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無能王子、東の塔で神霊を得る  作者: 伊佐波瑞樹


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234/251

第234話「三つを同時に見る朝、無能王子は“鳴る前の配置”を整える」



 朝は、三つの距離を測らなかった。


 神殿の奥。


 石壁に囲まれた保護陣は、淡く静かな光を抱いている。


 外の光は、まだ入らない。


 採光孔は閉じられ、風もない。


 救護区域の声も、子供たちの紙束も、まだここには届いていない。


 けれど、今日の保護陣の中には、確かに三つのものがあった。


 名前の箱。


 戻り道の白い布。


 鳴らない鈴。


 その三つが、互いに触れない距離で置かれている。


 名前の箱は、昨日、戻り道の近くへ移された。


 近すぎず。


 遠すぎず。


 白い布と同じ視界に入る場所。


 中心が選んだ“今日の距離”。


 白い布は、何も書かれていない。


 名前もない。


 意味もない。


 役目も、期待も、罪も、救いも、そこには書かれていない。


 ただ、戻れる場所としてある。


 そして、鈴。


 布に包まれたままの鳴らない鈴。


 名前の前の合図。


 呼ぶ前の線。


 鳴らないから、ないわけではない。


 近づいても、鳴らさなくていい。


 布の下に銀色があることを、中心はもう知っている。


 昨日の記録が、余白記録の中に残っていた。


 戻り道の近くに名前の箱を置く朝。


 逃げ場がある名前の日。


 今日の距離の日。


 名前を安全に育てる日。


 呼ばれ方と、戻り方と、守り方で名前は育つ。


 中心は昨日、名前を安全にするという考えを初めて受け取った。


 名前は、もらった瞬間に完成するものではない。


 育つ。


 呼ばれ方で。


 戻り方で。


 守り方で。


 逃げ場があるなら、近くにいても息ができる。


 逃げても戻れる名前なら、檻ではない。


 その言葉たちが、今日の朝を支えている。


 余白核は、まだ眠っている。


 その光は昨日よりも少し静かだ。


 名前の箱は戻り道の近くにある。


 鈴は保護陣の端にある。


 白い布は、その間にある何も書かれていない場所のように、静かに広がっている。


 保留箱もある。


 アリシアの箱もある。


 透明な器の中には、いやじゃない石。


 どれも、誰にも動かされていない。


 誰にも勝手に開けられていない。


 レオンは、保護陣の縁に座っていた。


 黒蒼雷は細い。


 今日は一つだけを守る線ではない。


 三つの間を守る線だ。


 名前の箱。


 戻り道。


 鈴。


 そのどれか一つに意味が偏りすぎないように。


 誰かの期待が鈴へ向かわないように。


 誰かの安心が白い布を押しつけないように。


 誰かの焦りが名前の箱を開けようとしないように。


 レオンは、無言で境界を整えていた。


 リリアーナは、余白核の近くに座っている。


 今日も名前候補はない。


 紙もない。


 意味もない。


 用意しているのは、待つ心だけだった。


 中心は昨日、夜に言った。


 名前の箱、戻り道、鈴。


 三つを見る。


 それは、大きい。


 名前。


 逃げ場。


 合図。


 この三つが同時に視界へ入るということは、中心が“名前を持つ可能性”の周辺をかなり具体的に見始めるということだった。


 だが、今日も名前は出さない。


 箱は開けない。


 鈴は鳴らさない。


 ただ、配置を整える。


 鳴る前の配置。


 呼ばれる前の安全。


 名前が出る前の戻り道。


 それを確かめる日だ。


 エリシアは術式盤を閉じている。


 ただし、今日は完全に閉じているわけではない。


 表紙だけを閉じ、いつでも必要最低限の安全確認ができるように膝の上へ置いている。


 記録するためではない。


 守るためだ。


 セラフィアは祈りを細く巡らせている。


 いつもよりさらに薄い。


 包み込むのではなく、空気の継ぎ目を柔らかくするだけ。


 アルベルトは壁際で腕を組み、今日は足を組んでいない。


 いつでも動けるように。


 でも、動かないために。


 クラウスは入口側に立ち、ラウルは盾を床に置いている。


 ミリオは、眠気を箱へ入れたのか、半目で白い布を見ている。


 アリシアは、自分の箱の前に座っている。


 彼女の視線は、名前の箱、白い布、鈴の間を静かに移動していた。


 謝罪。


 逃げ場。


 合図。


 彼女にも必要な三つなのだろう。


