プロローグ 「無くした絵心」
窓際の席は、嫌いだ。
春の陽光が容赦なく降り注ぎ、埃の一つひとつまでを鮮明に暴き出す。
そこは、クラスの「主役」たちが陣取る特等席で、僕のような人間にはあまりに眩しすぎる。
視線が集まりやすく、無防備な背中を晒さなければならないあの場所は、僕にとっての死地だ。
それに、ぼんやりと外を眺めているだけで
「何を考えているかわからない暗いやつ」というレッテルを貼られている気がして、落ち着かない。
だから僕は、いつも教室の隅にいる。
黒板の端っこさえ見えにくい、中心の笑い声から最も遠い場所。
一番後ろの端。
そこなら、誰とも目を合わせなくて済む。
壁の冷たさを背中に感じながら、世界から切り離されたみたいに、静かに息を吸うことができた。
僕の名前は、水瀬 聖
高校に入学して一ヶ月が過ぎた。
クラスの雰囲気は、決して悪くない。
むしろ、周囲は驚くほど穏やかで優しい方だと思う。
消しゴムを拾ってくれたり、たまに声をかけてくれる人だっている。
でも、“友達”と呼べる人は一人もいなかった。
……いや、違う。
作ろうとしなかったし、作れなかったんだ。
誰かが遠くで笑っているだけで、自分の失敗を嘲笑われている気がする。
廊下で少し大きな声が響けば、びくりと肩が跳ねる。
派手なアクセサリーをつけ、自信に満ちた足取りで歩く人が近くを通るたび
肺の酸素が薄くなって、心臓が痛いほど脈を打つ。
中学の頃の記憶が、今でも毒のように全身を巡り、眠りの淵で夢に見るから。
『描いてる暇あったら少しは人と喋れよ』
『キモ。陰キャのくせに芸術家気取りかよ』
『何黙ってんだよ。目合わせないの感じ悪くね?』
ガサリと音を立てて床に落ちた、僕の全てだったスケッチブック。
土足のまま無造作に踏みにじられる、白い紙。
ビリビリと心を引き裂くような、紙が破れる音。
それをBGMにして響き渡る、無邪気で残酷な笑い声。
あの日から、僕は人と目を合わせることが全くできなくなった。
自分の内側をさらけ出す「絵」を人に見せるのすら、死ぬほど怖くなった。
あんなに好きだったはずなのに。
ただ、好きだっただけなのに。
鉛筆を走らせている時間だけは、泥のような現実を忘れて、まともに呼吸ができていたのに。
だから、今の僕にとって、放課後の美術室だけが唯一のシェルターだった。
夕暮れ時の、オレンジ色に染まった静かな空気。
ツンとした油絵の具の匂いと、画用紙を擦る鉛筆の硬質な音。
ここには僕を判定する他人の目がない。
自分を殺さなくていい、唯一の居場所。
───そう、思っていた。
「え、水瀬って美術部だったんだ」
背後から降ってきた、弾けるような声。
その瞬間、心臓が跳ね上がり、呼吸が止まった。
ゆっくりと、錆びついた機械のように振り返った先にいたのは、一人の男子生徒だった。
窓から差し込む西日を背負って、金髪が眩しいほどに光っている。
背が高く、制服のシャツのボタンをいくつか開けた着崩し方も
僕とは正反対の「自由」を象徴しているようだった。
いつも誰かに囲まれて、教室の中心で眩い笑みを振りまいている存在。
クラスのヒエラルキーの頂点に君臨する、もっとも“陽”に近い人間。
天馬結翔くん。
僕がこの世界で一番、苦手なタイプだった。
「なに描いてんの?」
彼は拒絶の壁なんて見えていないかのように、当たり前みたいな顔で距離を詰めてくる。
彼の纏う、柔軟剤と石鹸の混じったような爽やかな匂いが鼻をくすぐる。
反射的に、身構える。
───怖い。また笑われる。
バカにされる。否定される。
隠さなきゃ、見られちゃいけない。
最悪のシミュレーションが頭を埋め尽くし、指先が凍りついたように固まる。
何も言葉が出てこない。
ただ、冷たい汗が背中を伝った。
「……ちょ、水瀬?聞こえてる?」
返事のない僕を不審に思ったのか、彼はひょいと顔を覗き込んできた。
けれど、そこに嘲笑の色はなかった。
困ったように眉を下げ、少しだけ不安そうに、けれど温かく揺れる瞳。
その顔は、僕が抱いていた
「悪意に満ちた陽キャ」という予想とは、どうしてか決定的に違って見えた。
差し出された光が、あまりにまっすぐすぎて。
僕は手に持っていた鉛筆を、ただ握りしめることしかできなかった。




