第106話 雲外蒼天
上へと高く跳躍した桃花は、右の拳を体の後方へと大きく引き絞った。
宙空で同時に体も捻りながら、全身の力を一点へ集約していく。
その構えは、ただの突撃ではない。
何か強力な一撃を放つ。
そのような構えであった。
「信繁おじちゃん! 私の技、受けられるかなっ!」
「ん?」
桃花の口から飛び出したのは、露骨なまでの挑発。
勝負に出てきた桃花の発言を聞いた信繁は、一瞬だけ目を見開く。
だが、すぐにそれを察し、「なるほどね」と声を漏らした。
その唇が楽しげな弧を描いた。
「オーケー、乗ってやるよ! その方がわかりやすくていい!」
そう言うと信繁は、自分の右拳と左掌を体の前で合わせ、パシッと小気味良い音を立てた。
彼女の意図を正確に受け止めた信繁の瞳に、好戦的な火が灯る。
場の空気が一気に熱を帯びていく。
互いの力と力を真正面からぶつけ合う、真っ向勝負。
上空から凄まじい勢いで繰り出される桃花の攻撃。
それを地上で迎え撃つ信繁。
この位置関係と流れを見る限り、どう考えても有利なのは桃花の方である。
攻撃の主導権。
高所からの加速。
落下による威力増加。
全てが彼女に傾いており、圧倒的に優勢であるように思われた。
それにもかかわらず、下から見上げる信繁は、変わらず楽しそうな表情をしている。
いささかの焦りも浮かんでいない。
その余裕に、観戦している一同の肌に緊張が走る。
——そして、ついにその瞬間が訪れた。
「うおぉりゃぁぁぁーーーっ!!」
裂帛の気合と共に、桃花は勢いよく、全ての力を乗せたその拳を全力で振り抜いた。
彼女が放ったのは、おばあさん直伝の破壊の剛拳『打破是空隕』。
体内の気を増幅し、練り上げた見えない拳。
飛ぶ拳。
それは、前方にある空間そのものを弾き出し、重力と共に猛烈な質量を地へ落とす高圧縮の一撃。
この凄まじい圧力と速度を持つ未知の攻撃を初見で避けることなど、まず無理であろう。
ましてや、真っ向から防ぐなど以ての外。
こんなものが直撃した瞬間、相手は地面ごと押し潰されて吹き飛ぶ。
間違いなくタダでは済まない。
運が良かったとしても、大怪我は免れない。
それどころか、その余波で周囲の家や店までも甚大な被害が及ぶ可能性すらあった。
しかし、今の桃花の頭からは、手合わせ前に信繁が言った「お互いに怪我したら大変だからな」という言葉が完全に抜け落ちていた。
そんなアホみたいに近所迷惑な技を、この女は躊躇なく使ったのである。
ただ信繁に勝ちたいという、その一心のためだけに。
凶悪強烈な技が放たれ、その標的となった先に佇む信繁。
だが彼は、怯むどころかニヤッと口角を吊り上げる。
そして、桃花が拳を振り抜く一瞬の動きに合わせ、信繁もまた、自らの拳を桃花へ向けて大きく突き出した。
まるで空間そのものを殴り飛ばすような一撃。
信繁は、桃花が放った全く同じ性質の技を、咄嗟に使ってみせたのだ。
するとその瞬間——
何もない二人の直線上にて、互いの技が空間上で激突。
鼓膜を震わせる轟音と共に激しい爆発が発生した。
空気が悲鳴を上げる。
その際に生じた凄まじい衝撃波が周囲へと広がり、周囲の空気が目に見えるほど激しく揺れ動いた。
「ほえっ!?」
この刹那、桃花は何が起きたのか理解できなかった。
自分の技が途中で止められた……いや、相殺された。
目の前の出来事があまりにも規格外すぎて、脳が現実を処理しきれない。
だが、その一瞬の動揺が命取りとなる。
桃花は、爆ぜた空間から放たれた衝撃波をまともに受け、空中で体勢が大きく崩れた。
激しく乱れる空間の余波に巻き込まれ、体の制御が効かない。
彼女の体は、重力に従って地面へと真っ逆さまに落ちていく。
「ぐっ、これ……ヤバいっ!」
まともに受け身を取れる姿勢ではなかった。
このまま硬い地面へと叩きつけられてしまえば大怪我は確実。
最悪の場合、当たりどころが悪ければ死に至る。
それを察したケルベロスが、顔色を変えて叫ぶ。
「危ない桃花ちゃん!」
彼女を救うべくケルベロスが駆け出そうとした。
その時——
「あらよっと!」
風を切る軽い発声と共に、信繁が地面を蹴った。
一瞬で桃花の元へ飛び上がる。
そして空中で体勢を崩している彼女を、サッとお姫様抱っこの要領で、腕の中へとナイスキャッチした。
あまりにも自然。
あまりにも軽やか。
そのまま信繁は、桃花を抱えた状態で安定感抜群の着地を披露する。
まるで、最初からそうなるのが分かっていたかのような動きだった。
その鮮やかな救出劇に、駆け出そうとしていたケルベロスはもちろん、フィオンや六郎も、桃花が無事であるのを見て、ホッと安堵の表情を浮かべる。
張り詰めていた空気が、一気に緩んだ。
だが――
その渦中の当の本人の反応はというと……。
「っ!!」
まさか、あの状況からお姫様抱っこで助けられるなど、夢にも思っていなかったのだろう。
顔は真っ赤。
両手を胸の前でぎゅっと握り締め、目がぐるぐると回っているかのように混乱している。
脳が完全に処理落ちしていた。
胸の鼓動が早鐘のように鳴りまくり、うるさい。
そんな彼女の異変に気づいた信繁は、純粋に心配そうな顔つきになり、覗き込むように声をかけた。
「おい大丈夫か? 顔色が悪いぞ。どこか痛むのか?」
「ひぇぇ……。い、いえ……。大丈夫、デスけど……?」
上気した顔のまま、完全に裏返った妙な敬語で答える桃花。
「そうか? もし気分や体調が良くないんなら……」
「だ、大丈夫! そういうのじゃないから! だから、下ろしてくださいませ……」
食い気味だった。
嬉しくないわけではない。
むしろ嬉しい。
だが、それ以上に恥ずかしさが勝っていた。
桃花がそう伝えると、信繁は「お、そうか」と言い、そっと彼女を地面へ下ろす。
そして無事であることを確認すると、大きな手を桃花の頭へポンと乗せた。
「うんうん! 怪我はなさそうだな! 良かった良かった!」
安堵から、信繁の顔にいつもの快活な笑顔が戻った。
その瞬間、判定人を務める佐助の声が響き渡る——




