(18) アスター王子、仕事に励む
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もしやとうに結婚は決まっていて、アスターが形式的に求婚する段階なのかと本気で焦ったが、それならベラドンナとの結婚を願ったときに王は嬉々としてそう告げるだろうと瞬時に気づいて一旦落ち着いた。
しかも聞けばネリネは先代女王の嫡出の第一子だった。本来ならばとうに大公になっているところ、彼女の叔父がその座を占めている奇妙な状況に殺伐としたものを感じたが、それにしては両者に含むところがなさそうだ。
これは見合いというのがアスターの早とちり、あるいは本当に親善のついでにネリネ側で見定めているのではとも思い至り、さらに落ち着いた。ほとんど大公に等しい立場を誇りにしているだろう彼女が、彼女の視点からすれば王になるはずもなく後ろ盾がなく庶子であるアスターを選ぶはずがないからだ。
宴は夜深くまで続いた。アスターは夜明けに眠り、昼過ぎに起きた。
スープだけ頂いた食後、熱いハーブの茶を伴に、暖炉の前で手足をあぶってのんびりしながら、遠目にうかがっていた昨日のネリネの様子を思い返す。
あの場にいたトリテレイアの誰もが、特に男たちは、常に彼女の気を引きたがっていた。そして彼女は、どんな技か見当もつかないが、誰かに長くつかまることなく、かといって鼻であしらうわけでもなく、巧みに主導権を握って男女を捌いていたように見えた。
ネリネなら、アプレの社交界にも君臨できそうだ。そうしたらベラドンナは大喜びで話したがるだろう。男よりよほど女の子が好きなのだ彼女は。
トリテレイアらしい長袖のドレスを纏ったネリネに頬を染めて見惚れるベラドンナを想像して嫉妬する。
そんな無益な行いを、アスターはした。
そのせいかアスターは、翌日顔を合わせたネリネになんとなく心が親しまなかったが、それを知らないネリネはアスターたちの世話役としてまっとうに親切だった。
アスターのトリテレイアでの主な仕事は、宮殿を出発して転宿しながら国内をまわり、ひたすら酒を飲んでたくさんの人と話すことだ。その日呼ばれた地元の有力者との昼餐会はまだ飲酒を控えて会話に集中できたが、夜会はまさに、小振りな器に注がれた透明な仄かに甘い酒で何度も乾杯して喉を焼かねばならなかった。
女性も男性も皆も楽しげに杯を重ねるので、夜が更けるにつれ、酔いが進んで通訳を待たずに喋り倒してくる人が出てきた。下手に相槌を打てないが、向こうの機嫌を損ねないよう遮るのも難しい。
そうしてアスターが静かに困るたび、すっと間に入ってくれるのが、誰あろうネリネだった。舌に調子がついた人はその快感を止められるのを嫌がるだろうに、ネリネは相手をなんとも上手に落ち着かせて和やかに去らせてくれるのだ。
アスターはほっとして通訳を介して礼を伝えた。
「何度もありがとうございますネリネ姫」
「いえいえ、お礼なんておっしゃらないでください。良心が痛んでしまいます」
「良心?」
「ええ」
いたずらっぽく微笑むネリネは身長差のために自然と上目遣いになっている。まだ幼い後輩たちも同じようになるので見慣れているのに、彼らと違う印象を受けるのが新鮮だった。
「実は、私も皆様と同じで、ずっと殿下とお話をしたかったんです。よろしければ少しここから出ませんか?」
彼女の目は潤んでいたが、呂律ははっきりしていたので、アスターは感心した。酒の飲み方がうまい。しかもこうして休憩の口実をくれるなんて。
ありがたく誘いに乗ると、ネリネは、階段を上がり、広間を見下ろせる桟敷席へ案内してくれた。
壁で区切って個室のようにしてあるそこは、若葉のような緑の壁を草花からとったであろう意匠が埋め、床は色とりどりのモザイク画だった。
アスターが選んだ中身の詰まった椅子も、可愛らしい柄と鮮やかな色をしていて、長い間外が白に閉ざされる国では華やかな色彩が好まれるのかとちらと考えた。
二人が腰を落ち着けると、使用人が現れて料理を置き、隅に控えた。
口を咀嚼に使う暇がなかったのでありがたい。
まず水をくっと飲み干して、アスターは言った。
「今日の酒はどれも美酒でしたが、そもそも水が特別なのですね。生き返るようです」
「山の湧き水なんですよ。わが国の自慢なんです。外に出てこれを毎日飲めなくなる場所で暮らす未来なんて想像したこともありませんでしたが、巡り合わせというものは不思議ですね」
アスターは黙って料理をつかんだ。小麦を練った生地で肉や野菜の具を挟んで焼き上げたもので、食いでがあるのが嬉しい。
一切れ食べて、一旦口をぬぐった。
「単刀直入にお聞きしますが、あなたは私との婚姻についてのお考えがおありですか?」
「もちろんです。殿下が素敵なお方なのはお会いしたあの日にもうわかっていました。あなたの妻にしていただけるなら、これ以上の幸せはありません。それとも、年上の妻はお嫌でしょうか」
