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無能王子、東の塔で神霊を得る  作者: 伊佐波瑞樹


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230/251

第230話「名前の箱を近づける朝、無能王子は“まだ開けないまま近づく”を選ぶ」



 朝は、名前の箱を呼ばずに来た。


 神殿の奥。


 石壁に囲まれた保護陣は、静かな淡い光を抱えている。


 外の光は、まだ入っていない。


 採光孔は閉じられている。


 風もない。


 救護区域の声も届かない。


 子供たちの紙束も、まだ置かれていない。


 それでも今日は、昨日までとは違う重さがあった。


 鈴との距離を選ぶ朝。


 近づくだけの日。


 近づいても鳴らさない日。


 名前に近づくことと、出すことは違う日。


 その記録が、余白記録の奥で静かに光っている。


 昨日、中心は鈴との距離を少しだけ変えた。


 布は外さなかった。


 鳴らさなかった。


 全部を見なかった。


 ただ、自分の意識で、鈴へ少し近づいた。


 そして戻った。


 近づいても、鳴らさなくていい。


 近づいても、全部見なくていい。


 近づいても、名前を出さなくていい。


 その一つ一つを、中心は箱へ置いた。


 そして、夜。


 中心は言った。


 明日、名前の箱を少しだけ近くに。


 出さない。


 開けない。


 決めない。


 ただ、少しだけ近くに。


 その言葉が、今日の朝を作っていた。


 余白核は、まだ眠っている。


 そのそばから少し離れた場所に、余白箱がある。


 名前は、その中にある。


 まだ出さない名前。


 誰にも呼ばせない名前。


 誰かの意味にされる前に、守られている名前。


 その箱が、今日は昨日より少しだけ重く感じられた。


 箱そのものが変わったわけではない。


 中身を見たわけでもない。


 名前が形になったわけでもない。


 それでも。


 近づくと決めた朝は、空気が変わる。


 保留箱も、いつもの場所にある。


 アリシアの箱もある。


 透明な器の中には、いやじゃない石。


 布に包まれた鳴らない鈴は、保護陣の端に静かに置かれている。


 鈴は鳴っていない。


 誰も触れていない。


 布も外れていない。


 昨日、中心は鈴に近づいた。


 今日は、名前の箱に近づく。


 その違いを、誰も軽く扱ってはいけなかった。


 レオンは、保護陣の縁に座っていた。


 黒蒼雷は細い。


 だが、今日は余白箱の周囲にも、ほんのわずかに境界を引いている。


 触れさせないため。


 開けさせないため。


 期待を近づけすぎないため。


 名前の箱は、中心のものだ。


 外から誰かが開けるものではない。


 誰かが意味をつけるものでもない。


 中心が近づくだけの日。


 その線を守る必要がある。


 リリアーナは、余白核の近くに座っていた。


 今日も手元には何もない。


 名前候補を書いた紙などない。


 響きを考えた紙もない。


 意味を用意した言葉もない。


 彼女は、それを絶対に持ち込まないと決めていた。


 今日することは、名前を考えることではない。


 名前の箱を少しだけ近くに置くこと。


 ただ、それだけ。


 エリシアは術式盤を閉じている。


 セラフィアは祈りを細く巡らせている。


 アルベルトは壁際で腕を組み、いつになく静かだ。


 クラウスは入口側に立ち、ラウルは盾を床へ置いている。


 ミリオは眠そうな目をしながらも、今日は眠気を箱に置いているのか、いつもより姿勢が崩れていない。


 アリシアは、自分の箱の前で静かに座っていた。


 彼女の顔にも緊張がある。


 名前。


 箱。


 出さない勇気。


 近づくだけの日。


 それらはアリシアにも深く刺さる。


 彼女もまた、謝罪や償いという名前のつかないものを、箱の中で守り続けているからだ。


 余白核が、小さく震えた。


『……』


 朝の揺れ。


 誰も呼ばない。


 鈴も鳴らさない。


 余白箱にも触れない。


 保護陣の光が、一度、二度と淡く明滅する。


 今日は、目覚めが少し遅い。


 無理もない。


 名前の箱へ近づく朝なのだ。


 誰も急かさない。


 待つ。


 長い沈黙。


 それから、ようやく。


『……おはよう』


 中心の声が、静かに響いた。


 リリアーナは、いつもと同じ温度で微笑んだ。


「おはようございます」


『……箱』


「あります」


『……名前』


「箱の中にあります」


