第56話 夜の捕り物劇と、消えた商会の奇妙な足跡
夜のナイトマーケットの喧騒の中で――。
「泥棒! 誰か捕まえて!」
叫びに似た声が上がり、ローゼルは驚いて振り返った。
ルシアンの顔が歪み、舌打ちが漏れる。
(このタイミングでこれかよ)
ルシアンは躊躇った。
騎士の矜持として、すぐにでも捕縛したいところだ。
だが、ローゼルとの甘い時間が終わってしまう。
それ以前に、ローゼルを独りにするわけにはいかない。
いくら人通りが多くとも、夜の女性の独り歩きは危ない。
ましてや、ローゼルは誰が見ても高貴な出自の可憐な女性。
人買いが目敏く見つけでもしたら――。
もし、そいつらが魔法が使える野郎だったら――。
自分の防御魔法を施したアイテムを身に着けているとはいえ、置いていくわけにはいかない。
「ルシ、行ってください」
ローゼルが視線を泥棒に向けたまま、鋭い声で言った。
「さぁ、早く!」
戸惑うルシアンを貫く蜂蜜色の瞳。
だが、ルシアンは戸惑う。
その時、空から何かが降って来る気配がした。
ルシアンは思わず手を伸ばして掴む。
柔らかなモフっとした動物の毛だ。
なんだ?
手に掴んだ何かがジタバタと暴れ回る。
「リス?」
ローゼルはルシアンの手にあるものを見て、きょとんとする。
確かに、真っ黒なリスだった。
「可愛い!」
ローゼルは頬を綻ばせて声を上げた。
一瞬、ルシアンと黒リスは見つめ合う。
黒リスのつぶらな瞳が何度も瞬きする。
(コイツ……。皇族の使い魔——)
ふいに視線を感じた。
振り返ると、見知った顔がそこにいた。
「エレナ!」
ローゼルがますます弾んだ。
エレナ・ヴァービナス侯爵令嬢。魔法省の特別補佐官。ローゼルの同期だ。
彼女はいつものとおり、黒いローブを纏っていた。
人見知りなのか知らないが、人前ではフードを目深く被り、滅多に顔を見せないのだが、珍しく、今宵はしっかり顔を見せている。
細いフレームの眼鏡に亜麻色の髪の美女。口元のホクロが妖艶さを醸し出す。
エレナはにっこりと笑う。
「こんばんは。
クレインバール卿、ローゼル」
「うん、うん。
久しぶりだね!」
ローゼルが飛び上がるようにしてエレナに抱き着いた。
その躊躇いのなさに、ルシアンは少しエレナに嫉妬した。
(俺に、あんなふうに無邪気に胸に飛び込んで来たことがないのに……)
エレナとは時折仕事を共にしてきた仲ではあるし、彼女の魔法には何度も助けられた。
それなのに、こんなことで嫉妬するなんて。自分の狭量に地味に落ち込む。
「エレナもナイトマーケットに遊びに来たの?」
ローゼルのはしゃいだ声。
「うん、そう。
ちょうど帰るところでね、なんか楽しそうな声が聞こえたから。
だから、来ちゃった」
エレナは、ちらっとルシアンに含みのある眼差しを向け、そしてローゼルに少女のようにあどけなく微笑んだ。
手につかんでいた黒リスは、ルシアンがぱっと手を離すと、逃げるようにしてエレナの肩によじ登った。
(ここに彼女がということは――アイツも近くにいるな)
ルシアンはちらっと空を見る。そこに一人の男の影。
にっと自然と口角が上がった。
(やっぱり。
であれば、さっさと片づけるか)
「ローゼ、悪い。
少し仕事してくる」
ルシアンがそう言うと、ローゼルはルシアンに向き合い、強い眼差しを向ける。
「はい、お気をつけて。
待ってますね」
「ああ。ありがとう」
ルシアンは踵を返して、泥棒を追いかける。
そして、制御していた魔力を一気に解放した。
とてつもない威圧感ある魔力が噴き出すように放出し、人々は何かを察したようにさっと左右に避けてルシアンに道を開けた。
後ろめたさが漂うように走る一人の男の背中。
あれが今回騒動を起こした泥棒か。
「待て!」