悲しげに寄せられた細い眉。その下の大きな瞳に浮かぶ切ないほどの好意の奥に、詮索を遮断する壁の存在を感じた。
こんな目つきを知っている。東屋で会ったときのベラドンナだ。
小手先の演技が通じるのか自信はなかったが、ネリネがこちらを侮っていることに賭け、アスターは精一杯夢見がちな朴念仁らしく装ってみた。
「正直に申し上げますと、困惑しています。そのような評価は不相応に思えますし、何より私は、結婚は恋した相手とするものだと思いこんでいましたから」
「――恋愛結婚ですって? まあ、なんて素敵なお考えなんでしょう」
軽蔑。アスターの警戒心は、言語を飛び越えてネリネの声に滲んだその感情を、猫のヒゲに似た敏感さで察知した。
四六時中気を張っていた期間は、なんだかんだアスターの人生の中で占める割合は多くはない。すっかり神経が鈍くなったつもりだったが、一度ついた警戒癖はそう簡単には変わらないらしい。
やはりネリネは、国主の座を目前にしながら年下の小僧のお守りにされそうになっている現状に不満を抱えているに違いない。これならお互い意に沿わない結婚をしないための味方になってもらえそうだ。
しかしその話題を出すのは時期尚早である。アスターは喜色を押し隠してのんびり続けた。
「恋の話はお好きですか?」
「とっても。恋とおしゃれの話が嫌いな女がおりますでしょうか。殿下は何がお好きですか?」
「いえ……私はつまらない男ですから。私などのことより、ぜひあなたのお話をうかがいたいものです。あなたのご趣味や、あなたがご覧になるこの地のこと、あなたもこの料理がお好きかどうかということを」
アスターは、残った分をパクパクと食べきり、ありがたいご馳走でしたと微笑んだ。
それから使用人が皿を片付けしなに温かいお飲み物はいかがですかと尋ねてくれたので、それも出してもらった。蜂蜜と種々のハーブが入った甘い飲み物で、こちらでは冬によく飲むものだと教えてもらう。
「これも美味しいな。ありがとう」
「もったいないお言葉でございます。どうぞごゆっくりお過ごしください」
使用人が下がったあと、ネリネは、彼女の前にも供された湯気のたつそれを口にして、唐突に言った。
「私はこれが好きですよ」
「……私と同じですね」
彼女と視線が合う。
「難しいお話が出来ないのはお許しくださいね。もし私の力不足であなたを楽しませることができなくても、つまらないとはっきりおっしゃらずに、鷽を見に行くとでもかこつけて席を立ってくださいな。約束ですよ。誰かに愛想だけでお付き合いしてもらう悲しさは、あなたもよくおわかりでしょう、殿下」
「はい。約束します」
ベラドンナの変わってしまった手紙を思い出す。自分の好きな物を共有したい相手から、ご機嫌取りの雰囲気を感じ取ってしまうのは虚しいものだ。
「ですが今日のところは飲み終わったら広間に戻りましょう。これ以上殿下をひとり占めしていたら恨まれてしまいます」
うまい返しも思いつかずにアスターは苦笑し、ネリネがこういった発言を、心にも無い世辞ではなく単なるからかいとしてするくらいの関係を目指そうと密かに決意した。
夜会の次の日はトリテレイアの名物である刺繍工房の見学だった。
相も変わらず空は曇天。工房の前で、ネリネは、円筒の帽子を被り、襟が高く房飾りのたくさんついた上着を着て立っていた。
アスターも合流し、それでさあ行こう、となるはずが、一悶着が起きた。
ネリネが連れた二人の護衛がどちらも女性であったことに対し、護衛隊長を筆頭にしたアプレ側が、ネリネの護衛がいるとは聞いていたが女性とは告知されていなかった、知った以上は同行はいたしかねると抗議したのである。
互いに護衛の性別など言うまでもなく女性だ、男性だと思いこんでいたためのすれ違いだった。
アスターとしては、驚きはしたものの、彼女たちは膝まで隠れる厚い上着を着、下半身も重ね着した上に、ふくらはぎまでの長靴を履いているのだから問題はなく、気になるなら段差を越えるときなどどうしても足が出る場面を直視しなければいいと思う。しかし隊長からすると、真面目に職務を遂行しているところに、足の線がくっきりわかる扇情的な格好の女性が現れ、文化の差の大義名分のもとに自国の王族に破廉恥の汚名を着せようとしているのっぴきならない事態らしかった。
「この国ではどうかは知りませんがね、我が国では既婚であろうがいかなる職に就こうがとにかく女性がそのような服装をするという考えはありはしないのです! そうでしょうアスター殿下!」
「人聞きの悪い事を。アスター殿下、どうか我々が恥知らずの女だとはお思いにならないでください。我々はただ兵士の誇りがあるゆえに、羞恥を堪えて職務を遂行するにふさわしい服装を選んだのです。このような不躾な物言いをされる筋合いはありません」
「わかっています。隊長、お前は少し落ち着け。ネリネ姫、申し訳ないのですが少しお時間をいただけますか」
