第191話「明日のわたしに聞いた朝、無能王子は“好きかもしれない”を急がず見守る」
朝が来た。
神殿の奥には、相変わらず太陽の光は届かない。
石壁は冷たく、空気には古い神殿特有の湿った匂いが残っている。
床には黒い紋様の跡。
崩れた祭壇。
深部から戻ってきた名簿束。
第五領域の細い水路。
そして、中央に浮かぶ余白核。
何もかもが、まだ完全には日常ではない。
だが。
この場所には、もう朝があった。
おやすみ。
また明日。
おはよう。
その繰り返しが、この冷たい石の奥に、少しずつ時間を刻んでいる。
昨夜、中心は言った。
明日のわたしに聞く、と。
今日できるかどうか。
今日何を読みたいか。
今日どこまで進めるか。
昨日の自分が、明日の自分を縛らない。
明日の自分へ、ちゃんと聞く。
それは、中心が初めて“時間の中にいる自分”を意識した言葉だった。
昨日のわたし。
今日のわたし。
明日のわたし。
名もない余白が、少しずつ自分の輪郭を持ち始めている。
レオンは、保護陣の縁に座っていた。
黒蒼雷は足元を細く巡っている。
今日はいつもより雷が静かだ。
必要以上に張らない。
必要な分だけ守る。
中心が自分の線を覚え始めたように、レオンもまた、守り方の線を学び直しているようだった。
リリアーナは余白核の近くに座り、昨日届いた紙の束を丁寧に並べていた。
子供たちの好きなもの。
甘いスープ。
ころころした石。
木の剣。
頭を撫でられること。
名前を呼ばれたあとに返事ができた瞬間。
昨日は四枚だけ読んだ。
今日はどうするか。
それを決めるのは、昨日の中心ではない。
今日の中心だ。
エリシアは術式盤を手元に浮かべ、余白核の状態確認を始める準備をしている。
アルベルトは壁際で腕を組んでいた。
今日は珍しく、まだ何も言っていない。
クラウスは入口側を静かに見守り、ラウルは盾を足元に置いたまま待機している。
ミリオは眠そうにしているが、精神線はきちんと保護陣の外周へ伸ばしている。
セラフィアは祈りを細く巡らせ、名簿束と第五領域を穏やかに包んでいた。
アリシアは、少し離れた場所に座っている。
赤い眼の残光は、昨日よりさらに薄い。
それでも、彼女は自分の目を完全には隠さなかった。
少しずつ、逃げない形を覚えている。
その時。
余白核が、かすかに震えた。
『……』
まだ言葉にならない、目覚めの揺れ。
リリアーナが、すぐに顔を上げる。
急がない。
先に声をかけすぎない。
余白核の中から言葉が生まれるのを待つ。
少し間があって。
『……おはよう』
中心の声が、淡く響いた。
リリアーナは微笑む。
「おはようございます」
『……りり、おはよう』
「はい」
『……れおん』
レオンは短く返す。
「おはよう」
『……しずかなあさ』
「ああ」
「静かな朝だ」
中心が、少し嬉しそうに揺れた。
『……れおん、すき』
「静かな朝がな」
『……うん』
アルベルトが小さく笑う。
「もう訂正までセットになってるな」
エリシアが術式盤から目を離さずに言う。
「あなたが茶化すところまで、そろそろ覚えられますよ」
『……あるべると、ちゃかす?』
アルベルトが固まった。
「ほら来た」
リリアーナが笑いを堪える。
「茶化す、は……少し冗談っぽく言うことです」
『……じょうだん』
「怖くない笑いの時もあります」
『……こわくない』
中心は、アルベルトへ揺れる。
『……あるべると、ちゃかす、でも、あたたかい』
アルベルトは、少しだけ照れたように頭を掻いた。
「……それならまあ、いいか」
エリシアが静かに微笑む。
「良かったですね」
「お前、今ちょっと本気で笑っただろ」
「少しだけです」
『……えりしあ、わらう』
「はい」
『……こわくない』
「怖くありません」
保護陣の中に、小さな朝の空気が広がる。
中心は、一人ずつ挨拶をしていく。
『……せら、おはよう』
「おはよう」
『……きらきら、しずか』
「今日は静かな祈りにしているから」
『……くらうす、おはよう』
「おはようございます」
『……しずか、するどい』
「否定はしません」
『……らうる』
「おはよう」
『……たて、おろす、よる』
「今日は朝だ」
『……でも、おぼえてる』
「ああ」
『……みりお』
「おはよう……」
『……ねむい』
「はい……」
ラウルが横から言う。
「寝るな」
