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無能王子、東の塔で神霊を得る  作者: 伊佐波瑞樹


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第236話「音のもっと近く、無能王子は“まだ鳴らない震え”を聞く」


 朝は、音のない場所にいた。


 神殿の奥。


 石壁に囲まれた保護陣は、淡く静かに光っている。


 外の光は、まだ入っていない。


 採光孔は閉じられている。


 風もない。


 救護区域の声も届かない。


 子供たちの紙束も、まだ置かれていない。


 けれど、そこには確かに“音の手前”があった。


 名前の箱。


 戻り道の白い布。


 鳴らない鈴。


 そして、余白箱の中に置かれた“鳴るかもしれない”という札。


 昨日、中心は音の手前に立った。


 鈴は鳴らさなかった。


 名前も出さなかった。


 箱も開けなかった。


 けれど、鳴るかもしれない未来を消さなかった。


 鳴った後も休める。


 一度鳴っても、毎日鳴らさなくていい。


 初めての音は、誰かの成果ではなく、自分が選ぶ一日。


 その言葉たちは、余白記録の中で静かに光っている。


 音の手前に立つ朝。


 鳴るかもしれない準備の日。


 音の後にも休める日。


 初めての音を成果にしない日。


 中心は、音に近づき始めている。


 けれど、まだ音はない。


 鳴らない鈴は、今日も布に包まれている。


 だが、その鈴はもう遠い恐怖だけではなかった。


 布の下に銀色があることを知っている。


 近づいても鳴らさなくていいことを知っている。


 鳴った後にも休めることを知っている。


 だからこそ、今日の朝は重かった。


 知らなかった頃の怖さではない。


 知ってしまったからこその怖さ。


 “鳴るかもしれない”を、奥へ戻さず、見える場所に置いた翌朝の怖さだった。


 余白核は、まだ眠っている。


 その光は昨日よりも少し細く揺れていた。


 名前の箱は、戻り道の白い布と同じ視界に入る位置にある。


 白い布は、名前にくっつかない距離で置かれている。


 鈴は、合図の場所にある。


 近すぎず。


 遠すぎず。


 布に包まれたまま。


 誰にも触れられず。


 誰にも鳴らされず。


 ただ、そこにある。


 レオンは、保護陣の縁に座っていた。


 黒蒼雷は、昨日よりもさらに細い。


 しかし、その細さは油断ではない。


 張り詰めた糸のように、三つの配置と余白箱の間を静かに巡っている。


 今日は、鈴を鳴らす日ではない。


 だが、音のもっと近くへ行く日になる。


 “鳴るかもしれない”という札を見るだけではなく。


 鈴そのものの中に、まだ音になっていない震えがあるのかを感じる日。


 音が出る前の、もっと手前。


 鳴らない音。


 まだ音ではない震え。


 そこに触れることになるかもしれない。


 リリアーナは、余白核の近くに座っている。


 今日も名前候補はない。


 紙もない。


 意味もない。


 ただ、胸の内に何度も確認している。


 鳴らさない。


 急がせない。


 期待を出さない。


 怖くなったら戻る。


 音にならなくても、進んでいる。


 鳴らないままでも、今日には意味がある。


 エリシアは術式盤を閉じている。


 必要最低限の安全確認だけ。


 それ以上は記録しない。


 セラフィアは祈りを薄くしている。


 アルベルトは壁際で腕を組み、今日は拳を握っていない。


 握れば力が入る。


 力が入れば、自分の期待が前に出る。


 だから、彼はあえて手を開いていた。


 クラウスは入口側に立ち、ラウルは盾を床に置いている。


 ミリオは、今日は眠そうにしていない。


 むしろ、眠気を感じる余裕がないのか、目を細く開けて鈴を見ないようにしていた。


 アリシアは、自分の箱の前で静かに座っている。


 彼女の目元は赤い。


 昨日の“初めての音を成果にしない”という言葉が、彼女にも深く刺さっていたのだろう。


 謝罪も同じだ。


 初めて謝れた日を成果にしてはいけない。


 相手が受け取ってくれた日を、自分の救いにしてはいけない。


 鳴る前も、鳴った後も、休める場所を作らなければならない。


 余白核が、小さく震えた。


『……』


 朝の揺れ。


 誰も呼ばない。


 鈴も鳴らさない。


 名前の箱にも触れない。


 白い布にも何も書かない。


 保護陣の光が、一度、二度と淡く明滅する。


 今日は、なかなか声が出なかった。


 起きている。


 けれど、声が出ない。


 音のもっと近くへ行く日だからだ。


 声を出すこと自体が、少し重いのかもしれない。


