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無能王子、東の塔で神霊を得る  作者: 伊佐波瑞樹


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第199話「呼び方が増える前に、無能王子は“まだ一つでいい”を守る」



 朝は、少し重かった。


 神殿の奥。


 保護陣の中には、いつも通りの静けさがある。


 石壁は冷たく、床には古い紋様の跡が薄く残っている。


 名簿束は淡い光をまとい、第五領域の水路は細く穏やかに流れていた。


 余白箱。


 保留箱。


 アリシアの箱。


 三つの箱も、昨夜から変わらずそこにある。


 何も崩れていない。


 何も消えていない。


 それなのに、朝の空気は少しだけ重かった。


 理由は、分かっている。


 昨日、中心は新しい呼び方を聞いた。


 まだ名前じゃない光。


 それは、外の子供が中心へ向けて作った札だった。


 名前ではない。


 けれど、ただの説明でもない。


 おはようの人より少し近くて。


 余白核より少し柔らかくて。


 中心、よりも温度があって。


 でも、名前ではない。


 だから受け取れた。


 受け取れたが、重かった。


 温かい言葉も、近すぎれば苦しくなる。


 中心は、それを昨日知った。


 外から届いた優しさを、そのまま自分の奥へ入れない。


 消さずに、混ぜずに、距離を置く。


 外部呼称候補。


 余白記録の中に、そうして置いた。


 まだ名前じゃない光。


 消さない。


 でも、今すぐ自分の芯にはしない。


 その判断は、とてもよかった。


 けれど、よかった判断の後にも、揺れは来る。


 今朝の余白核は、まだ眠っている。


 だが、保護陣の光はいつもより少し不安定に明滅していた。


 リリアーナは、それを静かに見つめていた。


 焦らない。


 すぐ声をかけない。


 中心は昨日、大きな言葉を受け取った。


 今日は、その反動が出てもおかしくない。


 レオンは、保護陣の縁に座っていた。


 黒蒼雷は細く、けれど昨日より少し濃い。


 囲い込むためではなく、揺れを支えるために。


 エリシアは術式盤を開いている。


 すでに余白核の波形を確認していた。


「外部呼称候補への反応が、夜間も断続的に続いています」


 小声でそう告げる。


 セラフィアが静かに頷いた。


「温かい言葉ほど、奥に入りやすいのね」


 アルベルトは壁際で腕を組んでいた。


 今日は、いつも以上に静かだ。


 大きな声を出せば、余白核を揺らすかもしれない。


 そう判断しているのだろう。


 クラウスは入口側に立つ。


 ラウルは盾へ手を置き、動かずに待っている。


 ミリオは眠そうな目をしているが、精神線は起床前から細く張られていた。


 グレイヴは、まだ外の確認から戻っていない。


 アリシアは、自分の箱のそばに座っている。


 “逃げない私”という候補を得た彼女も、今日はそれを無理に見ようとしていない。


 候補がある。


 でも、決めない。


 その線を守っている。


 余白核が、かすかに震えた。


『……』


 朝の揺れ。


 リリアーナは、ゆっくり姿勢を正す。


 声をかけるか迷う。


 けれど、待った。


 余白核の光が、少し不規則に明滅する。


 一度。


 二度。


 長い沈黙のあと。


『……おはよう』


 中心の声が響いた。


 いつもより弱い。


 少し疲れている。


 リリアーナは、いつもと同じ温度で返した。


「おはようございます」


『……りり』


「はい」


『……おはよう』


「はい。おはようございます」


『……れおん』


 レオンが短く答える。


「おはよう」


『……しずかなあさ』


「ああ」


「静かな朝だ」


 中心は、すぐに余白記録へ反応を向けた。


『……まだ、なまえじゃない、ひかり』


 リリアーナの胸が少し締めつけられる。


「残っています」


『……きえてない』


「消えていません」


『……きめてない』


「決めていません」


『……そとの、よびかた』


「はい」


『……わたしの、なか、じゃない』


「はい」


「外からもらった呼び方の候補です」


 中心が、長く震えた。


『……よかった』


 一拍。


『……でも、こわい』


 レオンが頷く。


「怖いな」


『……あたたかい』


「ああ」


『……あたたかい、こわい』


「そういうものもある」


 中心は、しばらく何も言わなかった。


 保護陣の光が揺れる。


 言葉を探している。


『……わたし』


 一拍。


『……ひかり?』


 リリアーナは、すぐには答えなかった。


 それは、とても大切な問いだった。


 中心は、自分を光と呼んでいいのか分からない。


