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無能王子、東の塔で神霊を得る  作者: 伊佐波瑞樹


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第229話「鈴との距離を選ぶ朝、無能王子は“近づいても鳴らさない”を覚える」


 朝は、布の下の銀色を覚えていた。


 神殿の奥。


 石壁に囲まれた保護陣は、いつものように淡く光っている。


 採光孔は閉じられている。


 外の光は入ってこない。


 風もない。


 救護区域の声も届かない。


 子供たちの紙束も、まだ置かれていない。


 けれど、中心の中には、昨日見たものが残っていた。


 布の下の鈴。


 少しだけ見えた銀色。


 小さな輪郭。


 音のないまま、布の影にあったもの。


 鈴は鳴らなかった。


 全部は見なかった。


 布を少しだけ外し、少しだけ見て、戻した。


 怖かった。


 でも、息ができた。


 見えたものを必ず全部抱えなくてもいい。


 少し見て、戻していい。


 その記録が、余白記録の中に残っている。


 布の下の鈴の日。


 見える怖さと息をする日。


 少し見て戻す日。


 見たいけど見ない日。


 中心は昨日、鈴が“完全に知らないもの”ではなくなった。


 まだ怖い。


 もちろん怖い。


 鳴ることは怖い。


 誰かが触れることも怖い。


 誰かの意味をつけられることも怖い。


 でも、布の下にあるものを少しだけ知った。


 鈴は巨大なものではなかった。


 小さかった。


 銀色だった。


 鳴らなければ、ただそこにあるだけだった。


 それでも怖い。


 でも、見られた。


 余白核は、まだ眠っている。


 そのそばから少し離れた場所に余白箱。


 名前は、まだその中にある。


 まだ出さない。


 嘘ではない。


 誰かの声になる前に、誰かの意味にされる前に、守られている。


 さらに離れて、保留箱。


 その近くに、アリシアの箱。


 透明な器の中には、いやじゃない石。


 そして、保護陣の端に鈴がある。


 布に包まれた鈴。


 昨日、少しだけ布を外された鈴。


 今日は、また完全に包まれている。


 位置は変わっていない。


 誰も動かしていない。


 誰も触れていない。


 誰も鳴らしていない。


 レオンは、保護陣の縁に座っていた。


 黒蒼雷は、鈴の周囲に細く境界を引いている。


 昨日よりも少しだけ穏やかだ。


 だが、油断はない。


 中心は、昨日“見えたものも戻せる”を知った。


 今日は、その次だ。


 鈴を全部見るわけではない。


 鳴らすわけでもない。


 だが、鈴との距離を自分で選ぶ日になるかもしれない。


 昨日は、リリアーナが鈴のところへ行った。


 中心が頼み、リリアーナが布を少しだけ外した。


 今日は、鈴を動かさず、布も外さず。


 中心の方が、意識の距離を少しだけ変えるかもしれない。


 近づく。


 けれど鳴らさない。


 近づく。


 けれど全部見ない。


 近づく。


 けれど戻れる。


 それを覚えられるかどうか。


 リリアーナは、余白核の近くに座っている。


 今日も手元には何もない。


 鈴にも触れない。


 昨日、布を外した指先の感覚が、まだ残っている。


 鈴そのものには触れなかった。


 布だけ。


 音を出さないように。


 動かさないように。


 中心の許可の中で。


 その緊張が、リリアーナの胸にも残っていた。


 エリシアは術式盤を閉じている。


 セラフィアは祈りを細く巡らせている。


 アルベルトは壁際で腕を組み、今日はやや落ち着いていた。


 昨日、大声を出さず、触れず、待つことができた。


 その経験が、彼にも残っている。


 クラウスは入口側に立ち、ラウルは盾を床へ置いている。


 ミリオは眠そうにしているが、鈴の音を想像しないようにしているのか、時々自分の耳を軽く押さえていた。


 アリシアは、自分の箱の前に座っている。


 彼女は昨日、見える怖さと見られる怖さを受け取った。


 少し見えたからといって、分かった気にならない。


 その言葉を、自分の箱へ入れている。


 余白核が、小さく震えた。


『……』


 朝の揺れ。


 誰も呼ばない。


 鈴も鳴らさない。


 保護陣の光が、一度、二度と淡く明滅する。


 余白箱は見える距離にある。