ルシアンが声を張り上げると、男の肩がびくっと跳ね上がり、気まずそうにちらっと後ろを振り返る。
男はぎょっとした。
なにせ、物凄い魔力の塊のような屈強な男が追いかけてくるのだ。
まずい、とばかりに、男は加速した。
間違いない、あの男が泥棒だ。
走り去ろうとする泥棒まで一直線だ。
男は想像よりも逃げ足が早かった。
なかなか距離が縮まらない。
くそっ。
魔法を使えばこれくらいあっという間に捕縛できる。
だが、街中にこれだけ大勢の人がいると、むやみに魔法を発動させることはできない。
泥棒は、慌てて狭い路地に入った。
ルシアンは壁を蹴り、屋根へと駆け上がる。
どこへ行く? 逃しはしない。
眼下の泥棒を目で追い、屋根瓦を勢いよく蹴った。
ルシアンは泥棒の行く手を塞ぐようにして、彼の前方に着地して進路を塞いだ。
「な……っ!」
泥棒の喉から驚愕する声が漏れた。
泥棒がさらに横へ逸れて逃げようとした瞬間、別の影が屋根から飛び降りた。
「よう。
デートを楽しんでた軍師殿」
軽やかに着地したその影は、王宮魔術師クロフォード・ノーエランドだった。
「久しぶりに会ったのに、その挨拶はなくないか?」
ルシアンは眉をひそめた。
「まあ、いいじゃん。
なかなか珍しいものが見れて楽しかったぜ」
クロフォードはくっと笑った。
その目は泥棒を捕らえながらも、なお憎まれ口を叩く。
「珍しいっていうか傑作だったな。
俺達付き合い長いけど、あんな顔は初めて見たよ。
ようやく軍師閣下にも春が来たってことか?」
ニヤニヤと笑いながら、じりじりと泥棒に詰め寄る。
ルシアンも一歩、また一歩と近づいた。
クロフォードの憎まれ口はいつものことだが、ローゼルとのデートを見られていたと思うと無性に恥ずかしいやら、腹立たしいやら、ルシアンは内心舌打ちをした。
とはいえ、クロフォードは弁も立つが、魔法の腕前も超一流。
天才魔法異端児と呼ばれる男だ。
早速クロフォードが無詠唱に近い速度で泥棒の足元を手で翳す。
たちまち石畳の隙間から強靭な植物の蔦が生き物のように這い出た。
泥棒の足を瞬く間に絡め捕ろうとする。
だが、泥棒は素早く後ろに飛び退く。
懐から何かを取り出したかと思うと、それを地面に投げつけた。
白い煙で視界が覆われる。
「コホ、コホ。
んだよ、これ」
クロフォードは咳き込みながら悪態をついた。
「煙玉だ」
ルシアンは口元を腕で多い、泥棒の気配を探る。
煙玉なんて小癪なものを持っていたとは。
コイツ、ただのコソ泥じゃない。
「逃がすか!」
ルシアンは再び壁を蹴って屋根へ駆け上がり、煙を飛び越えた。
騒ぎに気付いた近隣住民たちが部屋の中からこの捕り物劇を、遠巻きで見守っていた。
子どもが「なにあれ」と指差した先。
そこには、泥棒が蜘蛛のように壁に張り付いて移動していた。
「なんだ、ありゃ」
クロフォードが声を上げた。
男はシャカシャカと器用に手足を動かして、さらに路地裏の奥に逃げ込む。
それでも追いかけてくるルシアンとクロフォードに、男は出窓に飾ってあった鉢を投げつける。
鉢は派手な音を立てて割れた。
「キャー!」
「うわっ、危ないだろ!」
野次馬たちから悲鳴が上がった。
泥棒はさらに器用に壁を伝い歩き、バルコニーにあるものをルシアンたちに投げ放つ。
(くそっ)
ルシアンは小声で素早く魔法詠唱を唱え、群衆に当たらないように鉢を粉々にし、クロフォードが魔法詠唱を発動させ、突風を引き起こす。
場は突風で騒然とするが、男はその風により壁から引き離され、地面に背中から呆気なく落ちた。
ルシアンはそのまま跳躍して泥棒の前に着地し、冷ややかに彼を見下ろした。
褐色肌の異国の男。
泥棒も最初こそ舌打ちをして抵抗しようとしていたが、ルシアンから溢れんばかりに漏れ出る魔力に戦慄し、すっかり顔色が真っ青になった。
「お前、何者だ?