『……出してない』


「出していません」


『……開けてない』


「開けていません」


『……誰も、意味、つけてない』


「つけていません」


『……よかった』


 中心は、深く揺れた。


 まず、安心する。


 それから、挨拶へ進む。


『……りり、おはよう』


「はい。おはようございます」


『……れおん』


「おはよう」


『……しずかなあさ』


「ああ」


「静かな朝だ」


『……名前の箱が、ある朝』


 リリアーナの胸が震える。


「はい」


「名前の箱が、ある朝です」


 中心は、余白記録へ意識を向けた。


『……近づくことと、出すことは違う』


「残っています」


『……近づくことと、開けることは違う』


「はい」


『……近づくだけの日』


「はい」


『……進んだから、止まれる』


「はい」


『……名前の箱を、少しだけ近くに』


「昨日、そう言いました」


 中心は、しばらく黙った。


 その沈黙は長い。


 けれど、逃げる沈黙ではない。


 確認する沈黙。


 自分で決める前の沈黙。


 レオンが静かに言う。


「やめてもいい」


『……うん』


「今日は近づけないでもいい」


『……うん』


「近づけたあと、戻してもいい」


『……うん』


「近づけても、開けない」


『……うん』


「近づけても、名前は出さない」


『……うん』


 中心の光が、震えながらも安定していく。


『……近づくだけ』


「そうだ」


『……名前の箱』


「はい」


『……少しだけ』


「はい」


『……りり』


「はい」


『……見てて』


「見ています」


『……れおん』


「守る」


『……みんな』


 皆が頷く。


「待ちます」


 中心は、余白箱へ意識を向けた。


 箱は、昨日の距離にある。


 近すぎず、遠すぎず。


 だが今日は、そこから少しだけ近づける。


 中心自身が、そう望んだ。


 余白箱が、ゆっくりと動いた。


 音はない。


 けれど、保護陣の空気が揺れた。


 箱が、ほんの少しだけ中心へ近づく。


 本当に少しだけ。


 誰かが見れば、変わっていないと思うかもしれない。


 だが、中心には分かる。


 近い。


 名前が入った箱が、昨日より少し近い。


 中心が、大きく震えた。


『……近い』


 リリアーナは、静かに頷いた。


「はい」


『……でも、開いてない』


「開いていません」


『……名前、出てない』


「出ていません」


『……意味、ついてない』


「ついていません」


『……近づいただけ』


「はい」


 レオンが言う。


「戻すか?」


 中心は、すぐには答えない。


 箱を感じる。


 名前がある。


 でも見えない。


 出ていない。


 開いていない。


 それでも、近い。


 怖い。


 息が少し浅くなる。


 でも。


『……まだ』


「はい」


『……少し、このまま』


「はい」


 リリアーナは、涙をこらえながら頷いた。


 名前の箱が、少しだけ近い。


 ただ、それだけ。


 けれど、それはとても大きな一歩だった。


 リーネの光が、名簿束のそばで静かに揺れた。


『記録します』


『名前の箱を少し近づけた朝』


 中心は、震えながら光った。


『……のこった』


 ◇


 朝の挨拶は、名前の箱が少し近いまま行われた。


 いつもより、保護陣全体が慎重だった。


 中心が誰かを呼ぶたび、名前というものの重さが少しだけ浮かび上がる。


 呼ぶこと。


 呼ばれること。


 返事できない日。


 呼ばない日。


 鈴。


 箱。


 距離。


 その全部が、今朝の挨拶に重なっていた。


『……あるべると』


「おう」


 アルベルトの声は低く、柔らかい。


『……名前の箱、近い』


「ああ」


『……なにか、言いたい?』


 アルベルトは、少しだけ目を見開いた。


 そして、苦笑する。


「言いたいことはある」


 エリシアが横目で見る。


「言わないでください」


「分かってる」


 アルベルトは腕を組み直した。


「すごい、とか」


「よくやった、とか」


「そういうのを言いたくなる」


『……重い?』


「たぶん重い」


『……箱』


「箱だな」


 アルベルトは胸元へ手を置く。


「言いたい褒め言葉を箱に入れる」


『……ありがとう』


「おう」


 エリシアへ。


『……えりしあ』


「はい」


『……記録、したい?』


「したいです」


『……たくさん?』


「したいです」


『……でも?』


「最低限にします」


