六話 『 開戦の号砲としては懐かしい得物 』
それが起こったのは、ミーナが目元を腕で擦って立ち上がり、ネックレスに名前の通りの輪になった蛇を模した指輪――〝尾を飲み込む円環の大蛇〟を通して、泣き濡れた跡を全く感じさせない照れた笑顔で振り返ったときだった。
突然、泉の上を漂っていた妖精が寄り集まって西瓜ほどの大きさになると、そのまま凄い勢いでミーナの背中を突き飛ばしたのである。
「お待た――きゃあ!」
それまでの出来事で気の抜けていた男二人は瞬間的に呆気にとられて、
「――ッ、チィッ!」
直ぐに意識を切り替えるアグニが、水中で蹈鞴を踏むミーナを受け止めて後ろに飛び退いた。
「おっさんっ!」
アグニの声とほぼ同時にジョイズ・モントレーは腰の大剣を抜き放ち、何十と飛来する投擲用の短剣であるダグを空中で切り落としてみせる。
「ぬぅ……オオオオォォォォ!」
だが、その内の何本かは泉の中に、そして地面に突き立った。
もしミーナが妖精に突き飛ばされていなかったら――そう思う男二人は、ダグを投げてきた相手には当然、何より自分に対して奥歯を噛み締めた。
アグニとジョイズ・モントレーは、慌てた様にブーツを履き直すミーナを背中で挟む様に庇いながら、辺りに注意を飛ばす。
「敵、か。しかも随分と懐かしい得物での先制攻撃だなあ」
言いつつ、アグニは装備したままの〝討伐の紋〟が刻まれたグローブに魔力を送り、
「しかし、変だ。ここは〝聖域結界〟の中。敵からは認識できないはずではないか?」
ジョイズ・モントレーも、現状に疑問を呈しつつ、見た目から頑健な巨体に夕焼け色のアウラを纏い、臨戦態勢を取った。
構えるのは、固く握られた拳でも、無骨長大な大剣でもなく、危険に対しての俊敏さと思考の柔軟さ。襲い来る者に対しての、残忍なまでの冷酷さだ。実際、アグニの拳は左が腰で右は頭を掻いているし、ジョイズ・モントレーの大剣も握られてはいるが、だらりとその剣先が地についている。
戦いに必要なのは気張りであって、余計な力みでない事を知る者の臨戦態勢。
ただ静かに、彷徨わせる。凪いだ湖面のような緊張と、白刃の様な鋭い視線を。
その時、ミーナが小さく声を上げた。
「一ついいかな?」
振り返らずにアグニが応じる。
「なんだ、こんな時に」
「あのね。この場所を覆う〝聖域結界〟って結界魔法は、魔法をかけた本人が結界の発動時に封入する魔力量――つまり、どれだけ一杯の魔力を注ぎ込んだかによって、結界の効果時間が決まる物なんだけどね」
「あん? 俺は魔法に詳しくないから知らねぇけど……それがどうかしたか?」
「うん、それでね。さっきの父様の声が聞こえてきたあの魔法が〝実声実況〟って言うんだけど、あの魔法、本来はかなりの魔力を消費する魔法で、本当なら魔力と相性の良い石――サファイアとかダイヤモンドとかっていう宝石に込める物なの。確かにあたしのネックレスみたいな銀製品も魔力とは相性がいいけど、それは魔力を『通す』事に長けているのであって、『溜める』事には長けていないのね? だから、えっと……」
アグニの眉根が難しく寄った。ミーナが何を言いたいのか分からない。だから少し急かすように言葉を繰る。
「だからなんなんだ? 敵に襲われてんだ、さっさと本題を言ってくれ」
だが、その言葉に返したのはミーナではなく、ジョイズ・モントレーの呟きだった。
「むう、そういう事か」
「あん? おっさんは言いたいことが分かったのか?」
「うむ。詳しい事は我も門外漢ゆえ分からぬが、つまりは〝聖域結界〟の効果が切れかかっているという事だろう」
「は、なんで?」
「要するに、膨大な魔力を注ぎ込む事によって発動期限が決まる〝聖域結界〟は、転じた考え方をすれば、魔力の貯蔵庫の役割としても使うことが出来るという事だろう。そして、ミーナの親父殿である侯爵がネックレスの銀板に掛けた魔法の〝実声実況〟は、多くの魔力を消費する物であり、しかし銀という素材は、魔力を『通す』事は出来ても『溜める』ことが不得手な素材であるという。なれば、ミーナの親父殿の声を届ける魔法はどこから魔力を得ていたのか――そう考えれば、確信はなくとも大まかな答えに辿り着くことは出来る」
そこまで言われて、ようやくアグニは合点がいった。
「そうか、〝聖域結界〟から魔力を貰って、〝実声実況〟は発動したってことか」
「だからこそ、ネックレスの銀板と、尾を飲み込む円環の大蛇〟が包まれていた封印球が一定以上の距離に近づく、という発動条件があったのだと考えられる」
「なるほどなあ。そういう仕掛けがあったの……ん? ちょっと待て、おっさん」
そして、本当にようやくアグニは、何故ミーナが敵に襲われているというこの状況で、こんな意味のないように思える話を持ち出してきたのかという理由に考えが至った。
なにもミーナは、緊張感がないから襲われているにも拘らず魔法の説明をし出したのではない。この後に来るだろう危機を伝えたかったのだ。
アグニとジョイズ・モントレーの声に、少なくない疲労感が滲む。
「それってもしかして……」
「うむ、恐らくそういう事であろうな」
そして、二人の背に挟まれたミーナが、直面している危機を突きつけた。
「もうすぐ〝聖域結界〟の効果は完全に消滅する。結界の消滅に伴って父様のアウラは霧散するし、アウラが霧散したら場の結界効力はもちろん、アウラの光で保たれていた視界も保てなくなる。同時にとっても臭いニオイにも包まれちゃうよね。簡単に言ってみれば『大ピンチだよ、お二人さんっ!』って感じだったりする訳だけど……どうしよっか?」
大ピンチ。確かにそうだろうと、アグニもジョイズ・モントレーも思い、だが緊張感のないミーナの声に、気の抜けた笑みで口角を持ち上げるしかなかった。
露草色のアウラの光の中にどれほどの時間留まって居たのかは分からないが、もう眼がこの明るさに慣れてしまっていることが状況を危機的にしているのだ。暗いトンネルの中から明るい外へ出たとき光に目が眩む様に、明るい所から暗い所へと急に行くと、その落差が激しい分だけ、暗さに眼が眩んでしまう。それも、暗い所から明るい所へ行ったときに目が眩む時間は長くても一、二秒程度だが、逆の場合、暗さに目が慣れるまでの時間が必要になるから、早くても数秒の時間が掛かる。そんな時にさっきの様な飛び道具の乱射が来れば、アグニとジョイズ・モントレーは自分自身を守れても、ミーナを守り切れるか分からない。
だからこそ。
「「「――大ピンチだ」」」
異口同音の大ピンチが、ここに宣言された。
そして、蝋燭を吹き消した様に周辺の露草色に輝いていたアウラが消失し、
闇と言って何ら間違いのない暗さと鼻を衝く強烈な臭いが立ち込めた直後、
面倒な殺し合いは幕を開けたのであった。
次回 第五章 ―― 秤に載せる真実




