第16話 遺跡の壁画
グレンヴェルド領の最北端――黒嶺山脈の断崖に穿たれた、古代遺跡『黒天の神殿』。
千年の風雪に晒された黒曜石の巨石門は、不気味な紫の燐光を帯びて微かに脈打っていた。
普段は強固な古代結界に閉ざされていたはずのその門が、いまや中央から大きく両断され、冷たい瘴気混じりの風を外へと吐き出している。
「……外から剣や大砲で叩き割られたんじゃねえな」
ガルドが崩れた門の断面に手を触れ、眉をひそめた。
「内部から膨れ上がった膨大な魔力の圧で、硝子みたいに内側から弾け飛んでやがる。……お嬢さん、気をつけて進めよ。足元の防衛回路も過負荷で焼き切れてるが、何が残ってるか分からねえ」
「ええ、警戒を怠らずに参りましょう」
私はドレスの裾をつまみ、神殿の入り口へと足を踏み入れた。
背後からは、聖杖の灯りで暗闇を照らすミリアが続く。
「大聖堂の古文書でも、ここは『禁忌の調律地』として立ち入りが固く禁じられている場所です……!」
神殿の回廊には、砕け散った真鍮の天秤や、歪んだ巨大な調律の振り子といった古代の観測機器が散乱していた。
足音だけが静かに木霊する中、私は黒曜石の床タイルに意識を向けた。
(……この床。微弱な三拍子の魔力流動が、奥へと向かって刻まれていますわ)
床の拍に導かれるように回廊を抜けると、そこは神殿の最奥――巨大なドーム状の円形広間だった。
「……見てください、エルセリア様!」
ミリアが息を呑み、広間の正面に掲げられた巨大な壁画を聖光で照らし出した。
そこに描かれていたのは――天地を揺るがす神話の光景。
空を覆い尽くす無数の魔獣と、その中心に座す、すべてを呑み込む漆黒の巨獣。
その前で、光り輝く剣を掲げる初代アルディア国王。
そして――国王の隣に立ち、黒い扇と懐中時計を手にして、巨獣に紫黒の調律を施す「夜色の髪を持つ女性」。
「これは……初代国王陛下と……まさか、ノクティスの先祖……?」
ガルドが目を丸くして呟いた。
「ええ。ノクティス家初代当主――エレナ・ヴァン・ノクティスですわ」
私は壁画の前に進み出た。
壁画の中央には、国王とエレナが交わした誓約の場面が刻まれていた。
大聖堂の見習いとして古代神聖語と古碑文解読の教練を積んできたミリアが、震える指先で銘文を辿り、読み上げる。
「『王国が栄えるほどに、人は罪を犯し、悪意を積み重ねる。その罪を喰らい、厄災として現世に顕現する器――名を《ヴォルグレイド》と呼ぶ』……」
「ヴォルグレイド……?」
ガルドが眉をひそめる。
「『初代国王は盟約を結び、ノクティスに永遠の役目を与えた。王国の罪を計り、天秤を合わせ、器が満ちる前にその毒を抜き続けること。――ノクティスとは、栄光の影に生きる【王国の裁定者】なり』……!」
ミリアの声が震えていた。
「大聖堂の歴史書には、そんなこと一言も書かれていません……! ノクティス家は建国以来、ずっと王国の罪を引き受けて、陰から国を支え続けてきたというのですか……!?」
「ええ。ですが父は……そして今の王都は、その本来の役目を忘れ去りました」
私は胸元から、父から手渡された唯一の遺産――銀の懐中時計を取り出した。
裏蓋に刻まれた、歪な天秤の紋章。
その瞬間だった。
キィィィィン……!
懐中時計が甲高い共鳴音を上げ、白銀の燐光を放ち始めた。
呼応するように、壁画に描かれたエレナの手元の時計が輝き、円形広間の床一面に巨大な調律陣が浮かび上がる。
時計の秒針が、激しく回転を始めた。
チ、チ、チ、チ、チ――!
「うわっ!? 時計が光ってやがる!」
「結界の魔力と共鳴しているのですわ……。この神殿は、かつて先祖がヴォルグレイドの余波を調律するために築いた観測所。……いま、その結界が破れたということは」
私は手元の懐中時計をそっと撫でた。
除籍を告げた時の父の冷淡な瞳。保身のために伝統を捨て、娘を追放した実家への冷え切った諦念。
だが――この時計を受け継いだ以上、天秤の清算から逃げるわけにはいかない。
「王都の地下で……二百年間、誰も毒を抜かなかった『器』が、ついに許容量を迎えたということですわ」
――ドクン。
遠く、何百キロも離れた王都の地下から、大地を伝って届いたような不気味な胎動。
秒針がピタリと止まり、懐中時計の蓋がパチンと閉じた。
「……王都が、壊れますわね」
静かな私の呟きに、ガルドとミリアは戦慄して息を呑んだ。
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