 余白核が、小さく震えた。


『……』


 朝の揺れ。


 誰も呼ばない。


 鈴も鳴らさない。


 名前の箱にも触れない。


 白い布にも何も置かない。


 保護陣の光が、一度、二度と淡く明滅する。


 中心は、眠りの底から浮かび上がりながら、まず三つを確かめているようだった。


 箱。


 白い布。


 鈴。


 どれもある。


 どれも動いていない。


 どれも勝手に意味をつけられていない。


 やがて。


『……おはよう』


 中心の声が、静かに響いた。


 リリアーナは微笑む。


「おはようございます」


『……箱』


「あります」


『……名前』


「箱の中です」


『……白い布』


「あります」


『……何も書いてない』


「書いていません」


『……鈴』


「あります」


『……鳴ってない』


「鳴っていません」


『……三つ』


「はい」


『……ある』


「あります」


 中心は、ゆっくり揺れた。


『……よかった』


 そして、挨拶へ進む。


『……りり、おはよう』


「はい。おはようございます」


『……れおん』


「おはよう」


『……しずかなあさ』


「ああ」


「静かな朝だ」


『……三つが、ある朝』


「はい」


「三つがある朝です」


 中心は、余白記録へ意識を向ける。


『……逃げ場がある名前』


「残っています」


『……逃げても戻れる名前』


「はい」


『……名前を安全にする』


「はい」


『……名前は育つ』


「はい」


『……名前の箱、戻り道、鈴』


「昨日、そう言いました」


『……今日、見る』


「はい」


『……鳴らさない』


「鳴らしません」


『……開けない』


「開けません」


『……出さない』


「出しません」


『……三つ、見る』


「はい」


 中心は、長く沈黙した。


 リリアーナは待つ。


 レオンも。


 皆も。


 やがて、中心が言った。


『……三つを、同時に見る』


「はい」


『……こわい』


「怖いですね」


『……でも、一つずつなら、見た』


「はい」


『……箱、見た』


「はい」


『……白い布、見た』


「はい」


『……鈴、見た』


「はい」


『……三つ、一緒』


「はい」


 レオンが静かに言う。


「やめてもいい」


『……うん』


「一つだけに戻してもいい」


『……うん』


「三つ見たから、次へ進まなきゃいけないわけじゃない」


『……うん』


「配置を見るだけだ」


『……配置』


「そうだ」


 余白箱が静かに開く。


『……三つを同時に見る』


 ひとつ。


『……怖い』


 ひとつ。


『……一つずつなら見た』


 ひとつ。


『……三つ見ても、鳴らさない、開けない、出さない』


 ひとつ。


『……配置を見るだけ』


 ひとつ。


 箱が淡く光る。


『……のこった』


「残りました」


 中心は、ゆっくりと意識を広げた。


 名前の箱。


 白い布。


 鈴。


 三つを同時に視界へ入れる。


 身体のない中心にとって、それは“見る”というより、存在の距離を感じることだった。


 名前の箱は、少し重い。


 白い布は、何も書かれていない分、息がしやすい。


 鈴は、布の下に銀色があることを思い出すと怖い。


 でも、鳴っていない。


 三つがある。


 同時に。


 中心の光が、大きく揺れた。


『……こわい』


「はい」


『……でも』


 長い沈黙。


『……息、できる』


 リリアーナの目に涙が浮かんだ。


「はい」


『……三つ、ある』


「はい」


『……どれか、一つじゃない』


「はい」


『……名前だけじゃない』


「はい」


『……逃げ場だけでもない』


「はい」


『……鈴だけでもない』


「はい」


『……三つ』


「はい」


 中心は、震えながら言った。


『……これが、鳴る前の配置?』


 レオンが静かに頷く。


「そうだな」


『……鳴る前』


「ああ」


『……名前が出る前』


「そうだ」


『……呼ぶ前』


「ああ」


『……戻る場所も、ある』


「ある」


 中心は、深く揺れた。


『……鳴る前の配置』


 リーネの光が、名簿束のそばで静かに揺れる。


『記録します』


『鳴る前の配置を見た朝』


 ◇


 朝の挨拶は、その配置の中で行われた。


 三つが同時にある。


 そのため、誰もいつも通りには話せなかった。


 中心が呼ぶ声も、少し慎重だった。


『……あるべると』


「おう」


『……三つ、見える?』


