『週に一日僕は――ない、でもそれが何曜かは誰にも言わない。先週は木曜だったろ?』 1
「せんぱいって、どうして怒らないの?」
「怒ると■■が泣くから」
天使は、とても短気だった。着たい服がないと怒り、意見を否定されると怒り、アオイが自分以外の話しを楽しそうにすると怒った。そしてとても涙もろかった。アオイが他の女の子と話すと泣き、髪の毛の巻きが上手くいかないと泣き、それほど感動的ではない映画を見ても泣いた。そんなところが好きだった。
どんな短所も、彼女の魅力だった。それに天使は精神的にまだとても幼いから、成長すれば改善すると信じていた。イライラしていると先輩を傷付けちゃうからと、必死に直そうとしてくれる彼女が好きだった。
「どうして、■■ってイライラしちゃうんだろう」
「この前買ったっていう、イライラしない方法って本はどうだった?」
「それを読んでたらイライラした」
もうどうしようもないと思う。けれど、それでいいとも思った。感情的ではない彼女は、とても無気力に見えてしまうかも知れない。
「ゆっくりでいいよ。直るまで見守るね」
「じゃあ、一生直らないかも」
「どうして?」
「イライラ直っちゃったら、見守ってくれないんでしょ?」
そんなことを、よく言ってくれる子だった。とても白くて、清廉で、我が儘な恋だったのだろう。
天使はすぐに心が不安定になって、考えてもどうしようもないことで何時間も病んで、そんな自分が嫌いだと言っていたけれど、そんな君が好きだった。どんな君でも、好きだったのだと思う。
力になってあげたかった。もっと、支えてあげたかった。隣にいてあげないと、この子は死んでしまうと思っていた。
「一生、そばにいて」
「ずっと、そばにいるよ」
――――ずっと、ずっと……君の隣にいたかった。
「映画は良い。最高に文化的な経験を、映像っていう媒体で見せてくれる。盲者ほど哀れみ深い障害者はいないと思うが、音と説明だけで映画を見るっていうのも経験してみたくはある」
二杯目のカフェ・オ・レが運ばれてきて、取っ手のない湯飲みのようなカップを持って一口飲む。とても片手では持てないくらいに熱い。
もう何度目なのか、シザキと名乗った青年を盗み見るように観察する。カフェ・オ・レの水面に映して見ようとしたが、ミルクが邪魔してそれは叶わない。彼の白い首筋には細長い傷があって、それは紫色に変色しているように見えるが、痛々しいというよりは禍々しい傷だ。彫りの深い顔立ちと薄ら寒くなるようなニヒルな笑みが相まって、見れば見るほどに若手の詐欺師のようで胡散臭いが、夜露のように色気のある男だった。
静謐に飲まれるような美術館の中庭。そこに佇んでいる小さなカフェで、二人は他愛のない話をしている。それは、これから行われるスーパーナチュラルな会話をする為のジャブのようなものだった。シザキにではなく、アオイには準備が必要だ。超能力がどうこうなんて話題は、アマチュアのジャブからヘヴィ級のボディブローのような代わり映えなのだから。
「小説は?」
アオイは尋ねた。彼は文学にも造詣が深そうであったから。油を差したばかりの歯車のように、またシザキの舌が回り出す。
「それも素晴らしい。文学は文明的贅沢だ。古代ローマ帝国はなぜ繁栄したのか、文字で記録を残したからだ。人類史の頁を少し捲れば、歴史を記録する国や民族の方が少なかったと分かる。そんな文字を、芸術と娯楽の為だけに使い潰す。クレイジーだ。ああだが、ロシア文学だけは認めないぜ? あれは読み難さを追求したものだ。アヴァンギャルドも意味が分からん」
「ドストエフスキーなんか、好きそうなのにな」
「愛してる。俺もシベリアに行った暁には穴を掘って埋めるだけの作業に従事したいね」
支離滅裂なのに、耳馴染みが良い。シザキは、そんな話し方をする青年だ。この2時間ばかりの会話で分かったのは、彼の言うことには一貫性がないように見えて、その実とても堅固な思想を纏っているということだ。
「次は、俺からの質問だ。お前の名前が知りたい。書き方も含めてな」
シザキはアオイの芯を捉えるように真っ直ぐ見つめながら、カフェ・ノワールを一口飲んだ。そして一流のホテルマンのサービスを受けた後のように満足した表情で、勿体ぶった動作でカップを置いた。
