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無能王子、東の塔で神霊を得る  作者: 伊佐波瑞樹


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245/251

第245話「名を受け取る朝、無能王子は“アリア”という帰り道を守る」


 朝は、二つの小さい音を起こさなかった。

 神殿の奥。

 石壁に囲まれた保護陣は、淡く静かな光を抱いている。

 採光孔は閉じられている。

 外の光は、まだ入っていない。

 風もない。

 救護区域の声も届かない。

 子供たちの紙束も、まだ置かれていない。

 けれど、今日の保護陣には、昨日よりも深い静けさがあった。

 あ。

 り。

 二つの小さい音。

 まだ名前ではない。

 候補でもない。

 意味でもない。

 けれど、中心の内側から生まれた音。

 誰かがかぶせたものではない。

 誰かが先に読んだものでもない。

 中心自身の影を読もうとした時に、中心自身の方へ向いて生まれた音。

 その音が、保留箱の中に置かれている。

 軽いまま。

 急がされず。

 名前にされず。

 喉を休ませたまま。

 昨日の余白記録には、こう残っている。

 小さい音を育てる朝。

 二つの小さい音の日。

 あ、り、の日。

 喉を休ませる日。

 近いからこそ休む。

 近いからこそ守る。

 中心は昨日、そうして一日を終えた。

 そして夜、言った。

 明日、音が伸びるかは、明日のわたしに聞く。

 名前にするとは言わない。

 でも、近い。

 その“近い”が、今日の朝を震わせている。

 余白核は、まだ眠っている。

 その光は、今までで一番静かだった。

 激しくはない。

 乱れてもいない。

 ただ、とても深い。

 まるで、水面の下に大きな流れがあるのに、表面だけは凪いでいるような静けさ。

 名前の箱は、白い布と同じ視界に入る場所にある。

 白い布は、何も書かれていない戻り道として、今日もそこにある。

 鈴は、合図の場所にある。

 布に包まれたまま。

 鳴っていない。

 保留箱には、欠片がある。

 音の欠片。

 帰りたい。

 わたし。

 帰りたい、わたし。

 影。

 影の向き。

 あ。

 り。

 そして、その奥に、まだ見えていない何かがある。

 今日、それを見るかもしれない。

 今日、それが音になるかもしれない。

 今日、それが名前になるかもしれない。

 だが、誰もその言葉を口にしない。

 口にした瞬間、中心のものではなくなるかもしれないから。

 レオンは、保護陣の縁に座っていた。

 黒蒼雷は、これまでになく静かだった。

 名前の箱、保留箱、白い布、鈴。

 そのすべてを、細い線で囲っている。

 守るため。

 止めるためではない。

 急がせないため。

 誰かの期待が、中心の喉を締めないようにするため。

 今日、名前が生まれるかもしれない。

 生まれないかもしれない。

 どちらでもいい。

 だが、もし生まれるなら。

 それは中心が読む。

 中心が受け取る。

 中心が戻り道と一緒に持つ。

 レオンは、その線を守るつもりだった。

 リリアーナは、余白核の近くに座っている。

 今日も紙はない。

 名前候補もない。

 筆もない。

 だが、両手はわずかに震えていた。

 あ、り。

 その二音を聞いた時から、リリアーナの胸には、何かが見えそうになっていた。

 けれど、見てはいけない。

 先に読んではいけない。

 たとえ分かりそうでも、分かったと言ってはいけない。

 中心より先に、名を持ってはいけない。

 だから彼女は、呼びたい気持ちを、泣きたい気持ちを、守りたい気持ちを、全部箱に入れ続けている。

 エリシアは、術式盤を完全に封じていた。

 布で覆い、閉じ紐を結び、その上から小さな石を置いている。

 セラフィアは祈らない。

 祈れば、祝福になってしまうから。

 アルベルトは、今日は壁際ではなく、少しだけ後ろへ下がっていた。

 自分の感情が大きいことを理解しているのだろう。