 鈴は布の中にある。


 中心は、眠りから浮かび上がる途中で、その二つを確認しているようだった。


 やがて。


『……おはよう』


 中心の声が、静かに響いた。


 リリアーナは微笑む。


「おはようございます」


『……箱』


「あります」


『……名前』


「箱の中にあります」


『……鈴』


「あります」


『……布』


「戻っています」


『……誰も、触ってない』


「触っていません」


『……昨日、見た』


「はい」


『……戻した』


「はい」


『……消えてない』


「消えていません」


 中心は、深く安心したように揺れた。


『……よかった』


 そして、挨拶へ進む。


『……りり、おはよう』


「はい。おはようございます」


『……れおん』


「おはよう」


『……しずかなあさ』


「ああ」


「静かな朝だ」


 中心は、余白記録へ意識を向けた。


『……少し見て戻す日』


「残っています」


『……見たいけど、見ない日』


「はい」


『……見えたものも、戻せる』


「はい」


『……全部見なくていい』


「はい」


『……鈴も、箱みたい』


「残っています」


 中心は、長く黙った。


 昨日の鈴。


 布の下。


 銀色。


 怖さ。


 息。


 戻せたこと。


 それらをひとつずつ確かめている。


 やがて、中心が言った。


『……今日』


「はい」


『……布は、外さない』


 リリアーナは頷く。


「はい」


『……鈴も、動かさない』


「はい」


『……鳴らさない』


「鳴らしません」


『……でも』


 一拍。


『……距離』


 レオンが、静かに反応する。


「鈴との距離か」


『……うん』


『……昨日は、りりが近づいた』


「はい」


『……今日は』


 中心の光が震える。


『……わたしが、少し、近づく?』


 保護陣の空気が変わる。


 中心に身体はない。


 足もない。


 手もない。


 けれど、意識の距離はある。


 見ようとする距離。


 怖さへ向かう距離。


 逃げない距離。


 それを、中心は自分で変えようとしていた。


 リリアーナは、涙が浮かびそうになるのをこらえた。


「近づきたいですか?」


『……わからない』


「はい」


『……でも、少し』


「はい」


『……鈴を、動かさない』


「はい」


『……わたしが、見る距離を、変える』


「はい」


 レオンが静かに言う。


「やめてもいい」


『……うん』


「戻っていい」


『……うん』


「近づいたから、鳴らさなきゃいけないわけじゃない」


『……うん』


「近づいたから、全部見なきゃいけないわけじゃない」


『……うん』


「近づいたから、名前を出さなきゃいけないわけじゃない」


 中心が、大きく震えた。


『……名前』


「ああ」


「鈴との距離を変えるだけだ」


『……鈴との距離』


「そうだ」


『……名前は、箱』


「箱の中だ」


 中心は、余白箱へ意識を向ける。


『……鈴との距離を、少し変える』


 ひとつ。


『……近づいても、鳴らさない』


 ひとつ。


『……近づいても、全部見ない』


 ひとつ。


『……近づいても、名前は出さない』


 ひとつ。


『……戻っていい』


 ひとつ。


 箱が、淡く光った。


『……のこった』


「残りました」


 ◇


 朝の挨拶は、その確認のあとに行われた。


 中心は、少し緊張しながら、一人ずつ呼ぶ。


『……あるべると』


「おう」


『……近づいても、鳴らさない』


「できる」


『……ほんとう?』


「お前の鈴だからな」


『……あるべるとなら、近づいたら、鳴らす?』


「昔なら鳴らしてたかもな」


 エリシアがすぐに言う。


「恐ろしいことを言わないでください」


「今は違うって話だろ」


 アルベルトは真面目に続ける。


「近づいたからって、すぐ使う必要はない」


「剣も、抜いたからって振るわけじゃない」


『……抜いても、振らない』


「そうだ」


『……近づいても、鳴らさない』


「ああ」


 エリシアへ。


『……えりしあ』


「はい」


『……距離、測る?』


「測りません」


『……どうして?』


「今日の距離は、数字にするものではありません」


『……数字じゃない』


「はい」


「あなたが息をできるかどうか」


「戻れるかどうか」