アオイは迷う。思案に暮れる程でなかったが、答えるには僅かばかりの逡巡が必要だった。そして彼がデスノートを持っていないことを祈ることにする。
「タケウチ・アオイ。アオイは、蒼穹のソウに皇帝のコウ、伊太利亜のイだ」
「蒼い皇帝の伊達男ってことか? お前の名付け親は息子に何を期待してたんだ?」
「ライガも大差ないだろ。雷の牙って、なんで君はその名前で雷を操ったりする能力者じゃないんだ」
もしかすれば操れるのかも知れない。それも紫色の雷を。
そんなアオイの想像を的外れだと指摘するように、シザキは口元で指を振る。左手の薬指にプラチナのソテールリングが見えた。
「ギフトネームで能力が決まるかよ。あれは親からの贈り物、最初の愛だ。俺たちのこれは、また違ったギフト。神がいるなら、そいつからのな」
シザキはテーブルの中央に置かれている正方形のガラス瓶から角砂糖を二つ摘まむと、拳の中にしまいこむように握り潰す。ザリッ、という砂糖の荒い粒同士が擦れる音がする。イリュージョンでも始まりそうな所作だったのでその手に注目していたが、彼が手を開いてもそこに砕けた角砂糖の姿はなかった。
「それ。理力って言ってたけど、そう呼ばれてるのか」
消えた角砂糖の居場所を教えてくれるように、カフェ・ノワールの入ったカップをマドラーでかき混ぜ始めたシザキは、「さあな」と小さな笑みを浮かべながらに言った。
「総称としての呼び方は決まってない。決めようって奴もいないからな。天が与えた二物ってことで、セカンド・ギフトだとか呼んでる奴がいたが、そのくらいだ。別に異能力でもスーパーナチュラルでも、ザ・ヴォイスでもシャイニングでもいい」
シザキはカップに掌でそっと蓋をした。湯気を掴むように拳を握って蓋を外せば、カップの中には何もなくなっていた。木のテーブルを貫通して落ちていくカフェ・ノワールを想像して、長テーブルの下を見る。そこには白く大理石のような床が、その輝きで清潔さをアピールしている。シザキは自分で消したくせにそれが不満だったのか、微かに左眉を上げると側にいた店員に、「Je voudrais la même chose」と片言の外国語で言った。アオイにはそれがフランス語ということくらいしか分からなかったが、恐らく珈琲を注文したのだろう。
「この国はいい。革命のせいで国民は直ぐにデモに走り、クリスマスプレゼントが買えないからと失業手当を増やすような国だが、コーヒーが美味い。カフェと注文するだけでエスプレッソを出してくれる優秀な店員しかいない。そしてアイスティーを憎んでいる。俺も憎んでいる。そこで気が合うのさ、あれは馬鹿とアメリカ人の為の飲み物だ。氷で味が不味くなる」
何かを褒めると何かを貶すことで均衡を取ろうとしているような言い草のシザキに、アオイは小さく溜息を吐いた。なぜ、能弁な奴ほど口が悪いのだろう。
「君、スターバックス嫌いだろ」
確信を持って尋ねると、シザキは口元を歪ませるような下手な笑みを見せる。
「大嫌いだ。一等航海士の方も気に入らないね。だがエイハブかピークォド号ならアイスティーだかフラペチーノがあろうと気に入ってたさ」
「仕方がない。しょんべん刑務所と勘違いされるのが嫌だったんだ」
pee quod(刑務所)と勘違いされそうな名前の店では、誰も珈琲なんて飲みたがらないだろう。
窓の外を見る。ガラス張りである為に庭がよく見えて、雑草のような草木が目立った。あの見た目で全て観葉植物なのだろうか。それとも単に手入れをサボっているのか。しかしそれらがどうでも良くなるくらい素晴らしいものが、エッフェル塔がよく見えるところだ。それに、とても静かなのも。
三角柱のような照明が三つぶらさがっている下に長テーブル、というセットがL字型に置かれている店内には、アオイとシザキ、そして珈琲とケークを出してくれる店員が1人しかいない。黒髪の白人である彼女が熱心な日本のアニメファンか何かでなければ、超能力どうこうと突拍子もない話を聞かれても問題がない良い場所だ。何より、ここがバルザック美術館の中庭というのが良い。晩年のバルザックが過ごした家、息を吸い込めば珈琲の香りがした。珈琲を活力に執筆活動を続けた彼に影響されて、自分もここで小説を書いてみたくなる。
「理力、輝き……異能力」
彼の力をなんと呼称するべきなのか、口に出して語感を確かめてみる。何故だか、どれも似合わないような気がした。現実にそれらの名称を使うのは、ジョージ・ルーカスとステーヴン・キングに申し訳ないからだろうか。
