(29) アスター王子、尻を叩かれる
王宮にてアスターを待ち構えていたマジュス卿は回りくどい真似をしなかった。
「網に引っかかりました。近々コルチカム公爵を呪詛罪の疑いで逮捕します」
「ベラドンナを保護したのか!?」
「いいえ。ですが姿は確認されています。公爵が呪術師と接触したのは確実ですが、すでに被害者がいるのか、またその場合どんな呪いがかけられているのかは不明です。もし殿下がベラドンナ嬢がその被害者であるとお考えならば、なるべく彼女の持ち物や肌には直接触れずに彼女を保護してください。重要な証人になりますゆえ」
「わかった。ありがとうマジュス卿」
「これが私の役目でございますれば」
「それでもだ。ありがとう。これでやっと、彼女は」
喉が詰まってその先が言えなかった。アスターは背を丸め、組んだ両手を額に押しあてた。
偽りの恋の魔術が解けたあと、何が残るかの答え合わせがやってくる。
覚悟していたことだ。それを乗り越えてアスターは、ベラドンナと別れる道をゆく。
「ひどく恋をしている」
ぽつりと落ちた呟きがあり、アスターは顔を上げた。向かいのマジュス卿と視線がかち合った。
「そう愚息が何度も愚痴を申すのです。そして私も、不躾と存じますが殿下のご乱心のご様子を拝見いたしました」
「よしてくれ。いいんだ、もう。いつか必ず薄れるものだ」
「今、なんと?」
痛む傷を無造作につつかれるのは気分が悪かった。しかしそれを表に出したが最後、何を言っても惨めさが強調されるだけだ。だからアスターは細心の注意を払ってすべてに納得しているふりをした。
しかしアスターが必死に譲歩をしてやったにもかかわらず、なぜかマジュス卿は、わざわざ正面へ、嫌がらせのように立ち塞がってくるのだ。
「殿下。愚考いたしますに、あなたはご自分が抱かれている欲求を過小評価していらっしゃいます。あなたは今目の前にあるお飲み物を酒だと判断されて、それを飲まずとも自分は生きていけるとお思いになったと推察いたしますが、私にはどうもそれが酒ではなく生きるには欠かせぬ水であるように思われるのでございます」
「卿の視点ではそうなんだろう。だが私のことを最も正しく理解できるのは私自身だ。卿ではない」
「必ずしもそうとは限りません。そして私が声を大にして申し上げたいのは、願いの実現をお望みならばあなたのお立場は切り札になると私は以前確かにお伝えしたということです」
「……話が見えない」
「そうですか。残念です。では少し補足をさせていただきます。どうかお付き合いください」
長くなるのを感じ取ってアスターは姿勢を正した。そしてマジュス卿が、まず伝統についてです、と前置きして語り始めるのに耳を傾ける。
「伝統は常に正しい規律ではありません。どこかで変革が必要になります。しかし、あまりに社会と癒着している場合、下手にそこを弄ると混乱を招いてしまう恐れがあるのです。それに一つ一つ利と手間のどちらが勝るか精査してみると、案外致命的に間違っているとは言い切れず、時代に合わせて手直しをすれば十分に有用なものが多いです。長く続いていることにはそれだけの理由があるということです」
「伝統の土台に欠陥があったらどうするんだ。一部を直しても悪あがきになるぞ」
「時間をかけて段階的に壊すか、下地を醸成した後に一気呵成に始末するのです。いずれにせよ事を急くのは反発や揺り戻しを招き得るのでございます」
「これは政治の授業か?」
「王位継承権は法以外にも硬い伝統に守られていることはご理解いただけたかと存じます。たとえご下命を賜ったとしても、殿下というご健康なご子息がいらっしゃる以上は、殿下を飛び越えて他の誰かの順位を繰り上げるなど考えられません。また女王を立てるにも、やはり殿下がいらっしゃる限り貴族らは納得しないでしょう」
わかりやすく間が空く。マジュス卿が作ったその空欄へ、アスターは相手の正気を疑いながら解答を書く。
「……私自身を人質にとって要求を通せと?」
「私にはそれをお止めする手段がありません」
この身に流れる血の半分は、アスターがこの国の奉仕者である証だとばかり思いこんでいた。自分のために使えるなんて考えもしなかった。
そんなことが許されるのか。いくらマジュス卿の示唆があるとはいえ、アスターなんかちっぽけな存在が交渉を持ちかけたところで、王は歯牙にもかけないのではない、いや、怒り狂うのではないか。
アスターの背中はきっと、反抗の意思とともに無残に砕けて裂け千切れる。
声が震えないよう下腹に力をこめた。
「まさか卿がそんな企みをするとはな」
「職務の一環でございます」
「宰相が国の側に立たなくていいのか」
「無論私はそちらにおります。よろしいですか殿下。夢を捨てなければならない人は、力を尽くして抵抗し、すべてが無駄だと思い知らされて初めて諦めがつくのです。その段階を経なければ、捨てた夢より崇高な使命があるとどんなに自分に言い聞かせても、一生しこりが残ります。そしてややもするとそのしこりが怨嗟となり、認識が歪み、畢竟自己憐憫と憎悪に溺れ、弱者に不寛容で他人や他国を僻んで攻撃する暴君が誕生するのです」
「なあさすがに言い過ぎじゃないか? 王太子でもないのに一足飛びに暴君の認定をされるのは傷つくんだが……そんなに心がねじけて見えるのか、私は」
「滅相もございません。むしろたいへんひたむきなお人柄な殿下でさえも、このまま殊勝になさってどこぞの王女殿下とご結婚なさったところで早晩精神の均衡を崩して王としても男としてもお役目が厳しくおなりでしょうと申し上げているのです」