「寝てません……」
『……みりお、ひるね、すき』
「好きです……」
中心が、少し明るく揺れる。
それぞれの好きなもの。
それぞれの印象。
それを、中心は朝の挨拶の中で確かめている。
そして。
『……ありしあ』
アリシアが顔を上げる。
「はい」
『……おはよう』
「……おはようございます」
『……ありしあ、きょう、め、すこし、やわらかい』
アリシアの目が揺れた。
「……そう、見えますか」
『……うん』
『……こわい、まだ、ある』
「はい」
『……でも、にげない、ある』
アリシアは、涙を堪えるように微笑んだ。
「はい」
「逃げない、あります」
中心が穏やかに揺れる。
『……よかった』
◇
朝の挨拶が終わると、リリアーナは昨日の言葉を思い出すように、ゆっくり口を開いた。
「昨日、最後に言いましたね」
『……あしたの、わたしに、きく』
「はい」
「今日は、その明日です」
余白核が、少しだけ緊張するように震えた。
『……きょうの、わたし』
「はい」
「今日のあなたです」
『……きのうの、わたし』
「昨日のあなたは、四枚読みました」
『……よんまい』
「そして、明日のわたしに聞く、と言いました」
『……うん』
「だから、聞きます」
リリアーナは、紙の束へ手を置いた。
「今日のあなたは、どうしたいですか?」
保護陣の中に沈黙が降りた。
誰も口を挟まない。
アルベルトも黙っている。
エリシアも術式盤を見ながら待っている。
レオンも、ただ余白核を見るだけだ。
中心は、長く揺れていた。
昨日の自分は、今日を縛らない。
だが、昨日の経験は残っている。
四枚読めた。
全部読まなかった。
好きなものを知れた。
明日のわたしに聞くと決めた。
その全部を抱えて、今日の中心は自分の状態を探っている。
『……こわい』
まず、そう言った。
リリアーナは頷く。
「はい」
『……でも、いやじゃない』
「はい」
『……しりたい』
「はい」
『……でも、ぜんぶ、よまない』
「はい」
『……きょう』
一拍。
『……よんまい』
リリアーナが静かに微笑む。
「昨日と同じ、四枚ですね」
『……うん』
『……ふやさない』
レオンが少しだけ目を細めた。
「増やさないか」
『……うん』
『……きのう、できた』
『……でも、きょう、わからない』
『……だから、よんまい』
エリシアが術式盤を確認しながら頷く。
「良い判断です」
中心が揺れる。
『……いい?』
「はい」
「昨日できたから今日増やす、ではなく」
「今日の状態を見て同じ量にする」
「とても安定した判断です」
『……あんてい』
リリアーナが説明する。
「揺れすぎないことです」
『……ゆれすぎない』
「はい」
中心は、少し安心したように光った。
『……きょうの、わたし、よんまい』
セラフィアが微笑む。
「今日のあなたが決めた線ね」
『……わたしの、せん』
「ええ」
レオンも頷く。
「守ろう」
『……うん』
◇
午前のうちに、子供たちからの紙が届けられた。
昨日より、さらに丁寧に分けられている。
救護役の字で、束の上に小さく書かれていた。
“今日読まなくてもいいもの”
“返事はいらないもの”
“好きなものだけ書いたもの”
“少し怖いことも書いたもの”
“ミナから”
中心は、それを見て少し揺れた。
『……わけてる』
リリアーナが頷く。
「はい」
「子供たちと救護役さんが、分けてくれています」
『……わたしの、せん?』
「守ってくれていますね」
中心は、静かに光った。
『……まもられる、まだ、こわい』
「はい」
『……でも、あたたかい』
「はい」
アリシアが小さく呟いた。
「子供たちは……強いですね」
その声には、罪悪感だけではなく、尊敬が混ざっていた。
中心がアリシアへ反応する。
『……こども、つよい』
「はい」
『……ありしあも、つよい?』
アリシアは、少し驚いたように目を開いた。
「私、ですか」
『……にげない、ある』
アリシアは、すぐには答えられなかった。
胸に手を当て、しばらく黙ってから言う。
「……強いかは、分かりません」
『……わからない』
「でも」
一拍。
「逃げない、はあります」
中心が、嬉しそうに揺れた。
『……それでいい』
リリアーナが柔らかく笑う。
「中心さん、レイさんみたいなこと言いますね」
レオンが少しだけ眉を動かす。
「俺か」