「なんなら、アオイが名付けてみるか?」
名称で悩んでいるアオイを気にかけて、シザキが提案した。
「……別に、名付け親になってまで呼び方を決めるつもりはない。あと、気安く名前で呼ぶなよ」
まだ彼が死神でないとは言い切れない。そんな雰囲気がある。ここがフランスで、バルザック美術館だからだろうか。最もバルザックの小説、ゴリオ爺さんの登場人物はラ・モール(死神)ではなく、トランプ・ラ・モール(不死身)だが。
しかしシザキは、アオイの突き放す言動にも笑顔を崩さない。
「お前もライガって呼べばいい。稀少な同胞なんだぜ、俺たち。それに、お前とは兄弟になれそうだ」
「兄と妹で満足してるさ」
「ハッ、義兄弟さ。血まで求めるのは、俺たちでも難しい」
難しいが、可能ではある。そんなニュアンスを含んだ言い方だった。瞬間移動が出来るのだから、血縁を書き換えられる能力者がいても不思議ではない、そう言っているようだった。
「シザキ。君の持つ異能力、どんなものなんだ」
突っ込んだ質問をする。自発的に話してくれるのを期待していたが、シザキは話し好きではあるが厄介な大学教授のように、生徒の気付きを待つタイプのようだった。つまりアオイは、彼にフォースだかシャイニングのことを尋ねなくてはならない。アオイが現在知っているのは、噛んだ相手を獣に変える巨狼と、風を起こし瞬間移動が出来るシザキの2人。その他にもいるのだろうか。
「シザキね……ふむ。まあいいさ、まだその時じゃなかっただけだ。俺は呼ぶがな」
ライガと呼ばれないことが不本意であるようだったが、いつまでも雑談に興じる訳にもいかず、シザキは話しを先に進める。
「俺の力は空間転移だ。日本からフロリダ、フロリダからパリって風に、世界中何処にだって跳べる。因みに世界ってのは太陽系第三惑星のことじゃない。やったことはないが、宇宙の何処へでも跳べるはずだ。まあ存在するならだが、宇宙の外にだってな」
「なんで分かる」
それは人間が、人類未到の山頂の登山ルートを、知っている状態で生まれるようなものだ。
シザキは両手の平を合わせて口元に寄せる。まるでイギリスの名探偵のように。考え事をするには最良に近いポーズだ。
「初めて力を使ったとき、それは発現したときと言い換えてもいいが……真理って奴を理解した気分だった。悟りってやつだ。その時、突然自転車に乗れるようになった子供のような感覚で、力の全てを知っていた状態になった」
それこそ超自然的な体験だったと、シザキは言った。
「なら、オレは君の同胞じゃないな。悟ったこともないし、空も飛べなければ手から糸も出ない。口が裂けて悪魔に変身できたりもしない」
言いながらも、試しに心ってものに話しかけてみる。お前に異能の力があるだろうかと。返答はなかった。我ながらつまらない検証だと鼻で笑う。
だがアオイを指さす前動作として、シザキは指を鳴らす。ウインクも追加した。
「だから、お前は珍しいのさ。珍しいってのは、今までアオイと似たようなタイプがいなかった訳じゃないからだ。1人だけ、同じように能力に気付かなかった奴がいた」
「君の他にも複数人いるみたいだけれど……いったい、世界に何人いるんだ。能力者は」
それはとても恐ろしい質問のように思う。自分が知らなかっただけで、世界は超能力者に溢れていて、視点を変えれば一般人が生活する裏で異能バトルが行われているのかも知れない。アメリカのドラマやライトノベルじみた話しだ。
「総数は把握していない。務めてはいるがな。確認してるだけなら、20にも満たない」
「少ないな……思ったより」
異能バトルを行うには頭数が足りなさそうだ。
「言っただろ、稀少だってな。まだ調査中だが、俺たちは最近になって現れた。発生原因は見えてこないが、ウイルスとか人の潜在能力だとか、そんな話しじゃない。俺たちはこの力をもっと局地的で、遺伝的なものだと睨んでいる」
「なんでそう思う」
「日本人だけなんだよ。能力者は」
耳を疑う。確かに言語なんかにも謎の残る民族ではあるが、超能力が備わっているなんて言っても、オカルト雑誌の読み過ぎたと一笑に付されるだろう。神の子孫を奉る最後の国家、そんな言葉が頭に浮かぶ。
「……確かめたのか」
