【生きることじゃなくて、生きてもらうことが大事なんだ。そのひとこと、ほかのいくつかと一緒に 書き留めておかなくちゃ。】 4
オレンジ色の光が、チリチリと斑に陰っている。直ぐ隣のマンションの明かりは白かった。パリのように、外灯の色くらい統一すればいい。しかし住宅街の通り道に、統一感を求める方が間違っているとも思った。
エマの家から自宅まで、徒歩では30分以上かかる。電車に乗った方が早いが、アパートを出て月明かりに照らされると、電車はあったがなんとなく歩いて帰ってみたくなった。
もう夏休みだ。この一週間は色々な女の子に会いすぎて、誰と何をしたのか、記憶が混ざり合ってしまいそうだ。歪な三角形のカフェで一緒に居たのは、なんて名前の子だっただろうか。エマとキョウカ以外は、デートをするだけの関係だから記憶に残り難い。
ゲルマンの慣習法について期末試験は上手くいっただろうか。江戸川乱歩研究の教授に聞き忘れたことがあった。ユキのこともあって、レポートにだって集中して取り組めなかった。
「酷い光害だ……」
空を見る。どうせ星なんてオリオン座と幾つかの一等星くらいしか見えないから、見つめるのはいつも月ばかりだ。その月も、夜道を照らす外灯たちのせいで陰っているように見える。
外灯には蛾が群がっている。蝶かも知れない。人間の美醜の判断で別けられる彼らは、自分たちのことをなんだと思っているのだろうか。蝶は蛾の翅を美しく思い、憧れているかも知れないし、蛾は蝶の翅を疎ましく思い、貶しているかも知れない。
光に群がる虫たちを、アオイは物悲しく見つめた。彼らは平衡感覚がない。しかし空中にある様々な力に晒されながらも自らを見失わず、空を飛び続けることが出来るように背光反射という能力を身につけた。光を上と認識することで空での自由を獲得したのだ。しかしそのせいで、夜には外灯などの光に吸い寄せられ、光を背にして飛ぶ性質のせいで脱出も出来ない。自由の為に手に入れた力が、結果として彼らを光に閉じ込めたのだ。
自分も、光に閉じ込められている。とても強い、どんな星の光だってかき消してしまうような月光に。
月を見ても、天使を想う。彼女はあの、兎が住んでいそうな星が好きだった。月を綺麗に思った日には、それを共有しようとぼやけた写真を送ってくれた。彼女にとって月は常に綺麗なものだったから、とても多くの写真を貰った。それを見ると、アオイも直ぐに外に出て月を見たくなった。けれど本当は、彼女と同じものを見つめていたいだけだった。
『直ぐに見に行ってくれるところが好き。普通はね、言っても見に行ってくれないよ?』
『そうなの?』
『そうだよ。せんぱいは、特別だね』
美しい月夜を教えてくれる君の方が、よっぽど特別だ。君は今も、あの月を見ているのだろうか。もう写真は届かないけれど、それでも写真を撮り続けているのだろうか。
君を背にしないと、どこにだって飛ぶことが出来ない。スタートラッカーを見失った衛星だ。正解も間違いも、上下だって分からなくなる。オレは今、どこを飛んでいるのだろう。君に向かって飛ぶことも出来ないオレは、どこに向かえばいい。
「…………はっ」
息が零れた。悲観している現状にではなく、眼前の生き物に。
そこには、一匹の獣がいた。
月光の夜がとてもよく似合う――――真っ黒い毛並みの狼が。
不思議な見え方だった。外灯の下にいるというのにその体躯は薄暗く、ぼんやりとした影のようだ。けれど黒々としている瞳まで、確りと視認できる。そして、その見え方の異常性に気付く。
外灯の光が、身体に反射していない。その狼の姿を映すのは月明かりだけだ。人の作り出した光を否定するように、自然光でしかその姿を見ることが出来ない。
動物園から脱走した、なんて考えはその時点で否定されていた。それに体高が一メートル以上ある。最終氷河期後に絶滅したダイアウルフを思わせるサイズと、影から生まれたような黒さが、それがこの世のものではないことを直感に伝えてきている。