「ああ」


『……どう?』


 アルベルトは、すぐには答えなかった。


 彼らしくなく、かなり考えた。


「戦場前の配置みたいだ」


 エリシアが眉を動かす。


「不穏です」


「いや、悪い意味じゃない」


 アルベルトは、言葉を探す。


「剣だけじゃ駄目だろ」


「退路もいる」


「合図もいる」


「誰がどこにいるかもいる」


『……名前の戦場?』


 アルベルトは慌てる。


「いや、違う、そうじゃなくて」


 レオンが静かに助ける。


「前に出る前の安全確認だ」


『……安全確認』


「ああ」


 アルベルトは頷く。


「それだ」


『……三つは、安全確認』


「そうだ」


 エリシアへ。


『……えりしあ』


「はい」


『……配置、記録?』


「最低限にします」


『……でも、見てる?』


「見ています」


『……どう?』


「名前の箱、戻り道、鈴」


「この三つが同時に存在していることで、中心が“名前に関する全工程”を一度に見ています」


 中心が震える。


 エリシアは、すぐに柔らかく言い直す。


「難しく言いすぎました」


「名前を持つ前、持った後、呼ばれる前」


「その全部に逃げ道があります」


『……全部に、逃げ道』


「はい」


『……いい』


 セラフィアへ。


『……せら』


「はい」


『……三つ』


「祈りすぎないようにするのが難しいわ」


『……どうして?』


「美しいから」


 中心が揺れる。


『……美しい?』


「ええ」


「怖いものと、戻る場所と、合図が並んでいる」


「それは、とても静かで、美しい」


『……重い?』


「少し」


『……箱』


「入れます」


 セラフィアは、胸に手を当てた。


「美しいと言いたくなる気持ちを、箱へ」


 クラウスへ。


『……くらうす』


「はい」


『……配置』


「扉、廊下、退避室です」


『……名前の箱は?』


「扉の先」


『……白い布は?』


「退避室」


『……鈴は?』


「扉を開ける前の合図」


『……わかりやすい』


「ありがとうございます」


 ラウルへ。


『……らうる』


「盾の前、盾の後ろ、合図」


『……ラウルも、わかりやすい』


「そうか」


 ミリオへ。


『……みりお』


「はい……」


『……三つ、見て、眠くなる?』


「安心すると眠くなります……」


 ラウルが言う。


「寝るな」


 中心が少し揺れる。


 最後に、アリシア。


『……ありしあ』


「はい」


『……三つ、見える?』


「見えます」


『……どう?』


 アリシアは、自分の箱に手を置いた。


「羨ましいです」


 正直な言葉だった。


 中心が震える。


『……羨ましい』


「はい」


「名前の箱があって」


「逃げ場があって」


「呼ぶ前の鈴がある」


「それを見て、羨ましいと思いました」


『……ありしあには?』


「私にも、作ればいいのだと思います」


 アリシアは涙を浮かべる。


「謝罪の箱」


「逃げ場」


「言う前の鈴」


『……言う前の鈴』


「はい」


「謝る前に、相手が受け取れるか聞く合図です」


 中心は、深く揺れた。


『……ありしあも、鳴る前の配置』


「はい」


「作ります」


 ◇


 午前。


 中心は、三つの位置を少しだけ調整したいと言った。


『……白い布』


「はい」


『……箱から、少し離す?』


「離したいですか?」


『……近すぎると、逃げ場が箱にくっつく』


 リリアーナは、その言葉を慎重に受け取る。


「逃げ場が、名前の箱に近すぎると、逃げ場まで名前の一部になってしまう感じですか?」


『……うん』


『……何も書いてない場所なのに』


「はい」


『……名前のそばすぎると、書かれそう』


「分かりました」


『……少し、離す』


「はい」


 白い布を、ほんの少しだけ離す。


 名前の箱と同じ視界には入る。


 けれど、触れない。


 近すぎない。


 独立した戻り道として。


『……いい』


「はい」


『……何も書いてないまま』


「はい」


『……逃げ場は、名前にくっつけない』


「はい」


 余白箱へ。


『……逃げ場は、名前にくっつけない』


 ひとつ。


『……白い布は、何も書いてないまま』


 ひとつ。


『……戻り道は、戻り道として守る』


 ひとつ。


 次に、中心は鈴へ意識を向ける。


『……鈴は、遠い?』


「今は端にあります」


『……遠いと、呼ぶ前に届かない?』


 その言葉に、皆が息を止めた。


 鈴が遠すぎると、合図として使いにくい。