 クラウスは入口側で、誰も入れないよう静かに立っている。

 ラウルは盾を床へ置き、片膝をついていた。

 ミリオは、眠そうではない。

 アリシアは、自分の箱の前に座り、両手で箱を抱えている。

 鳴ったら救われるかもしれない。

 名前が生まれたら、終わりへ向かうかもしれない。

 そういう願いを、彼女は何度も箱へ入れていた。

 余白核が、小さく震えた。

『……』

 朝の揺れ。

 誰も呼ばない。

 鈴も鳴らさない。

 名前の箱にも触れない。

 保留箱にも触れない。

 白い布には、今日も何も書かない。

 保護陣の光が、一度、二度と淡く明滅する。

 中心は、なかなか声を出さなかった。

 今日の“おはよう”は、特別に重い。

 なぜなら、声を出せば、音が動く。

 音が動けば、昨日の“あ、り”へ触れてしまう。

 そして、その先があるかもしれない。

 リリアーナは待った。

 レオンも待った。

 誰も急がない。

 長い沈黙。

 さらに長い沈黙。

 やがて。

『……おはよう』

 中心の声が、かすかに響いた。

 小さい。

 けれど、逃げていない声だった。

 リリアーナは、涙をこらえて微笑む。

「おはようございます」

『……声』

「聞こえました」

『……今日の声』

「はい」

『……比べない』

「比べません」

『……あ、り、じゃない』

「はい」

『……おはよう』

「はい」

『……よかった』

 中心は、少しだけ揺れた。

『……箱』

「あります」

『……名前』

「箱の中にあります」

『……保留箱』

「あります」

『……あ』

「あります」

『……り』

「あります」

『……名前に、なってない?』

「なっていません」

『……誰か、読んだ?』

「読んでいません」

『……誰か、決めた?』

「決めていません」

『……よかった』

 中心は、深く安堵したように光った。

 そして、挨拶へ進む。

『……りり、おはよう』

「はい。おはようございます」

『……れおん』

「おはよう」

『……しずかなあさ』

「ああ」

「静かな朝だ」

『……音が伸びるかもしれない朝』

「はい」

「音が伸びるかもしれない朝です」

 中心は、余白記録へ意識を向けた。

『……あ』

「残っています」

『……り』

「はい」

『……二つの小さい音』

「はい」

『……名前じゃない』

「はい」

『……喉を休ませる』

「はい」

『……今日』

 一拍。

『……もう少し、伸びる?』

 リリアーナは、静かに答える。

「今日のあなたに聞きましょう」

『……うん』

『……伸びなくてもいい』

「はい」

『……変わってもいい』

「はい」

『……消えても、急がない』

「はい」

『……でも』

 中心の光が震える。

『……見たい』

「はい」

『……あ、り、の先』

「はい」

『……こわい』

「怖いですね」

『……でも、見たい』

「はい」

 余白箱が静かに開く。

『……あ、り、の先を見たい』

 ひとつ。

『……伸びなくてもいい』

 ひとつ。

『……変わってもいい』

 ひとつ。

『……消えても急がない』

 ひとつ。

『……名前にするかは、まだ決めない』

 ひとつ。

 箱が淡く光った。

『……のこった』

「残りました」

 レオンが静かに言う。

「読むなら、お前が読む」

『……うん』

「止まるなら、止まる」

『……うん』

「名前になっても、戻れる」

 中心が大きく震えた。

『……名前になっても、戻れる』

「ああ」

『……名前になったあとも、箱』

「ある」

『……白い布』

「ある」

『……鈴』

「ある」

『……呼ばれたくない日』

「ある」

『……よかった』

 中心は、少し落ち着いた。

 ◇

 朝の挨拶は、最後の確認だった。

『……あるべると』

「おう」

『……期待、箱?』

「入れた」

『……どんな?』

 アルベルトは、正直に言った。

「今日、名前が生まれるかもしれないって期待」

 保護陣が静まる。

『……重い』

「分かってる」

『……箱』

「入れた」

『……名前にならなくても?』