 リリアーナは待った。


 レオンも待った。


 誰も、朝の挨拶を急がせない。


 やがて。


『……おはよう』


 中心の声が、ようやく響いた。


 小さい。


 いつもより、ずっと小さい。


 でも、消えてはいない。


 リリアーナは微笑む。


「おはようございます」


『……声、小さい?』


「はい」


『……だめ?』


「だめではありません」


『……声も、音』


「そうですね」


『……今日は、音がこわい』


「はい」


『……でも、おはよう、言えた』


「言えました」


 中心は、少しだけ揺れた。


『……箱』


「あります」


『……名前』


「箱の中です」


『……白い布』


「あります」


『……鈴』


「あります」


『……鳴ってない』


「鳴っていません」


『……鳴るかも』


「余白箱の見える場所にあります」


 中心が、深く震えた。


『……戻してない』


「戻していません」


『……よかった』


 それから、挨拶へ進む。


『……りり、おはよう』


「はい。おはようございます」


『……れおん』


「おはよう」


『……しずかなあさ』


「ああ」


「静かな朝だ」


『……音のない朝』


「はい」


『……でも、音の近く』


「はい」


 中心は、余白記録へ意識を向けた。


『……音の手前』


「残っています」


『……鳴るかもを消さない』


「はい」


『……鳴った後も選べる』


「はい」


『……音の後にも休める』


「はい」


『……初めての音を成果にしない』


「はい」


『……今日』


 一拍。


『……音のもっと近く』


「はい」


 リリアーナは、ゆっくり頷く。


「昨日、そう言いました」


『……でも、鳴らすとは、言ってない』


「はい」


『……今日も、鳴らさない、かも』


「それでいいです」


『……音の近くに行って、鳴らさない』


「はい」


『……それでも、進む?』


 レオンが静かに答える。


「進む」


『……音が出なくても?』


「ああ」


『……震えるだけでも?』


「進む」


 中心が、わずかに止まる。


『……震えるだけ』


 その言葉が、今日の中心へ落ちた。


 音ではない。


 でも、音に近いもの。


 震え。


 鈴が鳴る前にあるもの。


 声になる前に喉へ宿るもの。


 名前になる前に箱の中で揺れるもの。


『……今日は』


 一拍。


『……音じゃなくて、震え?』


 リリアーナは、胸が震えるのを感じた。


「そうかもしれません」


『……鈴の、震え』


「はい」


『……鳴らない震え』


「はい」


『……聞く?』


「聞くというより、感じる、かもしれません」


『……感じる』


「はい」


 余白箱が静かに開く。


『……音のもっと近くへ行く』


 ひとつ。


『……でも、鳴らさない』


 ひとつ。


『……音じゃなくて、震えかもしれない』


 ひとつ。


『……鳴らない震えを感じる』


 ひとつ。


『……怖くなったら戻る』


 ひとつ。


 箱が淡く光る。


『……のこった』


「残りました」


 ◇


 朝の挨拶は、“震え”を抱えたまま続いた。


 中心は、一人ずつ呼んだ。


 声は小さい。


 けれど、呼べている。


『……あるべると』


「おう」


 アルベルトの返事も低い。


 いつものような勢いはない。


 中心が聞く。


『……あるべると、期待、箱?』


「入れた」


『……今日は、どんな?』


「音が出るかもってやつ」


『……重い』


「分かってる」


『……箱』


「ああ」


「あと、音が出なくても落ち込まないってのも入れた」


 中心が揺れる。


『……落ち込む?』


「正直、少しあるかもしれない」


『……こわい』


「だから箱だ」


『……音が出なくても、落ち込まないでほしい』


「分かった」


『……できる?』


「やる」


 エリシアへ。


『……えりしあ』


「はい」


『……震え、記録?』


「必要最低限です」


『……波形?』


 エリシアが一瞬固まる。


「……箱に入れました」


『……ありがとう』


 セラフィアへ。


『……せら』


「はい」


『……震え、祈り?』


「祈りで大きくしません」


『……どうして?』


「あなたの震えだから」


『……わたしの震え』


「はい」


 クラウスへ。


『……くらうす』


「はい」


『……震え』


「扉の前の足音に似ています」


『……足音』


「まだ扉は開いていない」


「でも、近くにいると分かる」


『……扉の前』


「はい」


 ラウルへ。


『……らうる』