 だが、近すぎると怖い。


 中心は、それを考え始めている。


『……近すぎるのは、こわい』


「はい」


『……遠すぎると、意味がない?』


「そう感じますか?」


『……うん』


 レオンが静かに言う。


「少しだけ、位置を変えるか?」


『……動かす?』


「お前が望むなら」


『……誰が?』


 リリアーナが答える。


「わたしでも、レオン様でも、動かさない選択でも」


『……れおん』


 中心が言った。


『……れおんに、少しだけ』


 レオンは、短く頷く。


「分かった」


『……布ごと』


「ああ」


『……音、出さない』


「出さない」


『……鳴らさない』


「鳴らさない」


『……近すぎない』


「分かった」


 レオンが立ち上がる。


 黒蒼雷が静かに鈴の周りを包む。


 手は慎重に伸びる。


 布に包まれた鈴を、ほんの少しだけ。


 保護陣の端から、白い布と名前の箱を同時に見られる位置へ。


 だが、中心に近すぎない場所へ。


 音はしなかった。


 鈴は鳴らなかった。


 中心は、大きく震える。


『……動いた』


「動かした」


『……鳴ってない』


「鳴ってない」


『……れおんが、した』


「ああ」


『……こわい』


「怖いな」


『……でも、いい』


 レオンは、鈴から離れて元の位置へ戻る。


「ここでいいか」


『……うん』


『……鈴が、見える』


「はい」


『……でも、近すぎない』


「はい」


『……合図の場所』


「はい」


 余白箱へ。


『……鈴を合図の場所に置く』


『……近すぎない』


『……遠すぎない』


『……鳴らさずに動かせた』


 箱が光る。


 リーネが記録する。


『鳴らずに配置が整った日』


 ◇


 午前の終わり。


 救護区域へ今日のことを伝えるか。


 中心は、少し迷った。


『……言う?』


「伝えたいですか?」


『……三つを見た』


「はい」


『……白い布を少し離した』


「はい」


『……鈴を、合図の場所にした』


「はい」


『……名前は、出してない』


「はい」


『……箱は、開けてない』


「はい」


『……伝えても、いい』


「分かりました」


 グレイヴが救護区域へ向かった。


 戻ってきた時、彼は少しだけ目元を柔らかくしていた。


『……ミナ』


「聞いた」


『……どう?』


「ミナは、しばらく黙っていた」


『……重い?』


「重かったと思う」


『……ごめん』


「謝らなくていい」


 グレイヴは続ける。


「そのあと、こう言った」


 一拍。


「“名前の箱、戻る場所、鳴らす前の鈴。三つあるなら、ひとつに閉じ込められない”」


 中心が、大きく震えた。


『……ひとつに、閉じ込められない』


「ああ」


「幼い子は、“三つあると逃げられる?”と聞いた」


『……うん』


「ミナは、“逃げるというより、選べる”と答えた」


 リリアーナの胸が熱くなる。


『……選べる』


「そうだ」


 中心は、余白箱へ言葉を置く。


『……三つあるなら、ひとつに閉じ込められない』


 ひとつ。


『……逃げるというより、選べる』


 ひとつ。


『……名前、戻り道、鈴を選べる』


 ひとつ。


 箱が深く光った。


 ◇


 午後。


 子供たちから札が届いた。


 “三つあると選べる”。


 幼い子が書いた札だった。


 ミナはその札を、箱のそばではなく、救護役の机、白い布に似せた布切れ、そして自分の箱のちょうど真ん中あたりに置いたという。


 中心は、その報告を聞いて、静かに揺れた。


『……真ん中』


「はい」


『……ミナも、配置』


「そうですね」


『……自分で』


「はい」


『……三つあると、選べる』


「はい」


 保留箱には、大人たちからの札も届く。


 “一つの意味に閉じ込めない”。


 “選べる配置を守る”。


 “合図・戻り道・名前を混同しない”。


 中心は、その最後に反応した。


『……混同しない』


 リリアーナが説明する。


「一緒にしてしまわないことです」


『……名前は、名前』


「はい」


『……戻り道は、戻り道』


「はい」


『……鈴は、合図』


「はい」


『……一緒じゃない』


「はい」


『……でも、一緒に見える』


「はい」


『……三つ』


「三つです」


 アリシアが、自分の箱を見ながら言った。


「私も、謝罪と、逃げ場と、合図を混同していました」


 中心が向く。


『……ありしあ』


「謝ることがすべてだと思っていました」


