」
「実は緑色なんだぜ。」
「そう、色覚異常かな?」
「お前の青い目で見る空と俺様の黒い目で見る空が本当に同じ色に映っているかどうかも知らねえで。」
悪魔は耳障りの笑い声をあげる。
ティキ・シルヴィアはいつも楽しそうに笑っていた。彼の手にかかればどんな悲しいことも苦しいことも滑稽な喜劇のように見えて、ああなんと世界は愉快なことか。ただの錯覚だったとしてもそれで良かった。
眠れなかった。エリザベスのことを思い出すと同時にティキの事も思い出す羽目になって、心の泉に、重い石が沈んだようだった。隣にいたカーティスが起きるとともに、シューの顔を覗きこんだ。
「おはようございます。随分『早起き』なんですね。」
「そうなんだよ。何と起きたのは昨日の朝8時だから。」
シューは冗談を言われたから冗談で返したが、何とも返せなくなったカーティスは不安そうに眉を寄せた。
「休みます?突然の環境の変化に体調を崩したと言えば納得されるでしょう。」
「いいよ、眠くもない。」
カーティスは悩んだが、シューの服を着替えさせて髪を整える。強がっているわけで吐く本当に眠くなさそうだったためだ。体調がよくさなそうなら、午後から休ませればいい。カーティス1人ではなく、フィリップも居るのだから無理させる事もないだろうと踏んだのだ。
「不眠なら、私がスリープをかけてやる。昼寝の時間にも寝れそうにないなら任せろ。」
「起きた後怠そうだよ。」
「自分で回復魔法をかけておけばいいだろう。」
自分を心配する人間がカーティス以外にも増えた事は嬉しいが、同時に煩わしさも増えたなと感じる。
朝の義務、祈りの時間、食事と掃除が終わっていつもの奉仕作業に入る。だが、昨日ディーンと会ったことで少し心持ちが変わった。昨日と同じような暗く淀んだ雰囲気だ。
ずっとこの世界の病気は、仕方ないものだと、研究がされていないのだから、シュー1人で改革をするのは狂人扱いされかねないと諦めていた。
「プロパカンダにもある程度の実証実験は必要だと思わないかな?」
【ふふ、いいんじゃないかしら?】
ルルが居なくなった後も、フアナはシューの側にいる。彼らは仲良くないけれど、ティキがいなくなる時に彼女もいなくなる気がしていたから、妙に安心する。
シューは脳外科医のようには動けないし、牛痘を使うことすらもできない。それでも、シューは病に関する魔法は良く知っている。しかも、ここは美代子のいた世界じゃない。全く別の世界だ。それを美代子の術に頼るのは間違っている。
転生した美代子がやることは、バッドエンディングの阻止だ。しかし、美代子の記憶を持ちその先を生きるシューがやるべきことはこの世界の感染症の犠牲者を減らすことだと思えたのだ。
「とりあえず、今は少しの人を助けようか。」
【ああ、手伝おう。】
「問診してきますね。」
騒ぐ原因が居なければ、医院の中は魔法を唱える呪文以外は殆ど静かだ。元々ここは神聖な神殿だから、無闇矢鱈に騒ごうとする人間はいない。しかし、時には痛みに騒ぐ患者やヒステリックを起こす人間もいる。
「この人殺し!」
1人の中年くらいの女性がそう叫んだ。美代子の世界において医療過誤は繊細で難しい問題があったが、光の魔法によっての治療は、「治る」か「何の改善も起きない」の2つの結果しか出てこない。
「貴方のせいでこの子が死んだわ!」
だから、神殿の治療が原因で死が早まったり、死を招いたりすることはない。あるのは「間に合わなかった」、「魔法が効かなかった」のどちらかだ。それでも、患者の家族は深い悲しみを修道士たちにぶつけてしまう。頭の中では分かっていても激情は止まらない。 詰られている可愛そうな相手は誰だろうかと振り向いて確認すると、それはあまり血色の良くないディーンだった。
「あれは。」
カーティスもそれを認めたらしい。
「良くないね。ただでさえ彼は助けられなくって嘆いていたのに。」
いつもならヘラヘラと笑って誤魔化せても、今の彼の心理状態からは難しいはずだ。シューはすぐさま転移魔法で女性とディーンの間に入る。