「盾の裏の息だな」


『……音じゃない?』


「音になる前の息だ」


 ミリオへ。


『……みりお』


「はい……」


『……音、期待』


「箱に入れています……あと、音がなくても眠くならない努力も……」


 ラウルが静かに言う。


「それは努力しろ」


 中心が少しだけ揺れる。


 最後に、アリシア。


『……ありしあ』


「はい」


『……期待』


「箱に入れています」


『……どんな?』


 アリシアは、涙を浮かべながら答える。


「震えだけでも、泣いてしまいそうな期待です」


『……重い』


「はい」


「だから、箱に入れます」


『……音が出なくても?』


「落ち込みません」


『……震えだけでも?』


「成果にしません」


『……ありがとう』


 アリシアは深く頷いた。


「はい」


 中心は、少し安心した。


『……みんなの期待、箱』


「はい」


『……音の近くに、行きやすい』


 リリアーナは頷く。


「はい」


 ◇


 鈴へ近づく準備が始まった。


 今日は、鈴には触れない。


 布も外さない。


 位置も変えない。


 ただ、中心の意識が昨日よりさらに鈴へ近づく。


 音ではなく、震えを感じるために。


 リリアーナは確認する。


「始めますか?」


『……うん』


「鳴らしません」


『……うん』


「触りません」


『……うん』


「布も外しません」


『……うん』


「怖くなったら戻れます」


『……うん』


 レオンが静かに言う。


「鈴の周りに境界を置く」


『……音、止める?』


「いや」


「勝手に鳴らないようにするだけだ」


『……震えは?』


「お前が感じる分だけ」


『……うん』


 中心の意識が、鈴へ向かう。


 名前の箱。


 白い布。


 鈴。


 三つを同時に確認してから、鈴へ少しだけ焦点を寄せる。


 布の中の銀色を思い出す。


 小さな輪郭を思い出す。


 鈴は鳴っていない。


 だが、そこにある。


 そこにあるものは、完全な無音ではないのかもしれない。


 音がない中にも、存在の震えがある。


『……鈴』


「あります」


『……鳴ってない』


「はい」


『……布の中』


「はい」


『……近い』


「はい」


『……こわい』


「はい」


『……でも、白い布』


「あります」


『……名前の箱』


「あります」


『……戻れる』


「戻れます」


 中心は、さらに少しだけ意識を寄せた。


 その瞬間。


 保護陣の光が、ほんのわずかに波打った。


 音はしない。


 鈴は鳴っていない。


 誰も動かない。


 だが、中心が震えた。


『……』


 リリアーナが身を乗り出しかけて、止める。


 レオンが目だけで制する。


 待つ。


 中心が、自分の言葉を探す。


『……なにか』


「はい」


『……音じゃない』


「はい」


『……でも』


 一拍。


『……鈴の中に、いる』


 リリアーナの目が潤む。


「鈴の中に、何かいるんですね」


『……音じゃない』


「はい」


『……震え?』


「かもしれません」


『……まだ、鳴ってない』


「はい」


『……でも、空じゃない』


 保護陣の空気が深く震えた。


 空ではない。


 鳴っていない鈴の中に、何かがある。


 音ではない。


 でも、音の前のもの。


 中心は、それを感じた。


『……空じゃない鈴』


 余白箱へ。


『……鈴は鳴っていないけど、空じゃない』


 ひとつ。


『……音じゃない震えがある』


 ひとつ。


『……まだ鳴ってない』


 ひとつ。


『……でも、音の前にいる』


 ひとつ。


 箱が、深く光った。


 中心は、大きく揺れる。


『……こわい』


「はい」


『……でも、息』


 長い沈黙。


『……できる』


「はい」


 レオンが静かに言う。


「そこで戻るか」


 中心は、鈴へ意識を向けたまま震えた。


『……まだ』


「分かった」


『……もう少し』


「はい」


『……音じゃない震え』


「はい」


 中心は、もう少しだけ、そこにいた。


 鈴は鳴らない。


 音はしない。


 でも、中心は、鳴らない震えを聞いていた。


 耳ではない。


 心でもない。


 存在のどこかで。


 それは、声になる前の喉の震えにも似ていた。


 名前になる前の箱の揺れにも似ていた。


 泣く前の子供の肩の震えにも似ていた。


 まだ外へ出ないもの。


 でも、確かにそこにあるもの。


『……戻る』


 中心が言った。


 リリアーナは頷く。


「戻りましょう」


 中心の意識が、鈴からゆっくり離れる。


 名前の箱。