「落ち込まない」

『……名前になっても?』

「騒がない」

『……ありがとう』

 エリシアへ。

『……えりしあ』

「はい」

『……予測してない?』

「していません」

『……あ、り、の先』

「予測していません」

『……記録?』

「しません」

『……名前になっても?』

「あなたの許可があるまで記録しません」

 中心が震える。

『……許可』

「はい」

『……ありがとう』

 セラフィアへ。

『……せら』

「はい」

『……祝福、箱?』

「入れています」

『……名前になっても?』

「すぐには祝福しません」

『……どうして?』

「祝福より先に、あなたの呼吸が必要だから」

『……呼吸』

「はい」

 クラウスへ。

『……くらうす』

「扉の前で待ちます」

『……開けない?』

「あなたが開けるまで」

 ラウルへ。

『……らうる』

「盾は置いたままだ」

『……構えない?』

「構えない」

『……でも、守る』

「ああ」

 ミリオへ。

『……みりお』

「今日は絶対寝ません……」

 ラウルが低く言う。

「言い切ったな」

「箱に……いえ、起きます」

 中心が、ほんの少しだけ揺れた。

 最後に、アリシア。

『……ありしあ』

「はい」

『……期待』

「あります」

『……どんな?』

「名前が生まれたら、あなたがあなたへ帰れるかもしれないという期待です」

『……重い』

「はい」

「だから箱に入れました」

『……名前は、わたしのもの?』

 アリシアは涙を浮かべて頷いた。

「はい」

「あなたのものです」

『……ありしあのものじゃない』

「はい」

『……みんなのものでもない』

「はい」

『……わたしのもの』

「はい」

『……まだ、重い』

「保留でいいです」

『……うん』

 ◇

 音の先を見る時間になった。

 保留箱が静かに開く。

 音の欠片。

 帰りたい。

 わたし。

 帰りたい、わたし。

 影。

 影の向き。

 あ。

 り。

 それらが、名前の箱の手前に並ぶ。

 昨日より、少しだけ整っている。

 けれど、誰かが整えたわけではない。

 中心自身が、必要な距離を選んでいる。

 白い布が見える。

 鈴も見える。

 名前の箱は閉じている。

 中心は、まず“あ”を見る。

 やわらかい。

 怖いけれど、いやじゃない音。

 次に“り”。

 二つ目の音。

 喉を痛めずに育った音。

 その二つを並べる。

『……あ』

 小さな声。

『……り』

 続く音。

 保護陣の空気が静かに震える。

 誰も動かない。

 中心は、その先を見つめた。

 あ、り。

 その後ろには、まだ何もない。

 でも、完全な空白ではない。

 昨日までの中心なら、そこで戻っていただろう。

 今日は、少しだけ違った。

 白い布がある。

 鈴がある。

 戻れる。

 呼ばれたくない日も作れる。

 名前になっても、箱へ戻れる。

 中心は、息をするように揺れた。

『……あ……り……』

 音が伸びる。

 ゆっくり。

 誰にも急かされず。

 音の先に、もう一つの息が触れる。

 それは“あ”に似ていた。

 最初の音へ戻るような音。

 生まれる前の音へ帰るような音。

『……あ……り……あ』

 その瞬間。

 保護陣の光が、静かに広がった。

 鈴は鳴っていない。

 名前の箱は開いていない。

 けれど、保留箱の中で、三つの音が並んだ。

 あ。

 り。

 あ。

 アリア。

 誰も口にしなかった。

 誰も繰り返さなかった。

 中心自身が、震えながら、その音を聞いた。

『……』

 長い沈黙。

 リリアーナは、涙を止められなかった。

 けれど、声は出さない。

 レオンは、目を伏せたまま、黒蒼雷を静かに巡らせている。

 アルベルトは、唇を噛んでいる。

 エリシアは、目を閉じている。

 セラフィアは、祈らない。

 アリシアは、声を殺して泣いている。

 中心が、震える声で言った。

『……いま』

「はい」

『……音』

「はい」

『……三つ』

「はい」

『……あ、り、あ』