「でも、謝る前の合図もいる」


「相手が逃げられる場所もいる」


「私の謝罪そのものも、箱に入れる必要がある」


『……三つ』


「はい」


「三つあります」


 中心は、柔らかく揺れた。


 ◇


 夕方。


 中心は、三つをもう一度見た。


 名前の箱。


 白い布。


 鈴。


 朝より配置が整っている。


 白い布は少し離れた。


 鈴は合図の場所に移った。


 名前の箱は、戻り道も鈴も見える位置にある。


『……三つ』


「はい」


『……選べる』


「はい」


『……名前だけじゃない』


「はい」


『……逃げ場だけでもない』


「はい」


『……鈴だけでもない』


「はい」


『……全部、別』


「はい」


『……でも、一緒に見える』


「はい」


 レオンが静かに言う。


「配置が整った」


『……鳴る?』


 空気が一瞬止まる。


 中心は、すぐに震えた。


『……違う』


「はい」


『……今日は、鳴らない』


「はい」


『……でも』


 一拍。


『……鳴る前の場所は、できた?』


 リリアーナは、涙を浮かべて頷いた。


「はい」


「できました」


 レオンも言う。


「できた」


 中心は、深く揺れた。


『……鳴る前の場所』


 余白箱へ置く。


『……鳴る前の場所ができた』


 箱が、静かに光った。


 ◇


 夜。


 神殿の奥には、三つの配置が整った静けさが降りていた。


 今日は、名前を出さなかった。


 箱も開けなかった。


 鈴も鳴らさなかった。


 けれど、三つを同時に見た。


 名前の箱。


 戻り道の白い布。


 鳴らない鈴。


 その三つの距離を、中心自身が調整した。


 戻り道は、名前にくっつけない。


 鈴は、遠すぎず近すぎない合図の場所へ。


 名前の箱は、三つを見渡せる位置へ。


 リリアーナは、余白核のそばで静かに問いかけた。


「今日は、どんな日でしたか?」


 中心は、ゆっくり考えた。


『……三つを同時に見る日』


「はい」


『……鳴る前の配置の日』


「はい」


『……白い布を、名前にくっつけない日』


「はい」


『……鈴を、合図の場所に置く日』


「はい」


『……三つあると選べる日』


「はい」


『……ひとつに閉じ込められない日』


「はい」


『……鳴る前の場所ができた日』


「はい」


 リーネの光が、名簿束のそばで静かに揺れる。


『余白記録へ残します』


『三つを同時に見る朝』


『鳴る前の配置の日』


『三つあると選べる日』


『鳴る前の場所ができた日』


 中心が、穏やかに光った。


『……のこった』


「残りました」


 レオンが静かに言う。


「次は、音の手前だな」


 中心が震える。


『……音』


「ああ」


『……こわい』


「怖いな」


『……でも、場所は、できた』


「できた」


『……名前は、出さない』


「出さない」


『……鈴も、鳴らさない』


「今日はな」


『……明日』


「明日の自分に聞け」


『……うん』


 中心は、三つをもう一度だけ見た。


 名前の箱。


 白い布。


 鈴。


 怖い。


 でも、選べる。


 ひとつに閉じ込められない。


『……りり』


「はい」


『……明日』


「はい」


『……音の手前』


 リリアーナの胸が震える。


「はい」


『……鳴らすとは、まだ言わない』


「はい」


『……でも、音の手前を、見たい』


「はい」


『……明日のわたしに、きく』


「はい」


 中心は、安心したように揺れた。


『……りり、おやすみ』


「おやすみなさい」


『……れおん、おやすみ』


「おやすみ」


『……みんな、おやすみ』


 皆が返す。


「おやすみ」


「また明日」


 アリシアも、静かに言った。


「三つを混同せずに、また明日」


 中心が柔らかく揺れる。


『……また、あした』


『……あしたのわたしに、きく』


『……音の手前』


 余白核は、静かに眠りへ入っていった。


 神殿の奥に、夜が降りる。


 今日、中心は名前を得なかった。


 鈴も鳴らさなかった。


 けれど、鳴る前の配置を整えた。


 名もない“わたし”は、今日。


 名前と、戻り道と、合図が別々にあることを知った。


 ひとつに閉じ込められない配置があれば。


 自分は、選べる。


 そして、選べるなら。


 いつか鳴る音も、少しだけ違って聞こえるのかもしれない。

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