巨狼が、空間を震わせるように低く唸る。鉛色の牙を剥いて、その敵意を明確に自分に向けてくる。
くしゃみをした時のように、瞬間的に身体が冷えた。およそ都市で生活する現代人には決して経験することのない、原初の恐怖が全身を突き抜ける。産毛が逆立ち、筋肉が硬直する。瞳孔が開き、死を感じた中で初めて風というものが視認できた気がした。
アオイは走った。昔から、脚は速いほうだった。しかし致命的なことに、それはチーターのような俊敏さであって、持続的な速さではない。また犬猫にさえ勝てない人が、異界から湧き出てきたような狼に走って勝てる訳もない。
だが呆然として噛み殺されるという選択肢なんて、生存本能を持つ人間には受け入れられない。アオイは数ヶ月前から常に絶望の渦中にいるような気分だったが、それでも死にたいと思ったことは一度としてなかった。自殺が出来る人間は人殺しより勇気があると思っている。
転ぶ。右腕からアスファルトに倒れ、ジャケットを腕まくりして七分袖にして着ていたために肌が擦れ、ヒリヒリとした痛みを感じた。
「アァッ……」
遅れて、牙が筋繊維を貫いていく痛みに気付かされた。脚が縺れたのではなく、噛みつかれたのだ。蹴り飛ばそうと身体を仰向けにして巨狼を見れば、その牙が左足首に突き刺さっているのが分かる。
叫んだのは、痛みからではない。身体の中に鋭い牙が入り込んでくる感触が不気味なほど鮮明に伝わってくるのに、腕の擦り傷の方が痛覚を強く訴えている。悍ましいのは、自分が作り替えられていく感覚があったから。
噛まれた足首が、変形していくのが分かった。恐らく、巨狼と同じ狼の脚へと。骨が軋み、筋肉が大地を駆ける獣のモノへと変異していく。感染症のようだと思った。この巨狼は元は人間で、吸血鬼やゾンビのように噛みつくことで仲間を増やす。いま自分を蝕んでいるのはいつか人狼病とでも呼ばれるような、獣の病なのだと。
死なない。そう分かっただけで、体中の筋肉が臨戦態勢を解いていくのが分かる。脳はリラックスし、極限の集中状態のなかにあるように思考が冴えている。
オレは、このまま狼になるのだろうか。
まだ幼稚園の頃、人生で最初に読み聞かせられた小説のことを思い出す。記憶の中ではムラサキ先生と呼んでいた、とても綺麗な女性から、シートン動物記の狼王ロボを聞かされた。アオイは、その物語がとても好きだった。高潔な狼の王と、その恋人の恋愛譚に心奪われた。将来の夢に狼と書き綴り、満月を見ればベランダに出て遠吠えの真似をした。もしかすれば目の前の巨狼は、そんな幼い頃の願いを、今更ながらに叶えに来てくれたのかもしれない。
最近その小説を読み返したからなのか、余計にそう思う。今は家にも手元にない。また買うしかないのだろうか。確かあの本は、ベッド――――
「――――ニードルスのパンツか。穴を開けるにはいいブランドだ」
殆ど真横から、声が聞こえた。聞いただけで自信家なのだと分かるような、空気が張ったような声だ。
「仲良くしようぜ、ブラザー。俺たちは、とても稀少なんだ」
巨狼が吹き飛ぶ。風がアオイの身体を地面に押しつけるように乱吹き、巨狼との間の空間が破裂したように感じた。
男がいる。恐らく、自分と同じような歳の。神々しいまでのエネルギーに満ち、ギラギラとした輝きを持つ双眸を見せつけるようにアオイを見ている。
絵画の裏地が派手なテーラードジャケットに、色味の違う黒いスーツパンツを履いている。自分と同じくらい白い肌と、ワックスで整えられているが毛先を遊ばせている煌めく黒髪。左側の前髪だけ紫色に染められている。
「お前、分かってないタイプか。珍しい奴だ」
返事に詰まる。巨狼が出たときより、男の登場の方に驚いている。何故か、彼が此処に現れたことの方が違和感があるように感じてしまう。
巨狼が唸る。吹き飛ばされて、気絶してくれるような生き物ではない。その唸り声からはアオイをどこまでも、地獄にだって追ってきそうな気迫があった。