「惑わす波音に囚われ、セイレーンの唄を聞き入れよ。眠れ!」
「ちょ、貴方…。」
シューの魔法によって女性は倒れこみ、後ろにいた男性に抱きとめられた。その女性にもその男性にも見向きもしないで、シューはディーンに向いた。
「これくらいいつもの事、ですよね。」
「…あ、いや。」
「ご婦人には悪いけど、僕たちは万能じゃないんだから。」
女性を抱きとめた男性がシューを睨んだいた。背を向けているシューは気づかないが、ディーンには良く見えた。
「シュー。」
ディーンは何か言いたげにシューの名を呼んだが、言葉にはならなかった。シューも患者を投げ出す訳にはいかないから、すぐ自分の持ち場に戻った。
【言葉は選ぶべきよ。】
肩に乗るフアナは注意した。確かに息子を亡くした人間の前で「よくあること」と一蹴するような言い方は怒られても仕方がないことだ。
【よくあることでも、彼らにとっては掛け替えのない宝物なのだから。】
【僕の手は小さいから、救えない人にまで手を出せないよ。それが患者の家族なんて気にしていたら僕が今度壊れるよ。】
それがただ一言だったとしても、シューはその言葉を選ぶのに労力がかかるのだ。いつか切り捨てた報いがあったとしてもそれも仕方ないと諦めている。
【可愛そうなくらい、貧相な子ね。】
偶にフアナはシューの母親のようなことを言うが、本当に母親だったら手放しで甘えたのに、あちらから言われるのみだ。
昼寝の前の治療を終わらせて、シューは欠伸しそうになるのを抑えながら医院を出た。寄宿舎に戻る前、ディーンに呼び止められた。
「さっきはありがとう、ごめん。あのままずっと聞いていたら立っていられなかった。」
「あの人の言葉は、修道士が辞めかねないです。ただでさえ、人手が足りないのに。助けられないのは仕方ないんです。」
「でも、シューなら救えたよ、僕の魔法の効きが悪かったんだ。」
「僕には元々救えなかったんです。だって、僕は他の人の治療をしていたんだから。」
ディーンがシュー程の力を持っていれば確かに救えたのかもしれない。しかし、現実シューは1人しかいなくて、彼はシューの手には届かない人だった。シューを中心に考えれば、彼は元々治療を受けられずに死んでいた子で、ディーンが手を伸ばしたから「助かるかもしれない」に格上げされただけなのだ。
「…あはは、君って自己中って言われない?」
「天上天下唯我独尊とは言われたけど、自己中とは言われたことがないです。」
「それ、もっと酷いよ。」
「でも、分かるでしょう。比較するだけ無駄なんだって。」
「まあ、そうだね。僕はそこまで自分中心には考えられないもの。」
ディーンはどこかスッキリしたように笑い、シューの前から去っていった。
「自己中心な心が人を救うこともあるのだな。」
猫の代わりに抱いている黒兎は呆れを含ませた感嘆の言葉を吐いた。
美代子の世界でも、人命に関わる世界だったから多くの人の涙と叫びを見た。どんなに技術が進んでも、人の命が救われても、人を失った時の心の苦しみは消えることがない。 それでも、やはり救えたらいいと思ってしまう。
「でも、やっぱり国レベルの仕事なんだよねぇ。」
「なら、シューにうってつけですね。」
シューの昼寝の準備をしながら、カーティスはにっこりと微笑んだ。
「誰よりも国政に近い方が身内じゃないですか。」
思わず固まった。それはそうだ。そして、前なら彼らと話をするなど論外だと思っていたが、そうだなとしっくり来ている自分にも驚いていた。
「そうだね。」
「なので、今は少しでもお休みください。」
黒兎は寝ないようなら無理にでも魔法をかけるような動きを見せた。カーティスはシューに布団をかけるとオルレアンの歌を歌い始めた。エリザベスもティキも基本的に歌うのはアルビオンの歌詞の方だったから、不思議な気持ちだ。しかも、同じメロディなのに歌詞の意味が全く違っていて、妙に気になった。それでも、心地の良いメロディにいつのまにか目を閉じていて寝ていた。
今更ライティングの授業をもっと真面目に受けておけばよかったと思ってます。