第23話 十六重の重奏
グルルルルルァァァァッ!
三十メートルを超える漆黒の巨獣が、大気を震わせる咆哮とともに身を起こした。
黒曜石の巨腕が振り上げられ、広場全体を押し潰すような暴風が吹き荒れる。
「ガルド様、行きますわよ!」
「おうよ! 任せときな!」
ガルドが大盾を構え、地を蹴って陥没孔の縁へと突進した。
大剣の柄で大盾の面を激しく叩き、甲高い金属音を響かせる。
「――《挑発》ッ! こっちを向きやがれ、ドデカいトカゲ野郎が!」
ズゥゥゥゥンッ!
ヴォルグレイドの無数の赤い眼が一斉にガルドを捉え、巨腕が超音速の風切り音を立てて叩きつけられた。
同時に、全身から鉛のように重い腐食瘴気が津波のように噴き上がる。
「させません……! ――《聖天防護陣》!」
ミリアが聖杖を天へと掲げ、透き通るような白銀の光膜を広場に展開した。
吸い込むだけで肺を焼く猛毒の瘴気と精神汚染が、私たちの周囲数メートルで綺麗に遮断される。
「お嬢さん、今だ!」
ガルドは三拍子のワルツの軌道通り、二拍目の裏で身体を滑らせ、巨腕の衝撃波を大盾の傾斜で受け流した。
――敵意固定時間:一・八秒。
巨獣のすべての意識がガルドの盾へと吸い寄せられ、胸郭の防御障壁に生じた、瞬きひとつの刹那の隙。
「……見事な一拍ですわ」
私はドレスの裾を翻し、煙の晴れ間へ向けて一歩踏み込んだ。
黒い扇を胸の前で完全に展開する。
銀の懐中時計が、チ、チ、チ、と胸元で激しく秒針を刻んだ。
「――十六重の重奏」
私の唇から紡がれたのは、呪文の詠唱ではない。
十六の術式を完璧な拍子で編み上げた、精密無比なる調律の楽譜。
第一層――《脈動封殺》(毎秒四千八百の再生をゼロへ完全相殺)。
第二層――《筋力減衰》(物理攻撃力マイナス四十パーセント)。
第三層――《神経弛緩》(攻撃行動間隔を一・五倍へ遅延)。
第四層――《呪殻脆化》(黒鉄装甲の魔力透過率上昇)。
第五層――《魔力遮断》(瘴気拡散範囲を半径十メートルへ抑制)。
第六層――《重心傾斜》(巨躯の体幹バランスを右へ固定)。
第七層――《関節硬化》(可動域を狭め、追撃速度を半減)。
第八層――《痛覚増幅》(微小な損耗を激痛へ変換)。
第九層から第十五層――《呼吸圧迫》《脈理乱調》《魔力漏洩》……。
そして――第十六層。
「――《衰亡の調律》」
扇の先端から放たれた紫黒の光条が、一・八秒の隙間を縫って、ヴォルグレイドの心臓部へと正確無比に突き刺さった。
キィィィィン……ッ!
甲高い調律音が広場全体に木霊し、巨獣の全身に張り巡らされた十六色の術式ラインが、漆黒の外殻の下で一斉に発光した。
重心を崩された巨体が右へと傾ぎ、硬化した関節がギチギチと軋みを上げる。
――自己修復量:四千八百から「ゼロ」へ固定。
――秒間損耗:百二十七。
――一分で七千六百二十。
――一時間で四十五万七千二百。
――七十二時間二十分で、真の総生命量三千三百万の完全削り落とし。
カチリ。
懐中時計の秒針が、計算通りの一定リズムへと固定された。
損耗率が再生量を上回った、その瞬間。
勝敗は――理論上、完全に決した。
あとはこれからの七十二時間と二十分、私が一秒の拍も狂わせず、ガルドが一歩もステップを外さず、ミリアが精神防護の光を絶やさずに踊り続けるだけ。
「ギ……ガァァァッ!?」
ヴォルグレイドが、苦悶に満ちた声を上げて巨躯を震わせた。
外傷は何一つない。
だが、内側から確実に生命の砂が零れ落ちていく感覚に、怪物は生まれて初めての恐怖を覚えたように後退した。
◇
城壁の上では、宮廷魔導士団が絶句して立ち尽くしていた。
「な……何が起きた……!?」
魔導士団長が、手元の魔力計器を見つめたまま震え上がる。
「あの小娘、あの一瞬で……十六重の術式を同時展開したのか!? 馬鹿な、多重詠唱の限界は特級魔導士ですら四重が限界だぞ! 十六の術式を干渉させずに編み上げるなど、神業という次元ではない!」
「それに……見よ!」
老魔導士バルツァーが、指を震わせて広場を指差した。
「あの怪物の再生が、完全に止まっておる……! それどころか、一秒ごとに、確実に生命力が削れていっておるのじゃ……!」
「あ……あれは、本当に削れているのか……?」
「再生していない……! あんな化け物に、傷が通っているぞ……!」
「勝てる……勝てるかもしれない……!」
城壁に詰めかけた近衛騎士たちや兵士たちの瞳に、絶望から一転、信じられないものを見るような「希望の光」が灯り始めていた。
「……っ!」
車椅子のアルヴィスも、泥まみれのリーゼロッテも、言葉を失って広場を見つめていた。
大爆発も起こさず、大火炎も放たず、ただ黒い扇を振るっただけで、国を滅ぼしかけた厄災を「死への秒読み」へと引きずり込んだのだ。
かつて「撃破数ゼロ」と切り捨てた令嬢の真の姿に、王都の貴族たちは戦慄して言葉を失っていた。
◇
広場の中央で、巨獣の赤黒い双眸が、ゆっくりと私へと向けられた。
先ほどまで虫けらを見るように見下ろしていた怪物が――いま、明確に私を「唯一の脅威」として認識した。
ドクン。
ヴォルグレイドの胸郭が脈打ち、殺意に満ちた瘴気の風が吹き荒れる。
私は乱れる黒髪を扇で優雅に払い、冷徹な微笑みを浮かべた。
「ようやく、私を視てくださったようですわね」
チ、チ、チ。
胸元で刻まれる銀の秒針。
「これより――七十二時間の第一楽章の始まりですわ」
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