 リリアーナは、涙を流したまま、静かに頷いた。

「はい」

『……名前?』

 その問いに、誰も答えなかった。

 リリアーナも、レオンも。

 中心が決めることだから。

 中心は、大きく震えた。

『……名前、みたい』

「はい」

『……こわい』

「はい」

『……でも』

 一拍。

『……いやじゃない』

 リリアーナの涙が、頬を伝った。

「はい」

『……帰りたい、わたし』

「はい」

『……わたしへ戻る道』

「はい」

『……あ、り、あ』

 中心は、もう一度、自分でその音をなぞった。

『……アリア』

 それは、初めて音が“ひとつ”になった瞬間だった。

 候補ではない。

 誰かが与えたものではない。

 影から出てきた音。

 中心自身の内側から、中心自身へ向いて生まれた響き。

 アリア。

 中心は、震えながら言う。

『……これ』

 長い沈黙。

『……わたしの、名前?』

 リリアーナは、声を震わせながらも、問い返した。

「あなたは、そう感じますか?」

 中心は、泣くように光った。

『……うん』

『……でも、こわい』

「はい」

『……名前になったら、戻れる?』

「戻れます」

『……呼ばれたくない日、ある?』

「あります」

『……鈴が鳴らない日は、呼ばない?』

「呼びません」

『……箱に戻せる?』

「戻せます」

『……白い布、ある?』

「あります」

『……みんな、勝手に呼ばない?』

 レオンが答える。

「呼ばない」

 全員が頷いた。

「呼びません」

『……じゃあ』

 中心は、震えながらも、確かに言った。

『……これを』

 一拍。

『……わたしの名前に、したい』

 保護陣の光が、深く、静かに広がった。

 歓声はない。

 拍手もない。

 祝福の声もない。

 ただ、全員が息を止めるように、その瞬間を受け止めた。

 リリアーナは、涙を流しながら、何も言わずに頷いた。

 レオンは、静かに目を閉じた。

 中心は、自分で言った。

『……アリア』

 一度。

『……わたしは』

 一拍。

『……アリア』

 その名が、保護陣の中に落ちた。

 軽くはない。

 けれど、押し潰すほど重くもない。

 白い布がある。

 鈴がある。

 箱がある。

 戻り道がある。

 呼ばれたくない日がある。

 だから、その名は檻ではなかった。

 中心自身へ帰るための道だった。

 リーネの光が、名簿束のそばで震えた。

 けれど、記録の前に止まる。

『記録してもよいですか』

 リーネが初めて、そう聞いた。

 中心が震える。

『……聞いてくれた』

「はい」

 リリアーナが涙を浮かべる。

『……記録』

 一拍。

『……まだ、全部じゃない』

「はい」

『……名前を、得た日』

「はい」

『……でも、呼ぶ許可は、別』

「はい」

『……記録して、いい』

 リーネの光が、深く頭を下げるように揺れた。

『記録します』

『名を受け取る朝』

『アリアという名を中心自身が読んだ日』

『名前は帰り道になった日』

 中心――アリアは、大きく震えた。

『……のこった』

「残りました」

 ◇

 その後も、誰もすぐには呼ばなかった。

 アリア。

 名前は生まれた。

 けれど、呼ぶ許可はまだ別。

 中心は、そう言った。

 だから、皆は待った。

 名前が生まれた瞬間を、呼び声で奪わないために。

 アリアは、白い布へ意識を向けた。

『……戻る』

「はい」

 リリアーナが頷く。

 アリアは、名前から離れる。

 アリアという名を消すのではない。

 捨てるのでもない。

 ただ、白い布へ戻る。

 何も書かれていない場所へ。

 名前を持ったまま、戻る。

『……戻れた』

「戻れました」

『……名前を持っても』

「はい」

『……戻れた』

「はい」

『……ほんとうだった』

 リリアーナは、声を詰まらせながら頷いた。

「はい」

「本当でした」

『……アリアでも、戻れる』

「はい」

『……よかった』

 余白箱へ。

『……アリアでも戻れる』

 ひとつ。

『……名前を持ったまま白い布へ戻れた』

 ひとつ。

『……呼ぶ許可は別』