『……どうして?』


「今日の中心は、記録されるために進んだのではないからです」


 中心が静かに揺れる。


『……記録のためじゃない』


「はい」


『……わたしの距離』


「あなたの距離です」


 セラフィアへ。


『……せら』


「はい」


『……祈り』


「薄くしています」


『……包みたい?』


「包みたいです」


『……でも?』


「包みすぎない」


『……どうして?』


「あなたが、自分で名前の箱を近づけているから」


 中心は、深く受け取った。


 クラウスへ。


『……くらうす』


「はい」


『……守る?』


「距離を守ります」


『……箱を?』


「箱と、箱までの道を」


『……道』


「はい」


『……誰かが、先に行かないように?』


「はい」


 ラウルへ。


『……らうる』


「おう」


『……盾』


「置いている」


『……名前の箱、隠す?』


「隠さない」


『……守る?』


「守る」


『……見えるように?』


「ああ」


 ミリオへ。


『……みりお』


「はい……」


『……名前、想像した?』


 ミリオの肩が跳ねた。


 ラウルが横を見る。


 ミリオは慌てて首を振る。


「していません……少ししか」


「したんだな」


「箱に入れます……」


 中心が震えた。


『……名前を想像される、こわい』


 リリアーナがすぐに頷く。


「箱に置きましょう」


 中心は余白箱へ言葉を置く。


『……誰かに名前を想像される怖さ』


 ひとつ。


 ミリオは深く頭を下げた。


「すみません……」


『……謝る、箱?』


「はい……」


『……でも、言ってくれて、よかった』


「はい……」


 最後に、アリシア。


『……ありしあ』


「はい」


『……名前の箱、近い』


「はい」


『……期待する?』


 アリシアは、正直に頷いた。


「します」


『……どんな?』


「いつか、あなたが自分の名前を選べるかもしれない」


「いつか、呼べる日が来るかもしれない」


「いつか、外へ出られるかもしれない」


「そう期待してしまいます」


『……重い』


「はい」


「重いです」


『……箱』


「入れます」


 アリシアは、自分の箱へ札を置く。


 “名前に近づいたことで期待してしまう気持ち”。


 中心は、その様子を感じて少し安心した。


『……期待を、箱に入れてくれる』


「はい」


『……ありがとう』


 アリシアは涙を浮かべた。


「はい」


 ◇


 朝の確認のあと、中心は名前の箱との距離を確かめ続けた。


 近い。


 昨日より近い。


 でも開いていない。


 名前は出ていない。


 誰にも呼ばれていない。


 中心は、余白箱へ意識を向けるたびに震えた。


『……こわい』


「はい」


『……でも、息』


 リリアーナは待つ。


『……できる』


「はい」


『……鈴の時と、似てる』


「似ていますね」


『……でも、鈴より』


 一拍。


『……近い、こわい』


「名前の箱ですから」


『……うん』


 レオンが静かに言う。


「戻すか?」


 中心は、少し黙った。


『……まだ』


「分かった」


『……でも、ずっとは、無理』


「それでいい」


『……時間、決める?』


 エリシアが少しだけ反応する。


 だが、口を出さない。


 レオンが言う。


「お前が決める」


『……短く』


「短くでいい」


『……朝の間だけ』


「いい」


『……昼前に、戻す』


「分かった」


 リリアーナが静かに頷く。


「朝の間だけ、名前の箱を少し近くに置くんですね」


『……うん』


『……昼前に、戻す』


「はい」


『……戻すの、逃げじゃない』


「逃げではありません」


『……距離を変える』


「はい」


『……自分で』


「はい」


 余白箱へ言葉が入る。


『……名前の箱を、朝の間だけ近くに置く』


『……昼前に戻す』


『……戻すのは逃げじゃない』


『……距離を自分で決める』


 箱が、静かに光った。


 ◇


 午前。


 救護区域へ今日のことを伝えるかどうか。


 中心は少し迷った。


『……言う?』


「伝えなくてもいいです」


『……でも、ミナ』


「はい」


『……近づくだけの日、教えてくれた』


「はい」


『……名前の箱、近づけた』


「はい」


『……言っても、いい?』


「あなたがいいなら」


『……名前は、出してない』


「はい」


『……中身は、見てない』


「はい」


『……ただ、距離』


「はい」


