悪意の底に残されたもの(3) ~エピメンテウスの妻~
「霧崎さん、前にエピメンテウスの話をしてくれたね」
「人類に火を授けたプロメテウスの弟のことね?」
「彼の妻の話を思い出したんだ」
「……どういうこと?」
「今この世界を覆う状況と、俺たちに与えられた力によく似た話だと思った」
「……でも、グレイさん。あの話は……」
一瞬、意識がぐらりと揺れて、次の瞬間、マイミは覚醒した。
空母ニミッツの甲板上。
眼前に迫りくる巨大な龍、その頭上には甘粕が操縦するハリアー。
そして。
コクピットから、刀を手にしたグレイが飛び降りる。
その全身が、青白い波動に包まれている。
彼自身が今や、龍を殺せる銃弾と化していた。
グレイは逆手に握った日本刀の刃を、龍の頭部へと突き立てた。
全長十一キロにも及ぶ龍の頭部は、小山のようだ。
グレイの姿は鬼に立ち向かう一寸法師のよう。
「霧崎!」
牧村が絶叫し、マイミの襟首を掴んだ。
思いのほか強い力でグイと引っ張られる。
龍が凄まじい咆哮を上げた。
その巨体が押し寄せてきた高波が、今ニミッツを飲み込もうとしている。
グレイの姿が波にかき消され、見えなくなった。
ヘリへと無理やりに引き上げられたマイミは、声にならない声でグレイの名を呼び続ける。
ほんの僅かな瞬間に、あらゆることが起こった。
凄まじい咆哮とともに、龍が消失し始める。全長十一キロにも及ぶ巨体が瞬く間に分解され、渦をかくように消えて行こうとしている。
その一方、激突寸前まで押し寄せた龍が作った波を浴び、ニミッツは横倒しに転覆しかけていた。マイミを乗せたブラックホークは間一髪で離陸したが、その足元では甲板上に残された艦載機や船員が、残らず押し流されている。
あちこちで、耳を塞ぎたくなるような悲鳴が起った。
「くそ、高度を上げろ!波に飲み込まれる」
多古忍がコクピットに向かって怒鳴っていた。ヘリの機長は必死に機体の制御を行いながら、懸命に高度を稼ごうとする。
「グレイさんが!」
マイミはようやく声を発することができた。
龍が消失していく過程で、海原に渦巻きが発生しようとしている。海中から巨大な質量が失われた反動だ。
もはやグレイの姿を探すことは困難だった。
龍がいた上空でハリアーが旋回した。甘粕がこの空域を離脱しようとしているのだ。
「牧村さん!」
マイミは振り返ると、牧村修二の腕を掴んだ。
「グレイさんが、あの辺りにいるはずです。ヘリを降ろして!」
「な……」
牧村があんぐりと口をあけ、しばらく間をおいてから、かぶりを振った。
これまでに見たことも無いような沈痛な表情だった。
「……無理に決まってるでしょ、霧崎」
足元で凄まじい音が響いた。衝撃に耐えられなくなったニミッツの船体が歪み、裂けたのだ。巨大な空母の内部に、一気に海水が流れ込む。
数十発の魚雷をどてっ腹に食らったのと同じくらいの損傷だった。すぐ傍で発生した巨大な渦の影響もあり、ニミッツは数分以内に轟沈するだろう。
「でも、牧村さん!」
抗おうとするマイミの前に、多古忍が立ちはだかった。
「そこまでだ、霧崎マイミ」
小柄な女侠客は、切れ長の目でマイミを捕らえた。
「奴らは覚悟をしていた」
マイミの目から、再び涙が零れ落ちた。
「グレイさんが死ななきゃいけない理由なんて無いはずなのに」
牧村が目を細める。
「あいつは、自分は不死者だって言ってたわ。もしかしたら、助かるかも」
「いいえ、違います。彼は不死者なんかじゃなかった」
マイミは胸の中に流れ込んで来た記憶に意識を傾けながら、口を開いた。
「ヴィンセント・ファーニア、ボノ、そしてグレイさんの三人に共通するのは、残虐な虐殺地帯で過ごした経験なんです」
牧村がうなずく。
「そうね。そして粕井が、グレイはソマリアで子供を殺したと言ってたわ」
「はい、グレイさんは子供を殺しました。それもたくさん。殺した相手は、少年兵だったんです」
夢で見た、虚ろな目をした黒人の少年。薄汚れたTシャツに、サイズの合っていないジーンズ。