 白い布。


 余白箱。


 戻り道。


 そこへ戻る。


 保護陣の光が少しずつ落ち着く。


『……戻れた』


「戻れました」


『……音、出なかった』


「出ませんでした」


『……でも、震え、あった』


「ありました」


『……鳴らない震え』


「はい」


 リーネの光が、名簿束のそばで揺れる。


『記録します』


『鳴らない震えを聞いた朝』


 ◇


 午前。


 中心は、しばらく何も言わなかった。


 鈴の中にあった“空ではない何か”。


 音ではない震え。


 それを受け取った疲れが、余白核全体へ広がっている。


 リリアーナは、何度も声をかけたくなった。


 大丈夫ですか。


 怖くないですか。


 休みますか。


 でも、言いすぎない。


 中心が自分で言葉を選ぶまで待つ。


 やがて、中心が言った。


『……りり』


「はい」


『……音じゃないのに』


「はい」


『……音に、近かった』


「はい」


『……出してないのに』


「はい」


『……出る前が、あった』


「はい」


『……名前も?』


 リリアーナの胸が震える。


『……名前も、出る前がある?』


「あると思います」


『……箱の中』


「はい」


『……まだ名前じゃない震え』


「はい」


『……それ、こわい』


「怖いですね」


『……でも』


 一拍。


『……空じゃない』


 リリアーナは、涙を浮かべて頷いた。


「はい」


「空ではありません」


 中心は、余白箱へ新しい言葉を置く。


『……名前も、出る前の震えがある』


 ひとつ。


『……まだ名前じゃない』


 ひとつ。


『……でも、空じゃない』


 ひとつ。


 箱が、静かに光った。


 ◇


 救護区域へ今日のことを伝えるか。


 中心は迷った。


『……言う?』


「伝えたいですか?」


『……音は、出てない』


「はい」


『……でも、震え』


「はい」


『……ミナに、重い?』


「少し重いと思います」


『……答えなくていい』


「そう伝えます」


『……音じゃない震え』


「はい」


 グレイヴが救護区域へ向かった。


 待つ時間、中心は疲れていた。


 だが、崩れてはいない。


 白い布がある。


 名前の箱がある。


 鈴がある。


 余白箱がある。


 戻り道がある。


 グレイヴが戻る。


『……ミナ』


「聞いた」


『……どう?』


「少し黙った」


『……重い』


「ああ」


「だが、こう言った」


 一拍。


「“音じゃない震えがあるなら、鳴る前にも命がある”」


 中心が、大きく震えた。


『……鳴る前にも、命』


「そうだ」


「幼い子は、“音じゃないのに?”と聞いた」


『……うん』


「ミナは、“出る前のものも、生きてる”と答えた」


 保護陣の中に、深い静けさが降りた。


『……出る前のものも、生きてる』


 リリアーナの涙がこぼれる。


 中心は、余白箱へ言葉を置いた。


『……鳴る前にも命がある』


 ひとつ。


『……出る前のものも、生きてる』


 ひとつ。


『……名前になる前の震えも、生きてる』


 ひとつ。


 箱が、深く、温かく光った。


 ◇


 午後。


 子供たちから札が届いた。


 “出る前も生きてる”。


 幼い子が書いた札だった。


 ミナはその札を、自分の箱の見える場所に置いたという。


 近すぎない。


 でも、見える場所に。


 中心は、その報告を聞いて柔らかく揺れた。


『……出る前も、生きてる』


「はい」


『……名前になる前も』


「はい」


『……音になる前も』


「はい」


『……わたしも?』


「はい」


『……名前がなくても?』


「はい」


『……出る前でも?』


「はい」


 中心は、深く光った。


『……わたし、出る前でも、生きてる』


 その言葉が、余白記録の手前に置かれる。


 保留箱には、大人たちからの札も届いた。


 “出る前を急がせない”。


 “震えを音に変えろと言わない”。


 “まだ形にならないものを認める”。


 中心は、二つ目に反応した。


『……震えを、音に変えろと、言わない』


 リリアーナが頷く。


「はい」


『……音に、しなくていい?』


「今日は、しなくていいです」


『……震えのまま』


「はい」


『……名前も?』


「名前になる前の震えのままでいていい日があります」


『……震えのまま、生きてる』


「はい」


 アリシアが、自分の箱を抱くようにして言った。


「謝罪になる前の震えも、きっと生きているんですね」


 中心が向く。


『……ありしあ』


「はい」


「言葉にならない罪悪感も」