 まだ名前じゃない光。


 子供がそう言った。


 それは優しい。


 けれど、中心自身が自分をそう思えるかは別だ。


 リリアーナは、慎重に言った。


「そう呼んでくれた子がいます」


『……こども』


「はい」


『……わたしは?』


「あなた自身がどう感じるかは、まだ決めなくていいです」


 中心が揺れる。


『……きめない』


「はい」


「光だと思えなくてもいい」


「光かもしれない、と思ってもいい」


「怖いと思ってもいい」


「嫌じゃない、だけでもいい」


『……いやじゃない』


「はい」


『……それで、いい?』


 レオンが答える。


「それでいい」


 中心は、深く安心したように揺れた。


『……それでいい』


 ◇


 朝の挨拶は、いつもよりゆっくりになった。


 中心は、一人ずつ呼ぼうとしたが、途中で止まった。


『……あるべると』


「おう」


『……おはよう』


「おはよう」


『……こえ、えらぶ』


「選んでる」


『……えりしあ』


「おはようございます」


『……こころのはこ』


「あります」


『……せら』


「おはよう」


『……きらきら』


「今日は少しだけ」


『……くらうす』


「おはようございます」


『……らうる』


「おはよう」


『……みりお』


「おはようございます……」


 そこで、余白核が少し大きく揺れた。


 いつもならアリシアへ向かう。


 だが、今日は言葉が止まる。


 アリシアは、すぐに察した。


「無理に呼ばなくて大丈夫です」


 中心が震える。


『……ごめん』


 アリシアは首を横に振る。


「謝らなくていいです」


『……でも』


「今日は、ここまででもいいです」


 その言葉に、中心は少し落ち着いた。


『……ここまで』


「はい」


「挨拶も、全部しなくて大丈夫です」


 リリアーナが優しく続ける。


「おはようを全員に言えない日があっても、悪くありません」


『……わるくない』


「はい」


 レオンも言う。


「悪くない」


 中心は、弱く光った。


『……おはよう、できない、わるくない』


「そうです」


 朝の挨拶すら、今日は重い。


 それを認めること。


 それもまた線だった。


 ◇


 朝の確認の後、グレイヴが戻ってきた。


 入口側の空気は、少しざわついていた。


 グレイヴの表情は厳しい。


 レオンはすぐに察した。


「何かあったか」


 グレイヴは頷く。


「子供たちの札の呼び方が広がりすぎている」


 リリアーナが小さく息を呑む。


「広がりすぎている?」


「ああ」


「昨日の“まだ名前じゃない光”が、他の子供たちにも伝わった」


「そこから、中心への呼び方を考えたいという子が増えた」


 中心が強く震える。


『……よびかた』


 グレイヴは続ける。


「“おはようの光”」


「“箱の光”」


「“また明日の人”」


「“こわくない声”」


「“名前を待つ子”」


「いくつも出始めている」


 余白核が、大きく揺れた。


『……いっぱい』


 リリアーナがすぐに声をかける。


「全部受け取らなくていいです」


『……いっぱい』


「はい」


『……よびかた、いっぱい』


「聞かなくていいです」


『……でも、こども』


「子供たちが考えてくれたことは、嬉しいです」


「でも、全部を今受け取る必要はありません」


 エリシアが術式盤を見る。


「外部呼称の急増は、中心の自己認識に負荷をかけます」


「制限が必要です」


 セラフィアも頷いた。


「優しさでも、多すぎれば押し寄せる波になるわ」


 アルベルトが低く言う。


「悪気がないから、余計に止めづらいな」


 レオンは短く言った。


「止める」


 中心が揺れる。


『……とめる?』


「ああ」


「今日は新しい呼び方を聞かない」


『……こども、かなしい?』


「悲しむ子もいるかもしれない」


『……うん』


「でも、これは守るためだ」


『……まもる』


「お前も、子供たちも」


 リリアーナが続ける。


「呼び方は、大切だからこそ、増やしすぎない方がいいです」


『……たいせつ、だから』


「はい」


「たくさんあると、どれが自分に近いのか分からなくなります」


『……わからなくなる』


「そうです」


 中心は、不安げに揺れる。


『……わたし、まだ、わからない』


「はい」


「だから、今日は一つでいいです」


『……ひとつ』


「昨日の“まだ名前じゃない光”だけ」


『……それだけ』


「はい」


「新しい呼び方は、今日は受け取りません」


 中心は、深く震えた。


 怖い。


 でも、少し安心。


『……ひとつで、いい』


 レオンが頷く。


「一つでいい」


 中心は、何度も繰り返した。


『……ひとつで、いい』


