最終手段・腹立ち・死
『どうしても獣が命令を聞かない場合、または乱暴さを失わずに街を襲い続ける場合、拳銃の使用を認める』というのを僕は脳に思い出していた。獣還師のルールの一つだ。最悪の状況の場合の最終手段――というものだ。
長時間の洞窟をようやく抜け、疲弊が縛りつけてくる足を堪えて僕は〈獣森〉の方へと突入した。真夜中の深森は、昼間の霧がかかった森よりも一段と深みを増しており、不気味さに充ちていた。まるで深海の底のようにその森の中は静寂に包まれており、冷えた空気が耳を通り抜けていくような音だけがしていた。
僕は鞄から拳銃を取り出し、その静寂に身を重ねるように音を立てず、歩みを進めていた。まるで小石を袋詰めされたものを無理矢理捻じ込まれているような僕の足はもはや限界の領域にひびを入れており、悲鳴を上げていた。
漆黒な深色をした樹がおびただしく聳えており、僕の視界を狭める。まるで何かの大群に狙われて囲まれたみたいに、僕は奇妙な視線のようなものをその樹たちから感じていた。暗闇に紛れて吹く冷風に樹が揺れ、葉が重なって擦れる乾いた音が耳を襲う。それに僕は驚き、自分が通常より誇張に意識が敏感になっていることに気づいた。
実に、忌々しい。正直僕は真夜中の〈獣森〉という場所に、心霊的な意味で恐怖を覚えているのだ。身を震わせ、僅かな物音にも敏感に反応してしまう。樹の呼吸だけでも、それがまるで霊的な何かが僕をさげずむように僕は捉えてしまい、安堵の息を洩らすと同時に魂まで抜けてしまいそうなほどの深い溜息をつくのだ。
僕の神経は、漆喰の壁に無理矢理擦りつけられてるみたいに、粗く削られていった。恐怖心だけが積もり、精神はみるみる崩壊されていった。
荒い喘ぎが僕の耳元を支配していた。それは僕の上がっている息だった。戦慄で肺が強張り、空気を送り込むのが難しくなっているのだ。足も刻々と重みを増していき、疲労が圧し掛かる。辺りを漂う暗黒をどれだけ厭おうが、そこに光が差す気配は毛頭と無い。
なぜ僕はここにいるのだろう? と僕は自分の言動に後悔せざるを得なかった。あれで解決――暫定的ではあったが――したではないか。それなのに、なぜ僕はここにいる? わざわざこの暗黒の中を彷徨っているのだ?
そこはかとなく歩みを続けていると、何か硬い物――まるで果物のようなもの――を叩き割るような鈍い音がした。当然のように僕の針山のように尖った神経はそれを捉えるのだが、気のせいだと決めつけた。そうであってほしい、という僕の恐怖心からの切実な願いだった。懇願する。しかし、それは気のせいではないようだった。
その鈍い音は、幾度か耳元を襲った。それは余韻を残すような甲高いものではなく、硬い皮をまとった果物のようなものを叩き割る音だ。その真実を僕は洞察できることができなかった。
戦々恐々とする足を躊躇いが襲う。これ以上は危険だと、無意識に僕の脳が指示しているのだろう。しかし、ここでやめるわけにはいかなかった。ここでやめれば意味がなくなるのだ。僕は鎖を巻いているように鈍重な自分の足を必死に前へと踏み出した。
やがてその影が見える。
誰かが、何かを叩き割っている。誰かは見当がつかないが、それは人間の姿だと確信した。曖昧な影ではあるが、棒を勢い良く振り下ろす人の姿だと一目見ればわかる。僕以外にも、この森の中に人間がいたのだ。僕は竦みそうになる足を堪える。力を込めて地を強く踏みつけた。拳銃を震えながら構える。一歩ずつ、歩みを再開させた。棒を振り切る人の姿は、どうやら男性らしかった。まるで薪を斧で両断するみたいに必死に棒を振り下ろしていた。
