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第7話 砂糖

朝早く、部屋はまだ薄暗い。

扉がドンドンと叩かれた。

「ソラ! 起きて! 起きてってば!」

返事をする前に扉が開いて、ミナがドタバタと入ってきた。

白い寝間着のまま、頭には布の寝帽子をかぶっている。それが斜めにずれて、端から髪がぴょんと跳ねていた。目だけがはっきりと起きている。

「起きて! 依頼きた! 組合から! すぐ来いって!」

「……え、もう?」

「もう! ほんと、もう! 私も今起きたのに!」

ミナは言いながら俺の袖を掴んで引っ張った。

「ほら、立って! 着替えて! 顔洗って! 歯も! 早く!」

「いきなり全部……」

「全部! やるの!」

ミナは自分の寝帽子のズレに気づいて、片手で直しながら、もう片手で俺の上着を探す。

「登録カード、登録カードどこ!? 絶対持って!」

「あるよ」

俺はベッドの横に置いてあるカードを指差した。

「よし!」

ミナは俺の返事を聞いた瞬間、もう扉へ向かった。

「私も……顔も洗ってないのに!」

そう叫んで、足音を鳴らしながら飛び出していった。

ミナが階段を駆け下りていく足音がする。

俺は慌てて服を掴んで着替える。藁の寝床はそのまま。

二階の廊下に出て、共同の洗面台で水をすくい、顔を洗って口をゆすいだ。歯もさっと磨く。

もう一度ポケットの登録カードを確かめて、階段へ向かった。


階段を下りると、いつもの匂いがした。鍋の匂い。木の床の軋み。旧市街の朝だ。

受付のナルが、カウンターの向こうで手を振る。

「ソラ君、おはよー」

昨日と変わらない声だ。

ナルは小柄で華奢だ。長くふわりとした桃色の髪、琥珀色の目がよく笑う。ただ自然にしているだけで、いつも機嫌がよさそうに見える。

「おはよう、大騒ぎだったね」

なるほど、あの騒ぎはここまで届いていたのか。

ふと昨日の夕食を思い出した。

今の彼女のものとは思えない。ボリボリという音が耳に残っている。

俺は尋ねた。

「組合から、依頼がきたの?」

「うん。ほら、これ」

ナルは封の切れた、妙にきれいな手紙を手に持っていた。

「ミナが珍しく、寝坊したから、慌てちゃって」

「寝坊?」

ナルは楽しそうに肩をすくめる。

「全然起きてこないから、私が起こしてあげたの」

「寝てるミナって可愛かったよ~」

俺が返す言葉を探しているうちに、一階の廊下の奥でバタバタと足音が近づいてきた。

「待って! 今行く!」

勢いよくミナが駆け出てきた。外に出られる格好はしているが、急いだのがわかる。髪も落ち着いていない。

「ソラ! もう降りてた!?」

「よし! 早く出かけなくちゃ! 依頼の手紙見せて!」

ミナがカウンターに身を乗り出すと、ナルがくすっと笑って目を細めた。

「うんうん。……その前に、ミナ。寝癖すごいよ」

「え!?」

ミナが自分の頭を触って、固まる。

「……寝癖!? うそ、直したのに!」

「全然直ってないね~」

ナルがからかうように言う。

「なんで戻るの~!?」

手で押さえても、ぴん、と跳ねが戻る。ミナは困った顔をして何度も押さえた。

そのとき、厨房からイナクが出てきた。

無言で、湯気の残る温かいタオルをミナに差し出す。

「……あ、ありがとう」

ミナはタオルで髪の跳ねをぎゅっと押さえた。さっきまで反抗していた寝癖が、少しだけおとなしくなる。

イナクはそのまま、紙包みを二つ、俺に差し出した。

「弁当だ、食え」

「……ありがとう」

寝癖が改善したミナがすぐナルの手元を見る。

「手紙!」

「はいはい、これだよ! “すぐ来い”ってさ」

ミナは紙を受け取ると、息をつく暇もなく出口へ向かった。

「行くよ、ソラ! ほんとに今すぐ!」

「わかった」

ミナが外へ飛び出し、俺は弁当を抱えてその背中を追った。


組合の建物は、朝でも人が多かった。旧市街のざわつきとは違う。

声は低く、足音まで揃っている。廊下の空気が、ぴんと張っていた。

