16.新しい入会希望者
時計の針は18時をとうに廻っていた。
この時間になると越南高校の部活を終了した生徒たちが、三々五々徒歩や自転車で帰宅を始めている。
もっとも、実力のある強い運動部はまだがんばって練習をしているみたいだ。
「ゆかり、時間、大丈夫?」
わたしは、1年3組の教室に戻りながらゆかりに聞いた。
ゆかりは夜、家の仕事の手伝いをしている。
あんまり遅くまで学校に残る訳にはいかない。
「ああ、うん、大丈夫。新酒の作業は、もうほとんど終わったから」
ゆかりは短くそう答えた。
ゆかりの家は造り酒屋だ。
いわゆる、地酒の蔵元というもの。
蔵元と言っても、あまり大きな酒造メーカーではなく、聞いたことのないような名前の日本酒を出している。
でも、地元のスーパーでもゆかりの家が造った日本酒は置いていない。
入間郡にある、古くからの酒屋さんには置いてあると言っていたが、未だに見たことはない。
昔は何人も杜氏と呼ばれる日本酒を作る専門の職人さんたちが来ていたそうだけど、今はほとんど杜氏さんを呼んでいないと言っていた。
日本酒を飲む人が毎年どんどん少なくなっているからだそうだ。
この辺りは、秩父山系の伏流水が湧くので、水質はいいと聞いたことがある。
そのため、麻原酒造とか地元では有名な蔵元がある。
でも、ゆかりの家は有名でも何でもないから、必然的に家族総出で仕事を手伝っている。
ゆかりも新酒の仕込みの時など、真冬に杜氏の真似をしているそうだ。
「ふーん、今の時期はそう忙しくないんだ」
「うん、新酒の仕込みの時ほどはね。もう間もなく新酒の蔵出しが始まるから、その時にお酒を詰める作業を手伝うだけ。うちは、造った半分以上を桶買いで持っていかれちゃうからね」
桶買いというのは、前にゆかりが説明してくれたことがある。
生産量が足りない別の日本酒メーカーと契約して、桶単位でそのメーカーに造った日本酒を売るのだという。
そんなことを話しながら、わたしたちは1年3組の教室に戻ってきた。
教室は電気が煌々と点いていた。
誰か残っているのだろうか。
引き戸を開けて、教室に入ると、そこには男子生徒が一人ぽつねんと自分の席に座っていた。
それは例ののっぽの男子生徒、謂越大地だった。
昨日と違って、友人の男の子は誰も居ない。
謂越大地は、まるでわたし達を待っているかのように顔を上げてこちらを見た。
「よう、お前ら、デリバティブ研究会に入ったんだってな」
その言葉に、わたしはびっくりする。
「ちょっと、あんたなんかにお前ら呼ばわりされる覚えはないわよ。それにどこから聞いてきたのか知らないけど、あたし達はまだデリバティブ研究会に入った訳じゃあないんだからね」
ゆかりが謂越君につっかかる。
あちゃー、どうしてこの二人は折り合いが悪いんだろう。
何だか、顔を合わせるたびに喧嘩している。
「ああ、悪い悪い」
謂越君は悪びれた様子もなく謝り、言葉を続けた。
「で、あそこは部員が今、何人くらいなんだ?新入生は他にも入ったのか?」
「部員? さあ、よく知らないわよ。会長と副会長しか会っていないし、新入生は入った形跡がないわね・・・って、いうより、何であんたがそんなことを聞くのよ」
それは、わたしも疑問だった。
ちらちらとこちらを見る表情は、何だか色々な葛藤が垣間見える。
どうやら、単なる世間話とは違うようだった。
「い、いや、俺さ、まだクラブ決めていなくってさ。デリバティブ研究会なんて面白そうかななんて・・・」
「止めときなさい。あんたなんかでかくて手足がひょろ長いんだから、バスケ部にでも入ればいいじゃない。デリ研は頭使うのよ。あんたなんてガラじゃないわよ」
ゆかりは目の前の男子生徒の成績も知らないのに、一気に畳みかける。
よっぽど謂越君と一緒の部なのが嫌みたいだ。
「そういうなよ。金融関係は、俺、ちょっと興味があるんだ」
そう弁解する謂越君の表情が気になった。
なんだろう。
何だか、本当は金融が好きじゃない気がする。
何か止むにやまれぬ理由があって、デリバティブ研に入りたい。
そんな感じがする。
それとも、単なるわたしの勘違いかしら。
「ゆかり、入りたいって言うのにそう邪慳にしなくても・・・」
その言葉がふと、わたしの口から出た。
そして、出たことに自分でも驚いてしまう。
別に謂越君が可哀想になったからとか、そんなことではない。
彼がデリバティブ研に入ろうが入るまいが、わたしにはまったく関係ない。
その筈なのに、なんでわたしったら、謂越君の味方してんだろう。
「えっ、えっ、いいのチェリー、こんなでかいの入っても。部室が狭くなって邪魔じゃん」
「そんな・・・進撃の巨人じゃあるまいし・・・」
わたしが味方をしたせいなのだろうか、謂越君の表情がぱあーっと明るくなった。
「おっ、サンキュー、恩にきるぜ、八重山」
それでもゆかりは、まだ納得していないようだった。
「いっとくけどね、研究会に入会を許すのは、夢見先輩と渦巻先輩の2人なんだからね、あたしたちじゃなくて、この二人の許可がないと、入れないんだからね。入会には物凄い高度な試験問題があるのよ。その試験をパスしないと入れないんだから」
「ちょ、ちょっと、ゆかり・・・」
勿論、デリバティブ研究会に試験なんてない。
・・・ないと思う。
「そ、そうなのか?」
「もちろんよ。わたし達の時の試験問題は、通貨スワップとは何かだったわ。こんな問題、あんたなんかに応えられないでしょう。へへーんだ」
つい先ほど、夢見先輩から教えられた通貨スワップなる言葉をゆかりは持ち出した。
こんなの、一般高校生が応えられる訳がない。
なんとか入会を諦めさせようというゆかりの作戦のようだった。
「通貨スワップ? それはデリバティブの一種で、あらかじめ決められた日時の2つの通貨の交換レートを事前に契約しておいて、実際の外為のレート上がっていようが下がっていようが、契約したレートで交換する契約のことだろう?」
せ、正解だった。
ゆかりも呆然としている。
言葉つきも乱暴で、どうみてもヤンキー一歩手前の高校一年生がすらすらと答えたのである。
「あ、あんた・・・まさか、さとるの化け物」
んな訳ないでしょ、ゆかり。
でも、これではっきりした。
謂越君は、相当に金融派生商品のことを勉強しているのだ。
興味があると言っていたのは、伊達ではなかった。
どうやら、ゆかりの謂越入会阻止計画は見事に失敗したようであった。