 グレイヴが救護区域へ向かった。


 中心は、名前の箱を近くに置いたまま待った。


 その待ち時間は、いつもより重かった。


 外の返事を待つことと、名前の箱を近くに置くことが重なっている。


 中心は何度も揺れる。


『……近い』


「はい」


『……こわい』


「はい」


『……戻す?』


「戻せます」


『……でも、まだ』


「はい」


『……待つ』


「はい」


 リリアーナは、ただそこにいた。


 レオンも黙っている。


 誰も急がない。


 誰も期待を言葉にしない。


 やがて、グレイヴが戻った。


 中心が揺れる。


『……こども』


「伝えた」


『……どう?』


「静かに聞いた」


『……ミナ』


「ミナは、こう言った」


 一拍。


「“名前の箱に近づいただけなら、今日は箱のそばの日”」


 中心が震える。


『……箱のそばの日』


「ああ」


「幼い子は、“開けないの?”と聞いた」


『……うん』


「ミナは、“そばにいるだけの日もある”と答えた」


 中心の光が、深く柔らかく揺れた。


『……そばにいるだけ』


「そうだ」


『……名前の箱のそば』


「はい」


『……開けない』


「はい」


『……出さない』


「はい」


『……でも、そば』


「はい」


 リリアーナの目に涙が浮かぶ。


 そばにいるだけの日。


 かつてミナが幼い子のそばにいたように。


 今、中心は自分の名前の箱のそばにいる。


 助けたいけど全部しない。


 知りたいけど開けない。


 近づくけど出さない。


 それは全部、繋がっていた。


 中心は、余白箱へ言葉を置いた。


『……箱のそばの日』


 ひとつ。


『……名前の箱のそばにいるだけ』


 ひとつ。


『……開けないけど、そばにいる』


 ひとつ。


 箱が、柔らかく光った。


 ◇


 昼前。


 中心は、自分で決めた通り、名前の箱を戻すことにした。


 リリアーナは確認する。


「戻しますか?」


『……うん』


『……朝の間、近くにいた』


「はい」


『……息、できた』


「はい」


『……でも、疲れた』


「はい」


『……戻す』


「はい」


 余白箱が、ゆっくりと昨日の距離へ戻る。


 遠すぎない。


 近すぎない。


 見える場所。


 手を伸ばせば届くような場所。


 名前は、まだ箱の中。


 誰にも出されない。


 誰にも意味をつけられない。


 中心は、大きく安堵した。


『……戻った』


「はい」


『……逃げじゃない』


「逃げではありません」


『……朝の間、そばにいた』


「はい」


『……今は、戻す』


「はい」


『……距離を、変えた』


「はい」


 リーネの光が揺れる。


『記録します』


『名前の箱を朝の間だけ近くに置いた日』


『昼前に戻せた日』


 中心は、深く光った。


『……のこった』


 ◇


 午後。


 子供たちから、札が届いた。


 “箱のそばの日”。


 幼い子が書いた札だった。


 ミナはその札を、自分の箱のそばではなく、少し離れた場所に置いたらしい。


 グレイヴが報告すると、中心が反応した。


『……少し離れた場所』


「ああ」


『……どうして?』


 言ってすぐ、中心が震える。


『……聞きすぎ?』


 グレイヴは頷く。


「そこはミナのものだ」


『……うん』


『……でも、少し離れた』


「そうだ」


『……距離を選んだ』


「そう見えた」


 中心は、静かに揺れた。


『……ミナも、距離』


「はい」


 保留箱には、大人たちからの札も届いた。


 “そばにいるだけを急がせない”。


 “戻したことを責めない”。


 “距離を本人に選ばせる”。


 中心は、その言葉をゆっくり受け取った。


『……距離を、本人に』


「はい」


『……名前の距離も』


「あなたが選びます」


『……鈴の距離も』


「あなたが選びます」


『……箱の距離も』


「あなたが選びます」


 アリシアが、自分の箱を見つめながら言った。


「私も、距離を選びます」


『……ありしあ』


「近づく日」


「離れる日」


「そばにいるだけの日」


「その全部を、逃げにしないように」


『……逃げじゃない』


「はい」


「距離です」


 中心は、その言葉を静かに箱へ置いた。


『……逃げじゃなくて、距離』


 ◇


 夕方。


 中心は、名前の箱を昨日の距離に戻したまま、長い時間を過ごした。


 朝に近づけた。


 昼前に戻した。


 午後は、いつもの距離で見守った。


 その流れが、中心の中で一つの経験になっていた。