闇が徐々に剥がれていき、その姿が露になっていく。輪郭が正確となり、体格が確認できた。僕は目を凝らす。目を細めて、視界を狭めた。そこで僕は驚愕した。「え」と僕は思わず声が洩れた。意味がわからず、状況が判断できずにいるのだ。整理が追いつかず、あらゆる物が整頓されてまとめられていた棚が引っくり返ったみたいに、僕の脳は散乱した。
そこには、必死に僕たちが撒いた食料を叩き潰している〈森の図書館〉の青年の姿があったのだ。
夢かもしれない。そんな漠然とした希望を抱いて、僕は可能性を考えてみた。そんな可能性は毛の先程もない、と一蹴される。僕にはまるで理解できなかった。
青年はやみくもな素振りで食料らを叩き砕いており、その顔はまるで道幅で蟻に食われている虫の死骸を見るような目つきをしていた。肌に戦慄が走り、僕の心は氷をまとった拳で何発も殴られたみたいに不規則な強張りを覚えていた。痙攣を催し、視界が正確に定まらない。
――しかし、原因は掴めた気がした。彼が何かをしているのだ。獣に害のある樹を植えたりなどの行為をしているのだろう。彼はまだ僕には気づいていないらしかった。僕は止め処なく震える手を両手で支えあいながら、拳銃を握る。慄く足を踏ん張り、定まらない視界――曇り空みたいにそれはぼやけている――に向かい、声を上げようと試みた。
「な、何をしてるんだ!」と僕は大声で言った。それはぎこちなく上擦り、裏返っていたかもしれない。
青年は手を停め、僕の方へ目をやった。「ああ、いたんですか」
「そ、そこで何してんだよ」と僕は語勢をきつくして訊ねた。銃口を青年の方へと向ける。青年はつきつけられた拳銃を一瞥し、「わお」と余裕な笑みを浮かべて言った。
「何って、見たとおりです。あなたらがいらない事をしたから始末してるんじゃないですか。全く、余計な事をしますよね。わざわざこの森に入ってまで」
「何を企んでるんだ」と僕は震えた声で訊ねてみた。定まらない銃口を誇張して向けながら。
「企む? 違いますよ」と青年は言った。「正直、自分は動物というのが嫌いなんですよ。見ているだけで腹が立つし、不愉快だ。なのに小動物らが毎日のように自分の家に来るもんだから、殺すしかないじゃないですか。ところで獣がのたうちまわりながら死んでいくのって見たことありますか獣還師さん? どれだけ人間よりも巨体だろうと、無力なものですよ。あいつら」
青年は息を一度吐き、再び話を続けた。僕は唾を飲む。拳銃を落さないように注意する。
「すこし話が変わりますが、自分は今のこの国の制度に腹が立って仕方ないです。どうして獣なんかの為に人間が住む街を削って譲らなきゃいけないんだ? と思います。自分はまるでわからない。しかも街を二つも譲ってやったのに獣たちは人間達に何か良い事をするのか? 御返しとやらをするのか? 何もしないじゃないですか。さらに獣はそこに不満が生まれれば〈人間街〉に現れ、街を荒らしたりと………。
そんな奴らのために居場所を作る人間らも自分にはわかりません。何が平和だ。獣還師さん。自分は思うんですけれど、完全な「平和」というのは存在しないと思うんですよ。人間という生き物がいる以上、この世界は平和にはならない。あなたのような人もいれば、自分のような人間もいるんですよ。わかりますか?」
「悪いが、僕には君の思考がわからない」と僕は言った。
「だから、そういう話をしているんじゃないですか。人間は一人一人違うからね。争いも起こるし、幸福の数だけ不幸が起きる。そういうことですよ」
「それでお前はなぜ獣を殺すんだ」
「腹が立つから、て言ってるじゃないですか。自分はこの森のように、獣たちだけの居場所を与える人間達の思考が理解できないんです」
「居場所を与えているのに獣たちは人間達に良い行いをしない。だから殺しても構わない、と君はいいたいのか」