受付で札を受け取ると、今日は待たされなかった。

「ラピス・ギルド。ソラ様、ミナ様。こちらへ」

案内の声が丁寧すぎて、ミナの肩がぴくりと揺れた。

通路に入ると、壁が白い。足音が変わる。木の音じゃない。石の音だ。

なんとなく、姿勢まで正される気がする。

歩きながら、俺は小さく疑問を口にした。

「……組合の依頼って、毎回ここに来て受けるの?」

ミナが振り向き、困った顔をした。

「普通は、依頼書が届いて……それで受けるか決めるって……聞いたんだけど……」

「聞いたんだけど?」

「……私も初めてで、わからないよ」

「そういえばそうだね」

ミナは困ったように笑った。俺もつられて口元が緩む。

お互いの顔を見合わせて、小さく笑っただけで、胸の奥の硬さが少しほどけた。

通されたのは会議室みたいな部屋だった。机が広い。椅子が柔らかい。

座ると逆に落ち着かない。背中が沈みすぎて、立ち上がりにくそうだ。

しばらくして、制服を着た女性が入ってきた。背筋がまっすぐで、整った笑顔だ。

「お飲み物はいかがなさいますか?」

小さなメニューが差し出された。

ミナが固まった。メニューを見ているのに、目が滑っている。

“ここはそういう場所?”の圧だけが先に来て、息が少し浅くなった。

「……え、えっと……」

ミナは一瞬だけ口を開きかけて、すぐ言い直すみたいに言った。

「み、水……お水、二つください!」

女性は少しだけ笑って、静かに出ていった。

「ミナ、いまの」

「だって……だってさ! これ、頼むやつでしょ……お金、いるでしょ」

「そ、そうなのかな?」

「わかんないけど……ここ、絶対高い感じするもん」

ミナは腰の小袋に手をやって、ぎゅっと握った。

「水なら……たぶん、だいじょうぶ」

すぐに女性が戻ってきた。

彼女が持つトレイに乗っていたのは、ティーカップ二つ。陶器のポット。小さな器。

女性は何も言わずに二人の前にカップを置き、ポットから紅茶を注いだ。

白い湯気がふわりと立ちのぼり、茶葉の香りがゆっくりと二人のあいだに広がる。

ミナの指が机の端をきゅっと掴む。俺を見て、またカップを見る。

注ぎ終わると、女性が尋ねた。

「お砂糖は何個、お入れしますか?」

ミナの顔が凍った。

彼女は俺に耳打ちする。

「ど、どうしよう……私、水って言ったよね!?」

女性はにこやかに言った。

「こちらはサービスでございます。代金は不要です」

「……え?」

ミナは素直に、首を傾げた。

「どうして? だって、それに……これ……砂糖なんでしょ?」

「お好きなだけ、どうぞ」

ミナは信じられないという顔をした。

砂糖の実物を見るのは、これが初めてだ。

紅茶だって、数えるほどしか口にしたことはない。

好きに取れる砂糖なんて、想像もできない。

「本当に……いいの?」

「はい、大切なお客様ですから」

ミナはおそるおそる、角砂糖を一つだけつまんでカップに落とす。

ちいさな音が鳴った。スプーンでかき混ぜる手が、ほんの少し震える。

ひと口。

ミナの顔が、ふっと緩んだ。目の奥までほどけていくみたいに。

「……しあわせ……」

旧市街で“甘いもの”といえば、甘い豆を煮て、とろりとこしたもの……それくらいだ。

砂糖なんて、中心街の大きな店でしか扱わない。

ミナには、今まで縁のなかった甘さだった。

思わず目がぱちぱちして、ミナはもう一度カップを見た。

嬉しさが遅れて追いついてきたみたいに、目の端が少しだけ潤む。

その様子を、女性はにこやかに眺めていた。


しばらくするとノックがあり、扉が開いた。

入ってきたのは、昨日の審査のときの男だった。銀髪の長髪。厳格な目。

部屋の空気が一段硬くなる。

「失礼する」

男は淡々とした声で、話を始めた。

「組合の理事、ノア・グレイだ」

「ラピス・ギルドのソラ。お前に、宮廷魔術師リン・セピアより推薦が入った。加えて組合からも推薦を出し、すでに依頼が来ている」

ミナが背筋を伸ばす。緊張を隠せていない。

「依頼元は、ラムズ鍛冶工房」

その名前だけで、ミナの呼吸が一瞬止まったのがわかった。