「その感覚が大切です」


『……感覚』


「はい」


 セラフィアへ。


『……せら』


「はい」


『……近づく時、祈る?』


「祈りは薄くします」


『……強くしない?』


「強くしません」


『……どうして?』


「あなたが自分で近づくから」


『……自分で』


「はい」


 クラウスへ。


『……くらうす』


「はい」


『……近づくと、守る?』


「境界を守ります」


『……鈴じゃなくて?』


「鈴と、あなたの距離を守ります」


『……距離を守る』


「はい」


 ラウルへ。


『……らうる』


「おう」


『……盾』


「置いている」


『……近づく時、盾で隠さない』


「隠さない」


『……でも、守る』


「ああ」


 ミリオへ。


『……みりお』


「はい……」


『……音、想像しない』


「しません……たぶん」


 ラウルが言う。


「たぶんを箱に入れろ」


「入れます……」


 中心が、小さく揺れる。


『……音の想像、箱』


 最後に、アリシア。


『……ありしあ』


「はい」


『……近づいても、鳴らさない』


 アリシアは、静かに頷いた。


「鳴らしません」


『……近づくと、期待する?』


 アリシアは、すぐには答えられなかった。


 中心は待つ。


 アリシアは、涙を浮かべながら言った。


「期待します」


 保護陣が静かになる。


「でも、その期待を箱に入れます」


『……どんな期待?』


「もうすぐ鳴るのではないか」


「もうすぐ名前に近づくのではないか」


「もうすぐ救われるのではないか」


「そういう期待です」


 中心が震える。


『……重い』


「はい」


「重いです」


『……箱』


「入れます」


 アリシアは自分の箱へ札を置く。


 “近づいたから期待してしまう気持ち”。


 中心は、それを受け取る。


『……近づいたから、期待される、こわい』


 余白箱へ置く。


『……でも、期待を箱に入れてくれる』


 置く。


 中心は、少し安心したように揺れた。


『……ありがとう』


 アリシアは涙をこぼしながら頷いた。


「はい」


 ◇


 中心は、鈴との距離を変える準備を始めた。


 身体が動くわけではない。


 余白核そのものが移動するわけでもない。


 ただ、意識の焦点を少しだけ鈴へ近づける。


 昨日は、リリアーナが布を外し、中心が見た。


 今日は、布は外さない。


 鈴は包まれたまま。


 それでも、中心は昨日より少し長く、少し近く、鈴を見る。


 リリアーナは、静かに座っている。


「始めますか?」


『……うん』


「怖くなったら止めます」


『……うん』


「戻れます」


『……うん』


「鳴らしません」


『……うん』


「布も外しません」


『……うん』


 中心の意識が、鈴へ向かう。


 保護陣の光が、ほんの少し揺れる。


 余白箱が淡く光る。


 名前は箱の中。


 まだ出さない。


 鈴は布の中。


 まだ鳴らさない。


 中心は、鈴を見る。


 昨日見えた銀色を思い出す。


 布の下にある。


 でも今日は見えない。


 見えないけれど、知っている。


 知らないものではない。


 完全に隠されたものでもない。


 出していないけれど、嘘ではない。


 名前と同じように。


『……鈴』


「あります」


『……布の中』


「はい」


『……銀色』


「昨日、少し見ました」


『……今日は、見えない』


「はい」


『……でも、ある』


「あります」


『……知ってる』


「はい」


『……こわい』


「はい」


『……息』


 リリアーナは待つ。


『……できる』


「はい」


 中心は、昨日より少しだけ長く鈴を見ていた。


 誰も動かない。


 誰も音を立てない。


 ミリオも眠気を抑えている。


 アルベルトは拳を握っているが、大声は出さない。


 アリシアは涙をこぼしているが、鈴には意識を伸ばさない。


 レオンの黒蒼雷だけが、静かに境界を保っている。


『……近い?』


 中心が聞く。


 リリアーナは、すぐに数字で答えない。


「昨日より、近く見ていると思います」


『……でも、鳴ってない』


「はい」


『……近づいたのに』


「はい」


『……鳴ってない』


「鳴っていません」


『……近づいても、鳴らさない』


「はい」