「おおまかにいえばそうですよ。なんか、見てて殺したくなるんですよね。何もしないくせに優雅に飯食って、飯が足りなくなったら人間らを襲って。自分勝手というか、調子に乗っているというか。自分は獣というのは存在しなくても良いものだと思ってますよ」
そんな事を偉そうに言うお前の方が自分勝手だ、と僕は思った。青年の口調が徐々に荒くなっている。青年は息を飲み、さらに続けた。
「だから殺すんです。鋭利なナイフで切り刻んだり、生きたまま燃やしたり、毒入りの果実を食わせたり。何せ獣らは馬鹿ですからね。ほいほいとついてくるんですよ。そして自分が騙された、という事にもわからずもがき苦しむんですよ」
「狂っている」と僕は本心から呟いた。もはや、狂気を覆っている。僕は拳銃の引き金に指を回した。生かしておけない。「お前は、生かしておけない」
拳銃の引き金を引く事は、今じゃ簡単なことに思えた。僕はとてつもなく腹立ちを覚えているのだ。この男を生かしておく理由が見当たらない。僕は躊躇をしない。これが正解だと――誰かが僕に間違っている行為だ、と責めようと――僕は自分のこの行為に悔いは残らないはずだ。
引き金に指が触れた。僕は口を結び、歯を食い縛った。青年を見据え、銃口を正確に定めた。深呼吸をしている余地はない。僕は引き金を――。
銃音が静寂を弾き飛ばすように轟いた。鼓膜が張り裂けるような甲高い咆哮が耳を急襲し、僕は身に走る痺れから拳銃を地に落した。膝が屈しる。その地面に僕は倒れた。何が起きたんだ? と疑問が浮ぶ。その発砲は、僕が起こしたものではなかったのだ。
呼吸がまるで巨大な腕に撓まれるように、苦しくなってくる。息が歯の隙間から洩れていくのがわかる。どうやら僕は撃たれたようだった。誰に? 決まっている。青年だ。あの青年も、拳銃を隠し持っていたのだ。真夜中に揺れる樹の影みたいに不安定な歪みを佩びた青年の姿が、まるで湖に映る月みたいに遠く離れて消えていく。意識が高速でかけ離れていくのだ。まるで夜が僕を見放すみたいに。
僕は死ぬ。どうやらそうみたいだった。このまま瞼を閉じてしまえば、そのまま僕はこの世界から消失するだろう。だから僕は、瞼を閉じずにいた。目玉が乾き、涙が強制的に溢れる。遠のいていく意識の中で、僕は青年の姿を探した。けれど、青年の姿は見当たらなかった。
どこにいった? きっと獣を殺しに戻ったのだろうな、と僕は思った。そう考えると、僕はとてつもなく悔しい気持になった。獣を助けれなかった、という事実は僕に巨大な屈辱を与えた。しかし、怒りだけが脳に湧くだけで、僕の体はすでに植物と一体化したみたいに動かなくなっていた。呼吸も弱まっていくのがわかる。視界が白い霞みに浸食されていくのもわかる。
そこで僕は青年が消えたわけではないという事に気づいた。青年は地に倒れてのたうち回っていたのだ。僕にはそれが何を示唆するものか、理解できなかった。しかし僕はそれを思索することは不可能だった。どうやら僕の限界の境界線が撃ち割られたようだった。
僕は、青年の喉辺りから血が吹き出ている事に気がついた。どうやら、青年は何者かに撃たれたようだった。一体誰に? わからない。
もしかして――この森に僕と青年以外の人物がいるのか?
やがて僕は眠くなる。煙突から盛んに上がる煙みたいに深くて巨大な眠気は、僕を押し潰して、脳を凍結させた。眠くなってきた、という感覚は刹那にして失せ、どうやら僕は死を完了させたようだった。 END
最終回でした! ようやく終了しました。読んでくれた人がいるならありがとうございます。次回作は恋愛モノを予定してます! 見て欲しいですよ。