煙球に、先程のような蜘蛛みたいな移動手段。
ただのコソ泥とは思えない」
その時、通りからバラバラと統制された足音が響いた。
「フン、おっせーよ。
ようやく到着か」
呆れ返るようにクロフォードが呟いた。
やって来たのは王都自衛警察団だ。
彼らは魔法を巧みに使えないが、腕が立つ部隊だ。
「包囲完了!
逃げ場はないぞ!」
王都自衛警察団のリーダー格の屈強な男の怒号が上がる。
そして、彼らは、ルシアンとクロフォードの顔を見ると、たちまち顔色を強張らせた。
「ご苦労。あとは頼ん……」
ルシアンがそう言いかけた瞬間、泥棒は最後のあがきか、短剣を抜き、必死に振り回す。
ルシアンは人間離れした速さで、半歩だけ身を引き、刃を紙一重で避ける。
「いい加減、観念しろ」
次には、身を低くして泥棒の顎下に入り込み、みぞおちを強く殴った。
「うぐっ……!」
泥棒の手から短剣が落ち、カランと無機質な金属音がした。
「おお~!」
群衆の歓声が夜空に上がった。
王都自衛警察団たちは一斉に腹を抱えてうずくまる泥棒に縄をかけ、完全に捕縛した。
子どもたちから「かっこいい!」と声が上がり、商人は胸を撫で下ろし、拍手喝采する。
「さすが軍師閣下だ」
クロフォードがにこっと艶然と微笑んだ。
「素敵!」
「こっち向いて!」
クロフォードの笑顔は取り巻く群衆だけでなく、王都自衛警察団までもが、黄色い歓声を上げ、さらに場が盛り上がった。
(……まったく、コイツ、顔だけはいいからな)
ルシアンは苦笑した。
「閣下、助かりました!」
すかさず王都自衛警察団のリーダーが敬礼すると、後ろに控えていた他の団員たちも倣う。
「ああ。遅くまでご苦労さん。
ちょっとコイツ、怪しいからみっちり取り調べしておけよ」
「はっ!」
やがて駆けつけた庶民服を脱ぎ捨てた騎士団員たちも姿を現した。
「ルシアン様、ありがとうございました!」
魔法騎士団員たちは律儀にルシアンに頭を下げるものの、ルシアンがローゼルとデートを堪能しているのを見ているせいか、心なしかニヤニヤする者もいる。
(……ったく。
これだから目立ちたくなかったんだよ)
ルシアンは後頭部をカリカリと掻く。
そこへクロフォードがまた愉快そうに肩を揺らして笑い始めた。
「いやぁ、今晩は良い物ばかり見られるなぁ」
「っていうか、お前もデート中だったんだろ?
いいのか?
彼女、マクィーン卿と婚約中だよな。
知られたら怒られるぞ」
ルシアンは皮肉を込めて言い返した。
「大丈夫。
その辺、ぬかりないから」
「『黒リスも一緒だから、完全に二人きりじゃない』と言わせないぞ」
「チッチッ。
分かってないなぁ」
クロフォードは指を振る。
「今回の調査ならびに出張同行について、マクィーン卿から事前にちゃ~んと許可をもらっているんだ。
軍師閣下のようなお忍びじゃねえって」
にかっとクロフォードが勝ち誇った笑みを向けた。
「聞き捨てならないな。
こっちだってお忍びじゃない。
ちゃんと彼女の父親には事前許可を貰っている」
「へえ、さすが。
ふうん、外堀はがっつり埋めてあるわけか」
「ついでに、クロフォード。
彼女と黒リスともう一度調査してみる気はないか?」
「はあ?」
クロフォードは露骨に顔を歪ませた。
「調査先はマロディオ商会なんてどうだ?」
「マロディオ商会?