「2年くらい、世界中を飛び回って同胞を探した。日本では二人見つけたが、海外では誰一人として見つけられなかった。転機は、2年前。相手の方から俺を見つけた」
「どうやって?」
「そういう能力者だった。世界の理から外れた現象が起こると、その位置が分かる。アオイとあの狼の現場に駆けつけられたのも、そいつのおかげだ」
待機していたのかと言うくらいピンチに駆けつけたシザキの登場に合点が行く。そんな能力者がいるのなら、確かに彼の呼ぶ同胞も見つけやすいだろう。
「そいつによれば、日本以外で力が行使されることが極端に少なかったらしい。で、俺を見つけた後は殆どなくなったんだとさ。つまり、そいつが感知していた海外の超常現象は俺の空間転移だったってことだ」
残りのほんの数例も、海外に行っていた日本人のものだったと、シザキは付け加える。
アオイは質問を吟味する。店員が新しいカフェ・ノワールを運んできたが、シザキはそれを泥水でも見るような目で眺めていたからだ。能力がどうこうの話しに飽きてきているように見える。全ての質問に答えてくれるのかも分からない今、質問の回数は有限だと思った方がいい。
「政府とかは、知っているのか。君みたいな存在のこと」
アオイからすれば非常に重要な質問だったが、シザキは普通の人間のことになんて興味がないと言うみたいに、「さあな」っと言った。
「知っていそうではあるが、俺にはそこまで分からないね。特務機関のエージェントに会ったことも、謎の男から電話が掛かってきたこともない。ジェームズ・ボンドやモーフィアスみたいな奴がいたとして、俺たちのことをまだ知らないのさ。それにジェラートを買いにローマに行き、麻婆豆腐の為に四川省に出向き、ガンダムを見るために横浜に跳んだりしてるが、現地人に不思議がられた事もない。当然だ。誰から見たって、俺は純然たる観光客に過ぎない。あの狼の能力者は、そうもいかないだろうがな」
言い終えて、シザキはカフェ・ノワールを飲む。砂糖は入れなかった。味わうというよりは喉の渇きを潤すように飲まれたカフェ・ノワールは、カチャリを音をたててカップが置かれたときには半分ほど無くなっていた。今度はどこかに転移された訳ではないらしい。
「アオイの方こそ、なんで他の能力者に狙われてるんだ? 力を使って人を殺す奴はいるが、同じ能力者を狙うなんてのは初めてだ」
「狼に狙われる覚えはない」
「通り魔的に偶然狙われるほど、俺たちの数は多くない。そこには何か、理由があるはずだ。当然、本当に偶然という線も否定はしきれないが、可能性としては前者が上回る」
記憶を探ってみる。しかし、狼に変身できる特異な体質の人間に恨まれるようなことをした記憶はない。何人かの女の子とは、噛まれるくらいは仕方がないような別れ方をしたが、彼女たちの中に人狼がいたのだろうか。そうだとしたら、アオイは命がけの人狼ゲームをしなければならない事になる。
「お前、女に刺されそうな見た目をしているが、身に覚えはないのか?」
「格好なんかは君と似たようなものだろ。シザキの方こそないのか」
「ないね。愛を誓ったただ一人の片割れがいる。更に言えば、俺の経験人数は二人だけだ」
抱いた女の数なんて覚えていない。そんな見た目をしてるくせに、想像の数千倍は誠実な奴だった。大抵の場合、人は見た目に寄るが、彼は違うようだ。
「そのもう一人が恨んでいるかもな」
皮肉気に言った。意地の悪い言い方だった。シザキは残ったカフェ・ノワールを見つめて、その黒々とした液体に映る自分ではない何かを凝視した。そしてさらりと、風のように言う。
「否定はしきれないが、もう死んだ。刺せやしない」
どうして死んだのか。理由と経緯が気になったが、そこまで尋ねられるほど彼と過ごした時間は長くない。エッフェル塔とシャンゼリゼ通りを見て回った時間を足しても、まだ四時間と少しだ。死者の話をするには短すぎる。
「……唯一無二か。その子」
だから、生きている方の話しをすることにした。
「ああ。代わりはいない。アイツが生まれたその時から」
「……無くさないようにな」
「どうした?」
殆ど反射的に出てきたアオイの言葉に、シザキは軽く首を傾げた。それは、アオイには似合わない言葉のように思えたのだろう。
「…………なんでもないさ」
彼に自分のことを話すにしても、四時間と少しでは短すぎる。