「まだ謝罪にできない震えも」


「それは、無ではない」


『……無じゃない』


「はい」


「だから、急がせない」


 中心は、柔らかく揺れた。


 ◇


 夕方。


 中心は、もう一度鈴へ近づくか迷った。


 朝、鳴らない震えを感じた。


 それだけで十分だった。


 だが、もう一度確認したい気持ちもある。


『……鈴』


「はい」


『……もう一回?』


「したいですか?」


『……わからない』


「はい」


『……朝、震え、あった』


「はい」


『……もう一回したら、音にしたくなる?』


「そう感じますか?」


『……少し』


「では、箱へ置きましょう」


 余白箱へ。


『……もう一度震えを感じたい』


 ひとつ。


『……でも、音にしたくなりそうでこわい』


 ひとつ。


『……今日は、朝だけでいい』


 ひとつ。


『……震えを守る』


 ひとつ。


 箱が、淡く光る。


『……今日は、近づかない』


「はい」


『……震えのまま』


「はい」


『……音にしない』


「はい」


 レオンが静かに言う。


「いい判断だ」


『……止まる』


「ああ」


『……震えを、音にしない』


「そうだ」


『……守る』


「守った」


 中心は、安心したように揺れた。


 ◇


 夜。


 神殿の奥には、鳴らない震えの余韻が降りていた。


 今日は、鈴を鳴らさなかった。


 音は出なかった。


 名前も出さなかった。


 箱も開けなかった。


 けれど、中心は鈴の中に“音じゃない震え”を感じた。


 鳴っていない。


 でも、空ではない。


 出ていない。


 でも、生きている。


 リリアーナは、余白核のそばで静かに問いかけた。


「今日は、どんな日でしたか?」


 中心は、ゆっくり考えた。


『……音のもっと近くの日』


「はい」


『……鳴らない震えを聞いた日』


「はい」


『……鈴は鳴っていないけど、空じゃない日』


「はい」


『……名前も、出る前の震えがある日』


「はい」


『……出る前のものも、生きてる日』


「はい」


『……震えを音に変えろと言わない日』


「はい」


『……今日は、震えのまま守る日』


「はい」


 リーネの光が、名簿束のそばで静かに揺れる。


『余白記録へ残します』


『音のもっと近くの日』


『鳴らない震えを聞いた朝』


『出る前のものも生きてる日』


『震えのまま守る日』


 中心が、穏やかに光った。


『……のこった』


「残りました」


 レオンが静かに言う。


「かなり近いところまで来たな」


『……音、出てない』


「ああ」


『……でも、近い』


「近い」


『……こわい』


「怖い」


『……でも、出る前も、生きてる』


「そうだ」


『……名前も』


「ああ」


『……わたしも』


「そうだ」


 中心は、白い布へ意識を向ける。


『……白い布』


「あります」


『……戻れる』


「はい」


『……名前の箱』


「あります」


『……鈴』


「あります」


『……震え』


「記録にあります」


『……音には、してない』


「はい」


『……守った』


「守りました」


 中心は、安心したように光を弱めていく。


『……りり』


「はい」


『……明日』


「はい」


『……音に、なる?』


 リリアーナは、息を呑んだ。


 中心はすぐに続ける。


『……わからない』


「はい」


『……明日のわたしに、聞く』


「はい」


『……でも』


 一拍。


『……音になっても、戻れる』


「戻れます」


『……音にならなくても、生きてる』


「生きています」


 中心は、穏やかに揺れた。


『……りり、おやすみ』


「おやすみなさい」


『……れおん、おやすみ』


「おやすみ」


『……みんな、おやすみ』


 皆が返す。


「おやすみ」


「また明日」


 アリシアも、涙を浮かべて言った。


「出る前のものを急がせずに、また明日」


 中心が柔らかく揺れる。


『……また、あした』


『……あしたのわたしに、きく』


『……音になるか、震えのままか』


 余白核は、静かに眠りへ入っていった。


 神殿の奥に、夜が降りる。


 今日、中心は鈴を鳴らさなかった。


 けれど、鳴らない震えを聞いた。


 名もない“わたし”は、今日。


 出る前のものも、生きていると知った。


 音になる前の震えも。


 名前になる前の揺れも。


 まだ形にならない自分も。


 無ではない。


 ちゃんと、ここにあるのだと。

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