牙が抜けた脚からは、血が出ていない。それに獣化も止まり、人の脚に戻っていっている。アオイは立ち上がると、巨狼と対峙している男を見た。
「なに、君……」
「巌窟王」
アレクサンドル・デュマの小説が浮かぶ。彼はモンテクリスト伯と名乗った。しかし復讐鬼には見えない。だがファリア神父の財宝は持っているように見えた。
「走れそうか?」
彼が尋ねた。友人にするように気軽に。やはり、エドモン・ダンテスらしくはない。
「まあ……」
足首を回す。痛みはなかった。
「狼との追いかけっこだ。なかなか出来る経験じゃない」
口元を歪めるようにして笑うと、また風が吹く。空間が弾けたような強風に、巨狼が後ずさった。そして巌窟王を名乗る青年とアオイは、それを追い風にして走り出す。
彼の後を追った。この辺りの道に詳しくはなかったが、大通りに近づいて行っているのは分かる。助けを求めた方が良いのだろうかと考えているうちに、24時間営業のコンビニを通り過ぎ、深夜とはいえまばらに人がいる駅前に出た。
「行きたい場所はあるか?」
時代から取り残されたように佇む電話ボックスの前に立って、彼はそう尋ねた。
少しだけ迷ってから、暗喩的に言う。
「……月」
「ハッ! クールな答えだ」
快活に鼻で笑うと、彼はアオイの腕を掴んで電話ボックスに押し込み、自分も入ると扉を閉める。自分たちを閉じ込めるみたいに。
巨狼の姿は見えない。しかし、どうしてかあの獣が自分を諦めるようには思えなかった。
駅構内にでも逃げ込めば良いのに、何故こんな逃げ場のない電話ボックスなどに入ったのか。アオイは彼に尋ねようとして、浮遊感に包まれて、それを辞めさせられた。
「――――《ショーシャンクの空に》」
誰もが知る映画のタイトルが聞こえて、視界が切り替わる。世界から取り残されたような浮遊感は刹那のうちに終わり、開放感と共に足がコンクリートの床に付いた。
「……なに、これ」
夜が消え、光が空を青く覆っている。太陽が早起きしすぎた訳でなければ、自分は緯度経度のまったく違う何処かに、瞬きの合間に移動している。
隣に三角屋根の巨大なビルが見えた。周囲を見れば、高層ビルが幾つかと、巨大な橋がかかった川と、その先に海がある。砂浜は白く、何処かのリゾート地のようにも見えた。ここは高層ビルの屋上なのだろう。
「タンパだ」
彼が言った。とても完結な答えだった。
「シャレた奴……」
さっきまで日本の電話ボックスの中にいたというのに、此処はフロリダの都市なのだという。言われてみれば空気はアメリカのもので、見えている海はメキシコ湾な気もする。
月に行きたいと言ったのにこんな場所にいるのは、恐らくジュール・ヴェルヌのせいだろう。ヴェルヌの月世界旅行において、登場人物のアルダンらは巨大なコロンビアード砲で月に打ち込まれる。その大砲が建造されたのが、低緯度にあるこのフロリダ州タンパなのだ。もっとも、彼らは月にたどり着けなかったけれど。
「君って、瞬間移動とか出来る人間?」
一連の出来事は、アオイの中でジャンパーという映画を想起させた。瞬間移動能力者たちが追われるストーリーだ。
「ほぼ正解だ。だがまあ、違うと言えば違う」
目元に掛かった紫色のメッシュを掬うように掻き上げてから、青年は天頂にはまだ遠い太陽を背にする。影がアオイの足下に結びつくように伸びた。何故か、彼の影は紫色をしているように見える。
「俺は、そうだな……理力を使えるのさ。ついでに言えば、お前も、さっきの狼もな」
彼は、背を反らせるほどに天を仰いだ。あのショーシャンクから脱獄した時のアンディのように。
「いつだって、脱獄は気持ちが良い。お前は死から脱獄した。この先は自由だが、どうする。観光してくか? それとも、夜に帰るかい?」
月光と、巨狼と、黒と、獣の病と、風と、電話ボックスと、瞬間移動と、理力と、紫の影を持つ青年。
センテンスが多すぎる。纏まりのない文脈だ。
けれど、退屈な話しとは違って――――頭痛はしない。