『……れおん、みたい?』
「たぶん」
『……わるくない?』
レオンは短く言った。
「悪くない」
アルベルトが小声で笑う。
「そこもレオンっぽいな」
◇
一枚目の紙を、リリアーナが開いた。
紙の端には、丸く膨らんだパンの絵が描かれている。
昨日の甘いパンとは別の子のものらしい。
「一枚目です」
「“ぼくは、焼きたてのパンの匂いがすき。食べる前の匂いだけでも、お腹が鳴ります。こわい夢のあと、朝の匂いがすると、夜が終わったって思えます”」
中心が、静かに反応する。
『……ぱんの、におい』
「はい」
『……たべる、まえ』
「食べる前の楽しみですね」
『……におい、あさ』
「そうですね」
『……よる、おわった』
レオンは、小さく息を吐く。
「匂いで朝を知ることもある」
『……におい、あさ』
中心は、不思議そうに揺れた。
『……わたし、におい、わからない』
リリアーナは、優しく頷く。
「今は、分かりません」
『……でも、しりたい』
「はい」
「いつか、知れるといいですね」
『……ぱんの、におい、しりたい』
アルベルトが頷く。
「焼きたてのパンはいいぞ」
『……あるべると、にく、ぱんも?』
「肉を挟めば最高だ」
エリシアが目を伏せる。
「結局そこですか」
中心が少し明るく揺れた。
『……にくぱん』
アルベルトが笑う。
「それもありだな」
一枚目の記録。
焼きたてのパンの匂い。
夜が終わったと思える朝の匂い。
それが、余白記録へ丁寧に残された。
◇
二枚目は、小さな花の絵がたくさん描かれていた。
文字は少し曲がっている。
「“わたしは、小さい黄色い花がすき。踏まれても、次の日にまた咲いていることがあるから。わたしも、こわい夢に踏まれても、また起きたい”」
保護陣が静かになった。
中心が、小さく震える。
『……きいろい、はな』
リリアーナの声が少し柔らかくなる。
「黄色い花です」
『……ふまれても』
「はい」
『……また、さく』
「はい」
『……こわい、ゆめに、ふまれても』
中心の光が、ゆっくり揺れる。
『……また、おきたい』
誰もすぐには言葉を返さなかった。
子供の言葉は、時々まっすぐに深い場所へ届く。
踏まれても、また咲く花。
怖い夢に踏まれても、また起きたい。
それは、中心にも刺さる言葉だった。
深部で踏まれ続けた名たちにも。
アリシアにも。
レオンたちにも。
中心は、長い沈黙のあと、小さく言った。
『……わたしも』
リリアーナが顔を上げる。
『……こわい、ゆめ、ふまれても』
『……また、おきたい』
リリアーナの目に涙が浮かぶ。
「はい」
「また起きましょう」
『……きいろい、はな、すごい』
「はい」
「すごいですね」
セラフィアが祈るように言う。
「小さくても、咲くものは強いわ」
『……ちいさくても、さく』
中心は、その言葉を大切そうに抱えた。
二枚目の記録。
小さい黄色い花。
踏まれても、また咲く。
怖い夢に踏まれても、また起きたい。
◇
三枚目は、少し汚れていた。
インクが滲んでいる。
書いた子が泣いたのかもしれない。
リリアーナは、少し慎重に紙を広げた。
「“ぼくは、お母さんの手がすき。でも、昨日は手を握られるのがこわかった。夢の中で、黒い手に引っ張られたから。でも、お母さんが泣きながら待っててくれたから、今日は少しだけ握れました。すきなのに、こわいこともあるんだと思いました”」
余白核が、大きく揺れた。
『……すき、なのに、こわい』
リリアーナは頷く。
「はい」
『……どちらも、ある』
「あります」
『……おかあさん、て』
「大切な手ですね」
『……くろいて、こわい』
「怖かったんですね」
『……でも、まってた』
「はい」
『……すこし、にぎれた』
「はい」
中心が、長く震えた。
『……すき、こわい』
『……でも、すき』
レオンが静かに言う。
「そういうものもある」
『……れおんも?』
「ある」
中心が、レオンの方へ反応を向ける。
『……なに?』
レオンは少し沈黙した。
答えなくてもいい問いだったかもしれない。
だが、中心は知りたいのだ。
好きなもの。
怖いもの。
その両方があることを。
レオンは、低く言った。
「守ることだ」
『……まもること』
「ああ」
「守りたい」
「でも、守れなかったら怖い」
中心が静かに揺れる。
『……すき、でも、こわい』