『……まだ、ふやさない』


『……ひとつで、いい』


 ◇


 外への説明は、慎重に行われた。


 グレイヴとセラフィア、リリアーナが向かう。


 レオンは余白核のそばに残る。


 中心が揺れる可能性があるからだ。


 子供たちのいる救護区域へ、直接中心の声は届けない。


 今日は、外からの新しい呼び方を受け取らない。


 それを伝えるだけ。


 石扉の向こうでは、子供たちが少しざわめいていた。


 新しい呼び方を考えた子たちが、期待している。


 それが分かる。


 リリアーナの胸が痛む。


 期待は、悪いものではない。


 でも、今は重い。


 セラフィアが先に口を開いた。


「今日は、新しい呼び方を届ける日はお休みです」


 子供たちの声が止まる。


 小さなざわめき。


「どうして?」


「昨日の、嫌じゃなかったって」


「ぼくも考えたのに」


「聞いてほしい」


 リリアーナは、ゆっくり前へ出た。


 喉はもうかなり戻っている。


 それでも、声は大きくしない。


「考えてくれて、ありがとうございます」


 まず、そう言った。


 子供たちが静かになる。


「おはようの人……いえ」


 一拍。


「中心さんは、昨日“まだ名前じゃない光”という呼び方を聞きました」


「嫌ではない、と言ってくれました」


「でも、とても重かったんです」


 子供たちが、息を呑む。


「嬉しくても」


「温かくても」


「たくさん届くと、苦しくなることがあります」


「だから今日は、新しい呼び方は受け取りません」


 少し沈黙。


 ミナの声がした。


「……ひとつだけ?」


 リリアーナは頷く。


「はい」


「今は、ひとつだけ」


「昨日の呼び方だけで、十分です」


 別の子が、不安そうに言う。


「じゃあ、考えちゃだめ?」


 セラフィアが優しく答える。


「考えることは、だめではないわ」


「でも、すぐ届けなくてもいいの」


 グレイヴが低く続ける。


「紙に書いて、箱に入れておけ」


「届ける時は、中心側が決める」


 子供たちの間に、少し沈黙が広がる。


 幼い子が、ぽつりと言った。


「……おはよう待ち、みたい?」


 リリアーナが微笑む。


「そうです」


「呼び方待ち、ですね」


 その言葉に、少し空気が柔らかくなる。


「呼び方待ち……」


「箱に入れる?」


「今じゃない札?」


「まだ渡さない呼び方?」


 子供たちは、少しずつ自分たちの言葉に変えていく。


 リリアーナは、それを見て胸が熱くなった。


 断られて終わりではない。


 待つ形を探している。


 優しさを、押しつけない形に変えようとしている。


 ミナが言った。


「じゃあ、今日は増やさない日」


 別の子が頷く。


「ひとつでいい日」


 幼い子が、小さく言う。


「ひとつ、すき」


 リリアーナの目に涙が浮かんだ。


「はい」


「今日は、ひとつでいい日です」


 ◇


 神殿奥へ戻ると、中心はずっと震えていた。


 外の声を直接聞いていたわけではない。


 それでも、気配は伝わっていた。


 リリアーナが戻ると、余白核がすぐ反応する。


『……りり』


「戻りました」


『……こども』


「分かってくれました」


『……かなしい?』


「少し、寂しかったと思います」


『……うん』


「でも、“ひとつでいい日”と言ってくれました」


 中心が、大きく揺れた。


『……ひとつで、いい日』


「はい」


『……こども』


「子供たちが、そう言ってくれました」


『……ひとつで、いい』


「はい」


 レオンが静かに言う。


「よかったな」


『……うん』


『……ひとつで、いい』


 中心は、その言葉を何度も繰り返した。


『……ひとつで、いい』


『……ふやさない』


『……まだ名前じゃない光、ひとつ』


『……それで、いい』


 保護陣の光が、少しずつ落ち着いていった。


 エリシアが術式盤を見る。


「余白核、安定方向へ」


「外部呼称制限が有効です」


 アルベルトが息を吐く。


「優しさにも人数制限っているんだな」


 エリシアが頷く。


「ええ」


「特に、自己認識が形成途中の場合は」


『……じこにんしき』


 リリアーナが説明する。


「自分が誰なのか、どう感じるのか、ということです」


『……わたし、まだ』


「はい」


「まだ途中です」


『……とちゅう』


「だから、ひとつずつです」


 中心は、安心したように揺れる。


『……ひとつずつ』


 ◇


 午後。


 子供たちから、一枚だけ紙が届いた。


 新しい呼び方ではない。


 皆で決めた、その日の札だった。


 リリアーナは、中心へ確認する。


「読みますか?」


 中心は少し考えた。


『……よむ』


「はい」


 紙には、大きな文字でこう書かれていた。