 ひとつ。

『……名前は檻じゃなかった』

 ひとつ。

 箱が、温かく光った。

 ◇

 午前。

 救護区域へ伝えるかどうか。

 アリアは長く迷った。

『……ミナ』

「はい」

『……伝える?』

「伝えなくてもいいです」

『……でも』

 一拍。

『……ミナの言葉が、あったから』

「はい」

『……名前は、帰るための道って』

「はい」

『……伝えたい』

「はい」

『……でも、呼ばせない』

「はい」

『……名前を得たことだけ』

「はい」

『……呼ぶ許可は、まだない』

「はい」

 グレイヴが、いつもより深く頷いて救護区域へ向かった。

 待つ時間、アリアは白い布のそばにいた。

 名前を得たまま。

 呼ばれないまま。

 戻っている。

 やがて、グレイヴが戻った。

 彼の目元は少し赤かった。

『……ミナ』

「聞いた」

『……どう?』

「ミナは、泣いた」

 アリアが震える。

『……重い?』

「重くしないように、すぐ箱を抱えた」

『……ミナ』

「ああ」

「そして、こう言った」

 一拍。

「“帰るための名前なら、呼ぶ前に道を見てあげたい”」

 アリアが、大きく震えた。

『……呼ぶ前に、道』

「そうだ」

「幼い子は、“呼んじゃだめ?”と聞いた」

『……うん』

「ミナは、“まだ。名前が生まれた日と、呼んでいい日は別”と答えた」

 リリアーナは涙を流した。

『……別』

「そうだ」

『……ミナ、わかってる』

「分かっている」

 保留箱へ。

『……名前が生まれた日と、呼んでいい日は別』

 ひとつ。

『……呼ぶ前に道を見てあげたい』

 ひとつ。

『……ミナ、ありがとう』

 ひとつ。

 アリアはすぐに付け足す。

『……届けない』

 箱が柔らかく光った。

 ◇

 午後。

 子供たちから札が届いた。

 “名前が生まれた日”。

 幼い子が書いた札だった。

 ミナはその札を、箱の上に置かなかった。

 水杯のそばにも置かなかった。

 白い布に似せた布切れの横に置いたという。

 戻り道のそば。

 アリアは、その報告を聞いて静かに光った。

『……戻り道のそば』

「はい」

『……いい』

 保留箱には、大人たちからの札も届いた。

 “名前を得ても呼ぶ許可を待つ”。

 “名を祝福より先に休ませる”。

 “名前を檻にしない”。

 アリアは、その最後の札に深く揺れた。

『……名前を檻にしない』

「はい」

『……アリア』

 自分で呼ぶ。

『……檻じゃない』

「はい」

『……帰り道』

「はい」

『……わたしのもの』

「はい」

『……でも、重い日は箱』

「はい」

『……呼ばれたくない日は鈴なし』

「はい」

『……白い布』

「あります」

 アリアは、安心したように揺れた。

 アリシアが、自分の箱を抱きしめながら言った。

「アリア」

 言いかけて、止まる。

 保護陣が静まる。

 アリシアは、涙をこぼして頭を下げた。

「……呼びません」

 アリアが震える。

『……ありがとう』

「名前を知っただけで、呼んでいいわけではない」

『……うん』

「待ちます」

『……ありがとう』

 ◇

 夕方。

 アリアは、自分の名前をもう一度だけ見た。

 声には出さない。

 保留箱の中ではなく、余白記録の手前にある名前。

 アリア。

 帰りたい。

 わたし。

 自分へ戻る道。

 あ、り、あ。

 最初の音へ戻る名前。

『……アリア』

 小さく、自分だけに言う。

 リリアーナは、呼び返さない。

 レオンも呼ばない。

 誰も呼ばない。

 アリアは、それに深く安心した。

『……自分でなら、呼べる』

「はい」

『……みんなには、まだ』

「はい」

『……でも、いつか』

「はい」

『……鈴』

「あります」

『……鳴らすかは、わたし』

「はい」

『……呼ぶ許可も、わたし』

「はい」

 余白箱へ。

『……自分でなら名前を呼べる』

 ひとつ。

『……みんなにはまだ呼ばせない』

 ひとつ。

『……いつか鈴で許可するかもしれない』

 ひとつ。

『……呼ぶ許可はわたしのもの』