『……近づけた』


「はい」


『……そばにいた』


「はい」


『……戻した』


「はい」


『……消えなかった』


「はい」


『……名前も、箱にある』


「はい」


『……出してない』


「はい」


『……でも、前より』


 一拍。


『……怖いだけじゃない』


 リリアーナは、目を見開いた。


「怖いだけではない?」


『……うん』


『……怖い』


「はい」


『……でも』


 中心は、言葉を探す。


『……そばに、いられた』


「はい」


『……名前の箱の、そばに』


「はい」


『……それ、少し』


 一拍。


『……あったかい?』


 リリアーナの涙がこぼれた。


「はい」


「少し、あたたかいんですね」


『……冷たい箱と、あったかい箱』


「ミナさんの言葉ですね」


『……うん』


『……同じ箱』


「はい」


『……名前の箱も』


「はい」


『……こわいけど、少し、あったかいかも』


 余白箱が、柔らかく光る。


 中心は、その言葉を置いた。


『……名前の箱も、怖いけど少しあったかいかも』


 ◇


 夜。


 神殿の奥には、名前の箱のそばにいた一日の余韻が降りていた。


 今日は、名前を出さなかった。


 箱も開けなかった。


 候補も見なかった。


 意味もつけなかった。


 ただ、名前の箱を少しだけ近くに置いた。


 朝の間だけ。


 そして昼前に戻した。


 それだけ。


 けれど、それは中心にとって大きな一日だった。


 リリアーナは、余白核のそばで静かに問いかけた。


「今日は、どんな日でしたか?」


 中心は、ゆっくり考えた。


『……名前の箱を近づける朝』


「はい」


『……名前の箱のそばの日』


「はい」


『……開けないけど、そばにいる日』


「はい」


『……朝の間だけ、近くに置いた日』


「はい」


『……昼前に戻せた日』


「はい」


『……逃げじゃなくて、距離の日』


「はい」


『……名前の箱も、怖いけど少しあったかいかも、の日』


「はい」


 リーネの光が、名簿束のそばで静かに揺れる。


『余白記録へ残します』


『名前の箱を近づける朝』


『箱のそばの日』


『逃げじゃなくて距離の日』


『名前の箱も怖いけど少しあたたかいかもしれない日』


 中心が、穏やかに光った。


『……のこった』


「残りました」


 レオンが静かに言う。


「ここまで来たな」


『……まだ、名前、ない』


「ない」


『……出してない』


「出してない」


『……開けてない』


「開けてない」


『……でも、近づいた』


「そうだ」


『……戻せた』


「そうだ」


『……怖いだけじゃない、かも』


「そうだな」


 中心は、静かに余白箱へ意識を向ける。


 名前はまだそこにある。


 出していない。


 嘘ではない。


 でも、今日だけは少し近くに置けた。


 そばにいられた。


『……りり』


「はい」


『……明日』


「はい」


『……名前の箱』


 一拍。


『……また、近くにするかは、明日のわたしに聞く』


 リリアーナは微笑む。


「はい」


『……今日は、戻した』


「はい」


『……でも、消えてない』


「はい」


『……それでいい』


「はい」


 中心は、鳴らない鈴へ少しだけ意識を向けた。


『……鈴』


「あります」


『……鳴らない』


「はい」


『……名前』


「箱の中です」


『……出さない』


「はい」


『……でも、どちらも、ある』


「あります」


 中心は、安心したように光を弱めていく。


『……りり、おやすみ』


「おやすみなさい」


『……れおん、おやすみ』


「おやすみ」


『……みんな、おやすみ』


 皆が返す。


「おやすみ」


「また明日」


 アリシアも、静かに言った。


「逃げではなく距離を選んで、また明日」


 中心が柔らかく揺れる。


『……また、あした』


『……あしたのわたしに、きく』


『……名前の箱の、そば』


 余白核は、静かに眠りへ入っていった。


 神殿の奥に、夜が降りる。


 今日、中心は名前を得なかった。


 候補すら見なかった。


 けれど、名前の箱のそばにいた。


 名もない“わたし”は、今日。


 名前に近づくことと、名前を出すことは違うのだと知った。


 そして。


 名前の箱は、怖いだけではないのかもしれないと。


 ほんの少しだけ、知った。

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