アスターは隊長についてくるように命じ、考えを纏めながらネリネたちには声が届かないであろう距離まで離れた。
「僭越ですがね、殿下が何とおっしゃろうとこればっかりは譲れませんよ」
「まあ待て隊長、考えてみたんだが、これはむしろ好機かもしれないぞ」
真面目くさって説く。
「聞いただろう、彼女たちも本当はあの装いが恥ずかしいのだと言っていた。つまりこちらと我々の露出への感覚は近いんだ。きっと彼女たちは、普段から野卑な視線に煩わされていて、男という存在に落胆を抱いているに違いない。だがそこでお前たちが礼節を弁えた対応をすれば……」
「……我らアプレの品格が際立つ?」
「そういうわけだ。さすがだな。お前ならわかってくれると思っていた。いいか、全員に厳命しろ。彼女たちの足を見るんじゃない。言及もするんじゃない。帰国後になんと言われようとも、男なら自ら泥を被って淑女に恥をかかせるな。お前たちならそれができる。そうだな?」
「もちろんですとも!」
そうして無事に見学と相成ったとき、ネリネたちが怪訝そうな顔をしていたが、アスターは気づかないふりをして説明を避けた。
工房に入ってすぐ、アスターは意外な明るさに驚いた。開け放たれた鎧戸から入る光は淡いのに、部屋全体がぼんやりと青白く照っている。壁が漆喰だからだろうか。
「明るいですよね。雪のおかげなんですよ」
職人の中年女性が、日中は雪が光を反射するので手元が十分見えるのだと話してくれた。大事な目が悪くならないように、冬は日の出と同時に工房が動き出すのだそうだ。
「それでもだんだん疲れてくるし、日が暮れるのは早いので、この大きさの刺繍一つ出来上がるのにも時間がかかるんですよ」
「素晴らしいですね。この模様は単に赤というのが味気ないような色です。それにこちらの銀糸は、光沢からして聖銀ではありませんか?」
「ええ。ですからこれは宝石箱の外張りに人気の品なんです。ちなみに聖銀以外の糸はほとんどここで染めたものなんですよ」
作業場も少し覗かせてもらった。工房一の腕利きの職人が正確かつ素早く針を刺す様に感嘆し、織物も作っているということで職人が調子よく動かす織機の音を楽しんだ。
染色の作業場の川を見るべく全員で外へ出た際、アスターはネリネに雪道での歩き方を伝授してもらった。他のアプレの面々もネリネの護衛から教わり、無事誰も転ばずたどり着いた川は、川底の石がくっきり透けていて、まるで白い布の山に黒いインクをどっと流したようだった。実際、作業の日には染料で川が赤や黄に染まるらしい。
染色自体は天気のいい季節にまとめて行うのだが、凍てつく温度でこそ発色が鮮やかになる色があり、この冷たい川に入って糸を洗うこともあるそうで、アスターはその妥協のなさに感服しきりであった。
室内に戻り、これらの品物を求めてバンナンなど外国から訪れる人もいると聞いて、アスターは何の気なしに言った。
「ではあなたはバンナンの言葉がわかるのですね」
すると職人は思わずといったようにネリネと顔を見合わせたので、アスターは何か失言したのかと肝を冷やした。
「どうしてそう思われたんです? 年寄りの、それも女ですよ。外国語なんてできるように見えますか?」
「はい。長く勤めているようにお見受けしたので、販売にも関わっているのかと勝手に思いこんでしまいました。その様子だと私が間違っているのでしょうか」
返事はなく、なぜか職人もネリネも露骨にまじまじと見てくるので、アスターは本当に居心地が悪かった。工房の重大な秘密だったのか、深い意図はないと釈明すべきか、しかしそうしたらかえって怪しくないかと悩んでいると、ようやく職人が口を開いた。
「――いいえ。ご推察の通りでございます」
それは確かにバンナンの言葉であった。アスターはネリネにあなたもわかるかと視線で尋ね、頷かれたので同じくその言葉で返した。
「もしかして聞いてはいけなかったのでしょうか」
「いえ、そのようなことはまったく。たいへん失礼いたしました。申し訳ありません」
「そんなに気にしなくとも……うん、でしたら一つ私の願いを聞いてはもらえませんか」
「ぜひ! どうぞ何なりと仰ってくださいませ」
「私にこの地の刺繍を教えてほしいのです」
言ってみると我ながら中々いい思いつきだった。ベラドンナは、上達には熱心でなかったが手慰みに刺繍をする。興味を示すかもしれないし、それなら手順書を渡すなんてせずに直接教えたい。叶うかどうかは別として。
職人は快諾してくれて、見学は終わった。
「アスター殿下」
解散し、宮殿に入ろうとしたところで、アスターはわかる言葉でネリネに呼び止められた。振り向くと何とも言えない表情である。
「あなたは……」
「はい」
「……冷えたでしょうから、暖かくしてお過ごしくださいね」
「そうします。ありがとうございます」
気になったが、晩餐会で会ったネリネは、いつもと変わらない様子であったので忘れることにした。