「ものすごいことを言っているぞあなた」
叫んでしまった。頰の火照りに余計恥ずかしさを煽られる悪循環にはまり、首まで赤くなっている気がする。
尻のすわりが悪くてしかたがないアスターだが、マジュス卿はどこまでも表情を崩さない。
「笑い事ではありませんぞアスター殿下。これは男ならば誰でも無視できぬ問題なのです。身も蓋もない話ではございますが、肝心のものが役立ちませんと畑に種はまけません。淫蕩な生活を楽しめる方も、それで自傷なさる方もいらっしゃいますが、あなたは間違いなくどちらの類の素質もお持ちではない。男の体は繊細なのです。義務感は重圧となって血の巡りを悪くするだけですよ」
「いや、あの、私は」
「そんなに気を遣わずともとお思いですね? その油断がいざというときに跳ね返る刃なのです。男は何事も出来て当然だと知らず知らず己に期待し、他者から期待されています。ですから不可能の壁に衝突すると甚だしく傷つくのです。特にその部分の機能は自尊心と強い繋がりがあるゆえに、そこで失敗するとなると、どんなに不出来を自覚しているつもりの男でも、理屈を超えて己の誇りが決定的に損なわれたような痛みや喪失感に苛まれ、誰の顔にも嘲笑を透かし見てしまうのです。嘘のような話ではございますが、私の同輩にも、そのために気鬱になって人生の喜びをすっかり失った者がおりますし、あまりの恐怖ゆえ己に原因があると認められず、妻に魅力がないからだと責任を転嫁した者もおりました」
体温はすっかり冷めていた。
「それは、あまりに虚しくないか。私たちが何を成し遂げ何を言ったかよりも、そこの機能ばかりが自他ともに評価の土台になるなど」
「ご指摘の通りでございます。しかし事実です。我々という船が自信の風を受けるには、その帆柱が必要なのです」
きっぱり言い切られても受け入れ難い主張だった。自信の風と言われても、マジュス卿の説によってかえって体に穴が空き、寂しさがすうっと通り抜けていくような気がする。
男は生殖に突き動かされていると聞いてこんなに拒否感が起こるのは、当てはまる自覚が半分あるからだ。そして残りの半分はきっと、アスターがベラドンナを求める唯一無二の気持ちを、男が女を求める普遍的な気持ちまで薄められたと感じるせいだ。
なぜベラドンナへ惹きつけられるのかという分析の無粋な手では触れられない、心身の直感こそが、アスターにとっての恋なのに。
しかし前向きに考えると、男がそういう生き物であるとの前提を誰もが共有していて、かつアスターの血の価値が高いなら、一筋の光明が差し込んでくる。
王は、子を成した経験から、アスターをどんなに矯正しても完全に思いのままには出来ないとわかるはずなのだ。
ローレルとバーチの娘たちが成長して子供を産むまでまだまだ時間はある。国内にバーチとアスター以外に王位を継げる男子はいない。
この状況ならばアスターはベラドンナにより良い条件を差し出せる。彼女への求婚を自分に許すことができる。
そう思って、アスターはふと笑った。
「諦めようと決めてから物事が私に都合よく流れていく。どうしてだろう。皮肉だな」
「結構なことではありませんか。ところでなぜそのような愚かなご決断を?」
愚かという強い言葉に面食らってアスターが固まったが、マジュス卿は返事を求めていなかったらしく止まらない。
「ベラドンナ嬢が恩義からあなたの求婚を受けると疑っておいでだったのですか? ご自分の求愛の公平性と彼女からの好意の両方に不安をお持ちになる程度の脆いご関係なら遠からず破綻するのでご英断でございます。彼女が妻か妾かどちらも嫌かを選べず、その結果を背負えないと思われたのですか? それはつまり、あなたはお手ずから彼女へ無能力者の烙印を押されたということ。彼女は今後、兄と夫の庇護のもと、自ら決断を下さずに安穏と暮らしていくでしょう。何たる御慈悲、このグランディ感服いたしました。彼女が正気を取り戻した暁にはご自分でそのように仰ればよろしい。彼女も殿下の温かいお心遣いに触れて深い感銘を受けるに違いありません」
マジュス卿の口調は一定である。眉のあたりが厳しくなった気はするが錯覚かもしれない。ただ、彼が真剣であること、アスターも同じ態度で臨むべきことはアスターにはわかった。
「アスター殿下。実感はまだお持ちではないでしょうが、民草の命はあなたの御心次第なのです。ゆえにあなたは狂気に落ちてはいけません。自棄も癇癪も悲嘆も御さなければなりません。そのためにあなたは必要だと思われたのなら好ましい女性を妾として迎えられるべきなのです。精神を明晰にする薬は古来より適度な酒と女性だと決まっているのですから」
「嫌だ」
「政治的に無能で品行方正な王と多淫にして強欲でも国を富ませられる王ならば名君は後者なのです。人としての善の基準を玉座へ持ち込んではなりません」
「違う、僕はそんなことはしない」
「あなたはご自分が男だからと無闇に卑屈になっていらっしゃるのではありませんか? 女が女の苦しみに苛まれているからといって、それに比べたら男、ひいては恵まれたご自分の苦しみなど些末であり騒ぐのは甘えだとお考えになるのは、断言しますが悪徳ですよ。それは苦しむ人間を黙らせるためにしか用をなさない唾棄すべき詭弁です。直ちに比較をおやめください。そしてもう少し欲張ってください、どうか他人を信用なさってください。痛みを抱えこまれた末に内から静かに崩れていかれるあなたのお姿を二度も拝見するなど私は御免蒙ります」
「やめてくれ! 違うんだ、僕は違う、僕は……っ」
アスターは狼狽えた。