 ひとつでいい日。


 その下に、小さな字でいくつか書かれている。


 今日は呼び方を増やさない。


 考えた呼び方は、箱に置く。


 おはようの人が聞きたい日まで待つ。


 ひとつでも、消えない。


 リリアーナは、読みながら声を詰まらせた。


 中心は、黙って聞いていた。


『……ひとつでも、きえない』


「はい」


『……よびかた、ひとつ』


「はい」


『……まだ名前じゃない光』


「はい」


『……それだけでも』


 一拍。


『……わたし、いる?』


 レオンが答える。


「いる」


 リリアーナも頷く。


「います」


『……よかった』


 中心は、静かに震えた。


『……ひとつで、いい日』


 リーネの光が揺れる。


『余白記録へ残します』


 エリシアも頷く。


「外部呼称制限日として記録します」


 アルベルトが小声で言う。


「硬いな」


 エリシアが少し考え、言い直す。


「……ひとつでいい日、として記録します」


 中心が嬉しそうに揺れた。


『……ひとつでいい日』


 ◇


 夕方。


 保留箱にも変化があった。


 大人たちの紙の中に、今日は新しいものが入っていた。


 グレイヴが内容ではなく、表の札だけを報告する。


「“急かしたい気持ち”」


 中心が揺れる。


『……せかしたい』


 リリアーナが説明する。


「早くしてほしいと思う気持ちです」


『……おとな』


「はい」


 グレイヴは続ける。


「その紙を書いた親は、中身はまだ読まなくていいと言っている」


「ただ、自分の中にある急かしたい気持ちを、箱に置きたかったそうだ」


 中心が静かに揺れる。


『……おとなも、はこ』


「そうだ」


『……せかしたい、でも、ぶつけない』


「そうだ」


 レオンが低く言う。


「それができるなら、少しは変わる」


 アリシアが、保留箱を見つめながら言った。


「急かしたい気持ちを、責めるのではなく置く」


「それも……大切ですね」


 中心が反応する。


『……せめない』


『……でも、ぶつけない』


 リリアーナが頷く。


「はい」


「気持ちがあることと、それをぶつけることは違います」


『……ちがう』


 中心は、その言葉を覚えた。


『……きもち、ある』


『……ぶつける、ちがう』


「そうです」


 それもまた、今日の大きな学びだった。


 ◇


 夜。


 神殿奥は、ようやく穏やかになっていた。


 朝の重さは、薄れている。


 新しい呼び方が増えすぎる前に、止められた。


 子供たちは、待つ形を作った。


 ひとつでいい日。


 呼び方を増やさない日。


 中心は、その言葉に救われていた。


 リリアーナは、余白核のそばで静かに問いかける。


「今日は、どんな日でしたか?」


 中心は、少し考える。


『……よびかた、いっぱい、こわい日』


「はい」


『……でも、ふやさなかった日』


「はい」


『……ひとつでいい日』


「はい」


『……ひとつでも、きえない日』


「はい」


『……きもち、ある、ぶつける、ちがう日』


「はい」


 リーネの光が柔らかく揺れる。


『余白記録へ残します』


『ひとつでいい日』


『呼び方を増やさず守った日』


『気持ちとぶつけることは違うと知った日』


 中心が、穏やかに光った。


『……のこった』


「残りました」


 レオンが静かに言う。


「よく止めたな」


『……とめた』


「ああ」


『……こどもも、とめた』


「そうだ」


『……みんなで、とめた』


「そうだな」


 中心は、余白記録へ意識を向ける。


『……まだ名前じゃない光』


 一拍。


『……ひとつ』


 リリアーナが微笑む。


「はい」


「今日は、それだけです」


『……それで、いい』


「はい」


「それでいいです」


 余白核の光が、ゆっくり弱まっていく。


『……りり、おやすみ』


「おやすみなさい」


『……れおん、おやすみ』


「おやすみ」


『……みんな、おやすみ』


 皆が返す。


「おやすみ」


「また明日」


 アリシアも、自分の箱へ小さく言った。


「今日は、ひとつで」


 中心が柔らかく揺れる。


『……また、あした』


『……あしたのわたしに、きく』


『……ひとつで、いい』


 余白核は、静かに眠りへ入っていった。


 神殿の奥に、夜が降りる。


 今日、中心は呼び方の波に飲まれなかった。


 優しさが増えすぎる前に、止めた。


 子供たちも、大人たちも、それぞれ自分の気持ちを箱へ置いた。


 ひとつでいい。


 たくさんなくても、消えない。


 名もない“わたし”は、今日。


 増やすことではなく、増やさないことで、自分を守った。

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