あまり聞いたことがないな」
「だろうな。
こう言えばいいか、エルミナ商会の子会社」
ルシアンの台詞にクロフォードはすっと真顔になった。
「……それは調べ甲斐がありそうだな」
「だろ?
どうやら奴ら、此度の魔法騎士団の魔剣の納品にも絡んでいそうなんだ」
「どういうことだ?」
クロフォードは訝しげに眉をひそめた。
ルシアンはさっきローゼルのリボンを買った露店の話をした。
そこで、ローゼルが気づいたこと。
そして、「廉価品」なんて札の貼ってあったあるモノ――あれは魔法騎士団に納品されるはずの魔剣だ。
それらは不良品ではなく、れっきとした問題のない剣だった。
市井に流れるような代物ではない。
「そこの主人の老婆はまあいい、カネさえ払えば、今後いい情報屋になるだろう。
前賃は弾んだから話し合いによっては、こちら側に引き込める」
「ふうん、そこにやってきた商人風の男ね」
「ああ。
ローゼが言うには、彼らの一人が皇族会議にやってくる予定だったマロディオ商会の者だったらしい。
あっちもローゼの顔を覚えている感じがあったな」
ルシアンは顎を撫でた。
「ん? ちょっと待てよ。
マロディオ商会って……」
クロフォードは考え込み始めるように黙った。
その間に泥棒は連れ出され、野次馬たちも散り始める。
静けさの戻った路地裏。
気づけば、そこにはルシアンとクロフォードしかいない。
そのクロフォードが、ふと青ざめた顔を上げる。
「思い出したぜ、マロディオ商会。
皇族会議に行く予定だった従業員が全員、スラム街で遺体として見つかった商会だ」
「ああ。それだ」
「えっ、……待て待て。
何で遺体で見つかった奴が生きててここで目撃されているんだ?
双子説か?」
「双子説……無きにしもあらずだが」
ルシアンは周囲の気配を探る。
大丈夫、誰も不審者はここにいない。
「——実はな、その遺体、意図的なのか顔がズタズタになっていたんだ。
遺留品と遺体の血液から鑑定魔法をした。
だが、ローゼルの証言が正しいとなると……」
言葉を濁すルシアンにクロフォードは片眉を上げた。
「偽装だったかも?」
「そうだ。商会ぐるみの犯行になる。
敵国マリュード皇国と繋がっている可能性が非常に高い」
当初の魔法騎士団の見解は、総務省に潜り込んだマリュード皇国の工作員の女が、仲間の工作員を手引きして、皇族会議のテロ未遂を企てた。
そう推測されていた。
「そうなると、皇族会議の前提が覆って、真相が少々変わってくるな。
マリュード皇国と繋がりがあるなら、マロディオ商会が進んで工作員を送り込んだかもしれない」
クロフォードの声には、怯えたような響きが加わっていた。
「ああ。
それだけじゃない、工作員の女がどこに身を寄せ、その活動資金はどうしていたのか。
総務省の下働きでは到底足りない金額だ。
必ず誰かが手助けしているはずなんだ」
「それがマロディオ商会かもしれない。
だから、俺に調べて来いって?」
「ああ」
無表情にルシアンはクロフォードを見た。
「了解。分かったよ」
クロフォードは肩をすくめる。
「っていうか、まさか、それを皇族会議の記憶だけで見抜いたのかよ。
イースティリア女官って、マジおっかねぇ。
魔法騎士団よりよっぽど優秀な記憶力と目を持ってんな」
「ああ、本当だ」
ルシアンは自分のことのように、少し誇らしげに鼻を鳴らした。
そんなルシアンにクロフォードは小さく笑う。
「まあ、ただの露店の品揃えでその『廉価品』を見つけ出したクレインバール卿もすげぇよ。
ある意味、敵に回したら厄介なカップル誕生だ。
——とはいえ、ますます厄介なことになりそうだな。
親会社のエルミナ商会の資本元は、グロウディーナ公爵家だぜ」
「そのとおりだ。
しかも、魔法騎士団に納品する剣を運搬してる商会だ。
ウルーム伯爵とも繋がっている。
ウルーム伯爵とグロウディーナ公爵家との繋がりは、お前も知る通り、かなりの蜜月関係にある」
「だろうね。
エルミナ商会はグロウディーナ公爵の紹介で、ウルーム伯爵が作った魔道具を拡販している。
数年前に壊滅した闇ギルドとかの裏組織に、売っちゃいけない代物をマロディオ商会のような子会社や下請け会社を使って売りさばいていた形跡もあったしな」
「ああ、よく覚えているじゃないか」
ニヤッとルシアンが笑うと、クロフォードはため息をついて、それから手を出した。
「なんだ? これは」
「明日、さっそく取り掛かるからその駄賃。
ほら、今晩くらい俺だって楽しんでもいいだろ?