黒い肌にたかる蝿。
無感動、無表情な顔をした黒い顔。次から次へと現れて、こちらに銃を向ける少年兵。
違う部族に誘拐され、人を殺すことだけを仕込まれた子供たち。
敵を見つけ、銃を向け、引き金を引く。
大人の代わりに前線に立ち、捨て石のように戦うことを強いられた子供たち。
グレイは殺した。
自分を殺そうとする、少年たちを殺した。
そしてそのことに耐えきれず、銃を置いた。
「グレイさんはアフリカを引き揚げ、日本に戻って平和に暮らそうとしたんです」
ヘリが高度を上げる。マイミの気持ちを無視し、その場を離れようとしていた。
牧村は眉をひそめた。
「……子供を殺したことが、三人の共通の経験なの?」
「いえ、違います」
マイミはかぶりを振った。
「逆なんです。ヴィンセント・ファーニアはクアンタイ・カナット村で虐殺に遭遇し、止めようとしました。そしてボノはドネツクで活動家の子供たちを庇った」
「グレイは?」
「日本に戻ったグレイさんは、東北で地震に巻き込まれました。土砂に呑まれたバスの中から、記憶喪失の状態で救出されたんです。彼は取り残された小学生を救うため、自分の命を顧みずにバスを運転して学校へ向かったんです」
「自分の命を顧みず?」
マイミは頷いた。
ヴィンセント・ファーニアも、ボノも、グレイもみな同じだ。彼らは自己犠牲をいとわず、そしてその結果。
「彼らはみんな、一度そこで死んでいるんです」
牧村はあんぐりと口を開けた。
「あんた……頭は大丈夫なの?」
「一度死に、だけど大きな力が働いて蘇った。だから歳を取らず、失った手足が生え、自分が不死だと思い込んでいた」
「……蘇ったって、どうして?どんな理由があったのよ」
「悪意に対抗する力が働いたんです」
マイミは少しずつ遠ざかる渦に目を落とした。
勝利の証のはずだったが、素直には喜べなかった。
胸の奥がざわざわとする。
「龍も、超共感性思念体(Super Pneumatronics Material)も、結局は力の発露の結果でしかない。悪意は、龍以前から世界に蔓延していたんです。粕井さんが言ったことを覚えていますか?有史以来、戦争が途絶えたことは一度も無いのだと」
「じゃあ……龍が悪意の象徴だとしたら、グレイたちの力は何の象徴なの?」
「エピメンテウスの妻の物語はご存知ですか?」
牧村は小さく頷いた。
「それって確か、パンドラの箱の話かしら?」
「はい。天上の火を盗んだプロメテウスに怒った神が、人間を罰するため、美女パンドラにあらゆる災厄を詰めた箱を持たせ地上に送り込む。エピメンテウスはまんまと罠にかかってパンドラを娶る。やがてパンドラは好奇心に負けて箱を開けてしまい、あらゆる災厄が地上に解き放たれてしまう」
「犯罪、戦争、飢えや病気……。つまり、世界を覆った悪意ね。でも、確か箱の底には残されたものがあったはずよ」
「そうです」
マイミは頷いた。
「それは、希望です」
※※
巨大な龍は頭からじわじわと消失をしていった。残されているのは体躯の半分ほどだ。
眼下にその様子をながめながら、マイミはギュっと目を瞑った。
この勝利の代償として損なわれた、グレイのことを思ったからだ。
それに、きっと。
牧村が口を開く。
「悪意に対抗できるのは、希望だけ。その象徴として、あの三人が生かされていたってこと?」
「はい。彼らは自己犠牲によって人を救い、悪意に満ちたこの世の中にも、残された希望があることを示したのです。しかし……」
マイミは次の言葉を選んだ。
嫌な予感がしていた。
龍は死を知らないが、呪いを浴びた銃弾を探し出せば戦える。百たび戦い、百の敗北を喫するが、くじけなければ最後の一発が世界を救う
件の予言を思い出す。
その言葉の正確な意味を、自分たちは理解していただろうか?
件は龍を四匹殺せば、戦いが終わるとは言っていないのだ。
それに、パンドラの箱の話……。
そこまで考えたマイミは、息を呑んだ。
龍が消失しようとする渦の中心に、人影を見た。
それはアレクサンドルだった。
つづく