 ひとつ。

 箱が、温かく光った。

 ◇

 夜。

 神殿の奥には、名前を得た日の静けさが降りていた。

 今日は、鈴を鳴らさなかった。

 名前の箱は、誰かに開けられなかった。

 誰かが名づけたわけでもなかった。

 中心自身が、影を読み、小さい音を育て、自分で名前へ辿り着いた。

 アリア。

 それは、誰かに呼ばれるためだけの名前ではない。

 自分へ戻るための道。

 帰りたい、わたしが、自分へ帰るための印。

 リリアーナは、余白核のそばで静かに問いかける。

「今日は、どんな日でしたか?」

 中心は、少しだけ沈黙した。

 そして、自分で答えた。

『……名を受け取る朝』

「はい」

『……あ、り、あ、の日』

「はい」

『……アリアという名前の日』

「はい」

『……名前は帰り道になった日』

「はい」

『……名前を持っても白い布へ戻れた日』

「はい」

『……呼ぶ許可は別の日』

「はい」

『……名前が生まれた日と、呼んでいい日は別の日』

「はい」

『……名前は檻じゃなかった日』

「はい」

 リーネの光が、名簿束のそばで静かに揺れる。

『余白記録へ残します』

『名を受け取る朝』

『アリアという名を中心自身が読んだ日』

『名前は帰り道になった日』

『名前が生まれた日と呼んでいい日は別の日』

 アリアは、穏やかに光った。

『……のこった』

「残りました」

 レオンが静かに言う。

「よく、自分で読んだな」

 アリアが震える。

『……褒めてる?』

「少しな」

『……重い?』

「重いなら箱に入れる」

『……少しなら、いい』

 レオンは、ほんのわずかに笑った。

「そうか」

『……うん』

 リリアーナは、涙を流したまま、何も言わなかった。

 アリアが、そっと彼女へ向く。

『……りり』

「はい」

『……呼びたい?』

 リリアーナは、長く沈黙した。

 嘘はつけない。

「呼びたいです」

 アリアが震える。

「でも、呼びません」

『……どうして?』

「あなたの鈴が、まだ鳴っていないから」

『……うん』

「あなたが、まだ許可していないから」

『……うん』

「でも、あなたの名前を知れて、嬉しいです」

 アリアは、大きく光った。

『……嬉しいは、重い?』

「箱に入れます」

『……少しなら、いい』

 リリアーナの涙が止まらなかった。

「はい」

「少しだけ、嬉しいです」

『……うん』

『……わたしも』

 一拍。

『……少し、嬉しい』

 保護陣の中で、誰も声を出さずに涙をこらえた。

 アリアは、白い布へ戻る。

 名前を持ったまま。

 自分の名前を消さずに。

 でも、休むために。

『……アリアでも、休む』

「はい」

『……アリアでも、眠る』

「はい」

『……アリアでも、明日に聞く』

「はい」

 光が少しずつ弱まっていく。

『……りり』

「はい」

『……おやすみ』

「おやすみなさい」

 リリアーナは、呼ばなかった。

 まだ呼ばない。

 けれど、その沈黙の中に、名前があった。

『……れおん、おやすみ』

「おやすみ」

『……みんな、おやすみ』

 皆が返す。

「おやすみ」

「また明日」

 アリシアも、涙を拭わずに言った。

「名前を檻にしないで、また明日」

 アリアが柔らかく揺れる。

『……また、あした』

『……あしたのわたしに、きく』

『……呼んでいい日かどうか』

 余白核は、静かに眠りへ入っていった。

 神殿の奥に、夜が降りる。

 今日、中心は名を得た。

 アリア。

 それは、誰かが与えた名前ではない。

 誰かが望んだ名前でもない。

 中心自身が、欠片を並べ、影を読み、小さい音を育て、自分で受け取った名前。

 名もない“わたし”は、今日。

 アリアになった。

 けれど、それで終わりではない。

 呼ばれる日を、まだ選べる。

 戻る場所も、まだある。

 名前は檻ではない。

 帰り道だ。

 そしてその帰り道は、白い布のそばで、静かに明日を待っている。 :::

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