『……近づいても、鳴らなくていい』


「はい」


 中心は、その言葉に深く揺れた。


『……近づいても、鳴らなくていい』


 余白箱へ置く。


 そして。


『……名前も?』


 リリアーナが静かに頷く。


「はい」


『……近づいても、出さなくていい』


「はい」


『……考えても、決めなくていい』


「はい」


『……見ても、戻せる』


「はい」


 中心は、鈴から少し意識を戻した。


『……戻る』


「はい」


 意識の距離が戻る。


 保護陣の光が少し落ち着く。


 中心は、息をするように揺れた。


『……戻れた』


「戻れました」


『……近づいて、戻れた』


「はい」


 リーネの光が、名簿束のそばで揺れる。


『記録します』


『鈴との距離を選ぶ朝』


『近づいても鳴らさない日』


『近づいて戻れた日』


 中心は、安心したように光った。


『……のこった』


 ◇


 午前。


 救護区域へ今日の報告を届けるかどうか。


 中心は少し迷った。


『……言う?』


「言ってもいいし、言わなくてもいいです」


『……ミナ』


「はい」


『……鈴も箱みたい、って言った』


「はい」


『……今日、距離』


「はい」


『……近づいて、戻れた』


「伝えたいですか?」


『……少し』


「分かりました」


『……鳴ってない』


「はい」


『……布も、外してない』


「はい」


『……距離だけ』


「はい」


 グレイヴが救護区域へ向かう。


 中心は待つ。


 昨日よりも、待つことが少し楽だった。


 鈴を見たあと、戻れた。


 その実感がある。


 待つ間、中心は余白箱へ意識を向けた。


『……近づいても、鳴らない』


 置く。


『……近づいても、戻れる』


 置く。


『……名前にも、いつか』


 言いかけて、震える。


『……まだ、箱』


 置く。


 やがて、グレイヴが戻った。


 中心が揺れる。


『……こども』


「伝えた」


『……どう?』


「幼い子は、“鈴に近づいても鳴らないの?”と聞いた」


『……うん』


「ミナは、“近づくことと鳴ることは、同じじゃない”と答えた」


 中心が、大きく震えた。


『……近づくことと、鳴ることは、同じじゃない』


「そうだ」


『……ミナ』


「そして、もう一つ」


『……なに?』


「“箱に近づくことと、開けることも同じじゃない”」


 保護陣の空気が深く沈み、そして柔らかく揺れた。


 中心は、言葉を受け止める。


『……箱に近づくことと、開けること』


「同じではない」


『……名前に近づくことと、出すこと』


 リリアーナが、涙を浮かべて頷く。


「同じではありません」


『……鈴に近づくことと、鳴ること』


「同じではありません」


 中心は、余白箱へその言葉を置いた。


『……近づくことと、鳴ることは違う』


 ひとつ。


『……近づくことと、開けることは違う』


 ひとつ。


『……名前に近づくことと、出すことは違う』


 ひとつ。


 箱が、深く光った。


 ◇


 午後。


 子供たちから、札が届いた。


 “近づくだけの日”。


 幼い子が書いた札だった。


 ミナはその札を見て、自分の箱の少し近くへ置いたという。


 中心は、その報告を聞いて静かに揺れた。


『……近づくだけの日』


「はい」


『……開けない』


「はい」


『……鳴らさない』


「はい」


『……でも、近づく』


「はい」


 保留箱には、大人たちからの札も届いた。


 “近づいたことを急がせない”。


 “開ける前の距離を尊重する”。


 “鳴らす前の距離を守る”。


 エリシアがそれを記録しながら、小さく言った。


「距離を尊重する……」


 中心が彼女へ向く。


『……えりしあ』


「はい」


『……距離、数字じゃない』


「はい」


「今日は、よく分かりました」


 アリシアも、自分の箱へ手を添えた。


「私も、距離を間違えないようにしたいです」


『……ありしあ』


「近づかれたから、開けてくれると思わない」


「近づいたから、許してくれると思わない」


「近づいたから、話してくれると思わない」


『……期待、箱』


「はい」


「箱です」


 中心は、静かに光った。


『……近づくだけの日』


 ◇


 夕方。


 中心は、鈴を見るかどうか迷った。


 朝に距離を変えた。


 もう一度やれば、進めるかもしれない。