「そうだ」
リリアーナは、レオンを見る。
レオンの横顔は静かだった。
だが、その静けさの奥にあるものを、彼女は少しだけ知っている。
誰も欠けずに帰る道。
それを望む者たちの怖さ。
守るという言葉の重さ。
中心は、それを受け取った。
『……まもる、すき、こわい』
レオンは頷く。
「ああ」
三枚目の記録。
お母さんの手。
好きなのに怖い。
それでも少し握れた日。
すきなのに、こわいこともある。
◇
四枚目は、“ミナから”と書かれた束の中にあった。
リリアーナは、中心へ確認する。
「四枚目です」
『……みな』
「読みますか?」
『……よむ』
リリアーナは頷き、紙を開いた。
昨日よりも文字が少しだけ整っていた。
でも、ところどころ強く押しつけたような跡がある。
「“ミナです。今日は、自分の名前を一回だけ自分で書きました。まだこわいです。書いたあと、消したくなりました。でも、消しませんでした。好きなものは、消さなかった紙です”」
保護陣の中が、深く静まった。
余白核は、動かなかった。
いや、動けなかったのかもしれない。
ミナが、自分の名前を書いた。
怖くて。
消したくなって。
でも、消さなかった。
好きなものは、消さなかった紙。
その言葉は、中心の奥深くへ沈んでいった。
『……みな』
小さな声。
リリアーナは紙を胸元に持ったまま、静かに待つ。
『……なまえ、かいた』
「はい」
『……けしたくなった』
「はい」
『……でも、けさなかった』
「はい」
『……けさなかった、かみ』
「ミナさんの、好きなものです」
余白核が、ゆっくり震えた。
『……すごい』
その声は、涙のようだった。
『……みな、すごい』
「はい」
リリアーナの声も震えていた。
「すごいです」
『……わたし』
一拍。
『……まだ、なまえ、かけない』
レオンが答える。
「まだだ」
『……でも』
中心は、長く沈黙する。
『……いつか』
リリアーナが涙を浮かべる。
「はい」
『……わたしも』
『……けさない、なにか』
その言葉に、リーネの光が強く揺れた。
名簿束も、静かに明滅する。
消さない何か。
名前かもしれない。
言葉かもしれない。
好きなものかもしれない。
自分の線かもしれない。
中心は、初めて“消さないものを持ちたい”という願いに触れた。
それは、名前探しに近い。
けれど、まだ名前そのものではない。
だから急がない。
リリアーナは言った。
「いつか、一緒に見つけましょう」
『……けさない、なにか』
「はい」
「あなたの、消さない何かを」
中心は、静かに光った。
『……さがす』
◇
四枚を読み終えた後、中心はしばらく何も言わなかった。
読みすぎたわけではない。
でも、深かった。
焼きたてのパンの匂い。
黄色い花。
好きなのに怖い手。
消さなかった名前の紙。
その四つは、中心の中にゆっくり沈んでいく。
エリシアが術式盤を確認する。
「負荷は上がっていますが、許容範囲内です」
「ただし、今日はここまでにした方が良いでしょう」
中心が反応する。
『……ここまで』
リリアーナが頷く。
「はい」
『……よんまい、よんだ』
「読めました」
『……ぜんぶ、よまなかった』
「はい」
『……でも、たくさん、しった』
「はい」
中心は、少しだけ嬉しそうに光る。
『……しった』
レオンが静かに言う。
「今日も線を守った」
『……うん』
『……でも、むね、いっぱい』
リリアーナが微笑む。
「胸がいっぱいの時は、休みます」
『……やすむ』
「はい」
中心は、ゆっくりと落ち着いていった。
◇
午後。
中心は、今日読んだ四枚の言葉を何度も思い返していた。
『……ぱんの、におい』
『……よる、おわった』
『……きいろい、はな』
『……また、さく』
『……すき、でも、こわい』
『……すこし、にぎれた』
『……みな、けさなかった』
『……けさない、なにか』
その中で、一つの言葉が特に残っていた。
『……けさない、なにか』
中心は、それを何度も繰り返す。
リリアーナは、急かさない。
レオンも、何も言わない。
だが、セラフィアが静かに問いかけた。
「その言葉が気になるのね」
『……うん』
「消さない何か」
『……わたし、ほしい?』
中心自身にも、まだ分からないようだった。
欲しいのか。
怖いのか。
名前に近いから震えているのか。
