第1話 「美術室の聖域」
僕は反射的に、椅子をガタつかせて一歩下がった。
心臓が警鐘を鳴らす。
パーソナルスペースを土足で踏み荒らされたような感覚に、喉の奥がヒリついた。
「そ、その…っ、近い……から」
喉の奥から絞り出した声は、自分でも驚くほど細く震えていた。
しまった、と思った時にはもう遅い。
こんな拒絶の仕方をすれば、普通なら不機嫌になるか、鼻で笑われるかのどちらかだ。
けれど、天馬くんは「あっ」と小さく声を漏らすと弾かれたように身を引いた。
そして、気まずそうに金髪の後頭部をがしがしと掻く。
「ごめん。俺、距離感バカっつーか、近いってよく言われるんだよな」
彼は苦笑いを浮かべながら、僕が威圧感を感じない距離まで、ちゃんと言葉通りに離れてくれた。
怒鳴られない。
馬鹿にされない。
暴力的なまでの「正論」で僕を傷つけたりもしない。
その当たり前の配慮に、毒気を抜かれたような思いで立ち尽くしてしまった。
「えっと、水瀬だっけ?」
「…う、ん」
「俺、天馬結翔。一応、同じクラスなんだけど…」
「そ、それは……知ってる。…というか、知らない人、いないと思う」
自嘲気味に呟いた言葉は、本心だった。
天馬結翔
その名前は、一ヶ月も経てば嫌でも耳に飛び込んでくる。
休み時間のたびに彼の周りには自然と人の輪ができ、弾けるような笑い声が教室の空気を震わせる。
彼は太陽で、僕はその影に潜む何者でもない存在だ。
住んでいる世界が、文字通り違いすぎる。
「あはは、有名人なら光栄だわ。……でさ、もっかい聞くんだけど。水瀬って、どんな絵描いてんの?」
屈託のない質問。
けれど、その言葉は僕の防衛本能を鋭く刺激した。
途端に、肩が石のように強張る。
視線が、机の上に置かれたスケッチブックへと吸い寄せられた。
まだ描き途中の風景画。
放課後の窓から見える、燃えるような夕焼け。
そのグラデーションを、薄く色鉛筆で何度も重ね、納得のいく色を探していた。
────見られたくない。
内面を覗き見られるような恐怖に襲われ、考えるより先に体が動いた。
僕はひったくるようにスケッチブックを抱え込み、胸元に隠すようにして丸まった。
「あ」
天馬くんの短い声が、静かな美術室に響く。
やってしまった。
脳裏に、中学の頃の冷ややかな視線がフラッシュバックする。
『感じ悪い』『自意識過剰』。
そんな言葉が、彼の口から今にも飛び出してくる気がして、僕はぎゅっと目を閉じた。
謝らなきゃ。
嫌われる前に、これ以上攻撃されないように、謝らなきゃいけない。
「ご、ごめ……っ」
「ん?」
「ち、違くて…その、見せるようなものじゃ、ないから……っ、ごめん」
焦れば焦るほど、言葉はもつれて、支離滅裂な音の塊になって零れ落ちる。
どうしよう、とパニックになりかけた僕の視界で
天馬くんがふっと力を抜いたように笑う気配がした。
「そっか。…もしかしなくても水瀬、人に見られるの苦手なタイプ?」
「……っ」
あまりにも正確に心臓を射抜かれ、言葉を失う。
僕が金縛りにあったように固まっていると
「あ、恥ずかしかったら無理って言ってくれればいいし」
「……え?」
予想外の言葉に、思わず顔を上げる。
天馬くんは、僕のスケッチブックを無理に覗き込もうとする素振りさえ見せず
近くの机の角にひょいと腰掛けた。
拒絶されたことを気にする様子もなく、ただそこにある空気に馴染むように。