噂で聞いたことがある“ちゃんとした所”。大きい所。別世界の所。

「仕事内容は、魔力配管の検査。報酬は五金貨」

ミナが固まったまま、俺を見る。

「ねえねえ……今……五金貨とか……言ってないよね?」

「言ってたよ」

「……言ってたよね」

男は続ける。声の温度が変わらない。

「前金は一金貨。作業は即時開始。指定場所へ向かえ」

机に紙が置かれた。依頼書のようだ。

次に、金属の音。

金貨が一枚、置かれた。

「これはリン・セピアと組合の推薦があって成立している。責任を果たせ。失敗すれば除名だ」

言うだけ言って、男は立ち去った。

扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。

部屋に残ったのは紅茶の香りと、砂糖の甘さと、金貨の冷たい光だった。

ミナはゆっくり金貨を拾い上げた。指の動きが硬い。

「……も、貰っちゃった」

それから俺を見る。

「除名って……私たち……大丈夫かな」

戸惑いが顔に出ている。

怖いというより、想像していなかったものを目の前に置かれて、理解が追いつかないのだろう。

俺は依頼書を見て、金貨を見た。

ミナの手がわずかに震えているのが目に入ってきた。

ここで俺が迷った顔をしてはダメだ。

「大丈夫!」

「……ほんと?」

「やることは決まってる。配管を見て、危ないなら言う。それだけだ」

ミナが息を飲む。

「それに、どうすればいいかは、君が教えてくれた」

「え? 私が?」

「昨日、広場で魔力漏れを見つけた時、俺は咄嗟に動けなくて……」

俺は、ミナの目を見て言う。

「その時、君が言ったんだ。『早く。動いて』って」

一瞬だけ、ミナの顔が固まった。

次に、眉がきゅっと寄って、いつもの調子が戻ってくる。

「……言った。言ったよ」

ミナは金貨を握り直す。硬い光を見て、目を逸らさない。

そして、机の端に置いてあった依頼書を、今度は自分から引き寄せた。

「じゃあ……動く。考えるのは歩きながらでいい」

声が、さっきよりはっきりしている。

ミナは立ち上がって、俺の前に回り込むみたいに言った。

「ソラ。行こう。ラムズ鍛冶工房に」

「私たちを、必要としてくれてるんだから!」

ミナはそう言って、依頼書を抱え直した。

そして金貨を腰に下げている小さな袋に、ちゃり、っと入れて。

ミナは紐を結び直して、袋の口を確かめる。

「……よし。落とさない」

「行くよ」

「ああ」

二人で扉を出て、出口へ向かった、そのとき。

「お待ちください」

さっきの制服の女性が、廊下から静かに声をかけてきた。

手には、紙で包んだ小さな袋を持っていた。

「え? なに?」

「よろしければ。これを」

ミナは差し出された袋を受け取った。軽い。

紙の口をそっと開いて、中を見る。

角砂糖が、いくつも入っていた。

「……え」

戸惑うミナに、女性はにこやかに言った。

「私も、ここで初めて、砂糖を口にしたのです」

「あなたも?」

「はい。旧市街の人間には、縁のないものですから」

女性は少しだけ視線を落として、丁寧に続けた。

「その砂糖をくださったのは、サラ様でした」

「あなたのお母上です」

ミナの指が、紙袋の端をぎゅっと掴む。

でも、顔は逸らさない。

「サラ様のおかげで、私はここで働けるようになりました。せめてものお礼です。ほんの少しですが……どうか、受け取ってください」

ミナは紙袋を胸に押さえるようにして、小さく息を吸った。

「ありがとう、大切に食べるね」

女性はほっとしたように微笑んだ。

「お気をつけて」

ミナは小さく頷き、俺の方を見る。

「行こう、ソラ」

「ああ」


先を歩くミナの背中を、俺は眺めていた。

さきほど、母親の話をしたときの反応が、少しだけ意外だった。

ミナは……母親の話を嫌がっているように思っていたから。

俺たちは組合を後にした。


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