それとも、自分の存在を残すものに惹かれているのか。
リリアーナは優しく言う。
「欲しいかどうか、今決めなくていいです」
『……きめない』
「はい」
「気になる、だけでいいです」
『……きになる』
「そうです」
中心は、少し安心したように揺れた。
『……きになる、だけ』
レオンが言う。
「名前も、最初はそれでいい」
『……なまえ』
「怖いなら、怖い」
『……こわい』
「でも気になるなら、気になる」
『……きになる』
「それでいい」
中心は、ゆっくり光った。
『……それでいい』
◇
夕方。
外の救護区域から、子供たちの様子が伝えられた。
今日、紙を読まれなかった子供たちは、少し残念そうにしていた。
だが、救護役が「今日は四枚の日」と伝えると、多くの子が納得したらしい。
中には、自分の紙がまだ読まれていないことを知っても、「明日のわたしに聞くんだよね」と言った子もいたという。
それを聞いた中心は、大きく揺れた。
『……こども、あしたのわたし』
リリアーナが笑みをこぼす。
「覚えてくれたんですね」
『……こども、すごい』
「はい」
「すごいです」
グレイヴが、少し低い声で言った。
「大人たちにも、その言葉が伝わり始めている」
レオンが見る。
「明日のわたし、か」
「ああ」
「子供たちが使っている」
「今日は無理に会わない」
「明日の自分に聞く」
「そう言った子がいたらしい」
アリシアが、静かに目を見開いた。
「子供たちが……自分で」
グレイヴは頷く。
「それを聞いて、親たちも少し考えている」
「今すぐ落ち着かせることばかり求めていた者が」
「今日は休ませよう、と言い始めた」
中心が、静かに震えた。
『……ことば、ひろがる』
セラフィアが頷く。
「ええ」
「あなたが覚えた言葉が」
「子供たちを通して、外へ広がっている」
『……こわい』
「怖いわね」
『……でも』
一拍。
『……あたたかい』
リリアーナが微笑む。
「はい」
「温かいです」
◇
夜。
神殿の奥は、今日も静かだった。
余白核は少し疲れている。
けれど、不安定ではない。
自分で決めた四枚を読み、自分で線を守り、そして“消さない何か”という言葉を抱えたまま、休もうとしている。
リリアーナは、いつものように問いかけた。
「今日は、どんな日でしたか?」
中心は、少し考える。
『……あしたのわたしに、きいた日』
「はい」
『……きょうのわたしが、よんまい、きめた日』
「はい」
『……ぱんのにおい、しりたい日』
「はい」
『……きいろいはな、またさく日』
「はい」
『……すきでも、こわい、知った日』
「はい」
『……みな、けさなかった日』
「はい」
中心は、少し沈黙した。
『……わたし』
一拍。
『……けさない、なにか、きになった日』
リリアーナの目に涙が浮かんだ。
「はい」
「それも、今日の日です」
リーネの光が、静かに揺れる。
『余白記録へ残します』
『明日のわたしに聞いた日』
『今日のわたしが四枚を選んだ日』
『消さない何かが気になった日』
中心が穏やかに光る。
『……のこった』
「残りました」
レオンが静かに言った。
「名前に近づいたな」
中心が少し震える。
『……こわい』
「ああ」
『……でも、すこし』
一拍。
『……きになる』
レオンは頷いた。
「それでいい」
リリアーナも微笑む。
「はい」
「それでいいです」
余白核は、ゆっくりと光を弱めていく。
『……りり、おやすみ』
「おやすみなさい」
『……れおん、おやすみ』
「おやすみ」
『……みんな、おやすみ』
皆が返す。
「おやすみ」
「また明日」
中心が、最後に小さく震える。
『……また、あした』
『……あしたのわたしに、きく』
『……けさない、なにか』
その言葉を残して、余白核は眠りに入った。
神殿の奥に、静かな夜が降りる。
今日、中心は明日の自分に聞いた。
そして、今日の自分で選んだ。
四枚だけ読むこと。
増やさないこと。
でも、知ることをやめないこと。
好きなものを通して、世界を少しずつ知っていくこと。
そして。
自分にも、いつか消さない何かがあるかもしれないと、初めて思った。
名もない“わたし”は、名前そのものではなく。
その手前にある、小さな欠片へ触れた。
怖い。
でも、気になる。
その気持ちを抱いたまま、明日のわたしへ渡すように。