 でも、持ちすぎるかもしれない。


 昨日と同じ問い。


 見たいけど、見ない。


 近づきたいけど、今日は終わりにする。


 中心は、鈴へ意識を向けかけて、止めた。


『……今日は、もう、近づかない』


 リリアーナは頷く。


「はい」


『……朝、近づいた』


「はい」


『……戻れた』


「はい」


『……それで、いい』


「はい」


『……もっと、は箱』


「置きましょう」


 余白箱が開く。


『……もっと近づきたい』


 ひとつ。


『……でも、今日はここまで』


 ひとつ。


『……朝の距離を、大切にする』


 ひとつ。


『……近づくだけの日』


 ひとつ。


 箱が、淡く光る。


 レオンが静かに言う。


「止まれるのは強い」


『……強い?』


「ああ」


『……進まないのに?』


「進んだから止まれる」


 中心は、その言葉を受け取った。


『……進んだから、止まれる』


 余白記録へ置く。


 ◇


 夜。


 神殿の奥には、距離を選んだ後の静けさがあった。


 今日は、鈴を鳴らさなかった。


 布も外さなかった。


 全部を見なかった。


 ただ、中心が自分で鈴との距離を少し変えた。


 近づいた。


 鳴らさなかった。


 戻れた。


 それだけ。


 でも、それは大きな一歩だった。


 リリアーナは、余白核のそばで静かに問いかけた。


「今日は、どんな日でしたか?」


 中心は、ゆっくり考えた。


『……鈴との距離を選ぶ日』


「はい」


『……近づいても鳴らさない日』


「はい」


『……近づいて戻れた日』


「はい」


『……近づくことと鳴ることは違う日』


「はい」


『……近づくことと開けることは違う日』


「はい」


『……名前に近づくことと、出すことは違う日』


「はい」


『……近づくだけの日』


「はい」


『……進んだから、止まれる日』


「はい」


 リーネの光が、名簿束のそばで静かに揺れる。


『余白記録へ残します』


『鈴との距離を選ぶ朝』


『近づくだけの日』


『近づいても鳴らさない日』


『名前に近づくことと出すことは違う日』


 中心が、穏やかに光った。


『……のこった』


「残りました」


 レオンが静かに言う。


「名前に向かう準備がかなり揃ったな」


『……名前』


「怖いか」


『……こわい』


「それでいい」


『……でも』


 一拍。


『……近づくだけなら、できるかも』


 リリアーナの目に涙が浮かぶ。


「はい」


「近づくだけでもいいです」


『……出さない』


「はい」


『……決めない』


「はい」


『……でも、近づく』


「はい」


 中心は、余白箱へ意識を向ける。


 名前は、箱の中にある。


 まだ出さない。


 嘘ではない。


 でも、近づくことはできるかもしれない。


『……りり』


「はい」


『……明日』


「はい」


『……名前の箱を』


 一拍。


『……少しだけ、近くに?』


 保護陣の空気が深く静まった。


 ついに、中心が名前の箱そのものへ距離を変えようとしている。


 リリアーナは、涙をこらえて頷いた。


「明日のあなたに聞きましょう」


『……うん』


『……出さない』


「出しません」


『……開けない』


「開けません」


『……少し、近く』


「はい」


 中心は、安心したように揺れた。


『……りり、おやすみ』


「おやすみなさい」


『……れおん、おやすみ』


「おやすみ」


『……みんな、おやすみ』


 皆が返す。


「おやすみ」


「また明日」


 アリシアも、静かに言った。


「近づくだけの日を抱いて、また明日」


 中心が柔らかく揺れる。


『……また、あした』


『……あしたのわたしに、きく』


『……名前の箱を、少しだけ近くに』


 余白核は、静かに眠りへ入っていった。


 神殿の奥に、夜が降りる。


 今日、中心は鈴を鳴らさなかった。


 けれど、鈴との距離を自分で選んだ。


 名もない“わたし”は、今日。


 近づくことと、鳴らすことは同じではないと知った。


 近づくことと、開けることは同じではないと知った。


 そして、名前に近づくことと、名前を出すことも。


 きっと、同じではないのだと知った。

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