なんてたって、軍師閣下も愛しのローゼルちゃんとお楽しみ中だ。
だから、小遣い」
生意気な表情から一転、人懐っこい笑みを浮かべるクロフォードに、ルシアンは舌打ちをした。
「チッ、色気づきやがって」
「色気づいているのはお互い様だろ。
よく言うよ。
な、軍師閣下殿」
言っていることは全然可愛くないのに、ルシアンに向ける屈託のない笑顔。
「いやぁ、これからの二人の行くすえが楽しみだなぁ」
白々しい台詞。
こんなにも殺意を抱くのはなぜだろう、そう思いながらルシアンは銀貨と金貨を数枚渡した。
***
騎士団と警察団が泥棒を連行し、通りは再び祭りの喧騒を取り戻した。
その頃、ローゼルとエレナは屋台の前で、海鮮の串焼きを分け合い、笑い声を弾ませていた。
「そういえば、エレナ。
この前、お土産ありがとう」
ローゼルはふと思い出してエレナにお礼を言った。
エレナがレイノルドに託してローゼルに渡してくれたお土産は、花の匂い袋だった。
「あれ、すごいいい香りだね。
かなり癒されてるよ」
「ふふ、喜んでくれてよかった」
「出張は楽しかった?」
「う~ん、楽しい……。
一応、仕事だからねえ。ぼちぼちかなぁ」
「そっかあ。
私、この前の初めての一人出張のとき魔物に襲われて散々だったよ」
「え? 魔物?」
エレナの顔が強張った。
「うん。
すご~く気持ち悪い、魔物図鑑にも載ってない奴。
新種なのかな?」
ローゼルは当時のことを思い出して、少し眉をひそめた。
「え、大丈夫だったの?
怪我とかは?」
「えっと……」
ローゼルはエレナとゆっくりナイトマーケットを歩きながら、倒れてしまったことを話した。
エレナの表情が険しくなった。
間の悪い沈黙が降りた。
「でも、もう大丈夫だから。
そんな深刻な顔しないでよ」
ローゼルは手をひらひらさせて、朗らかに笑う。
「だけど――。
薬は? ちゃんと飲んでる?」
「うん。
クレインバール卿のところのお医者様がすごくいいお薬を処方してくれたんだ」
「へえ。
なるほど、それでクレインバール卿との距離感が……」
エレナが唸って何かを考える。
けれど、その声はナイトマーケットの喧騒でかき消され、ローゼルには聞こえない。
「え? なに?」
「ううん、なんでもない。
それより、ローゼルはウルーム伯爵領地のオーレイヴ荒原って行ったことある?」
エレナは尋ねた。
「うん、もちろんあるよ。
一応、婚約者の領地だしね。
エレナとレイノルドのこの前の出張先もそこだったんだよね?」
「あそこの温泉、気持ちいいよね」
「そうそう。
小さいときに家族で何度も行ったよ。
エレナも温泉街、行ってきたの?」
「うん。
この小次郎とね、ゆっくり浸かってきたよ」
肩に乗る黒リスの小次郎の頭を撫でながらエレナは言った。
「ふふ、リスも入るんだね、温泉。
よく猿が山から降りて浸かってるって話は聞いたことあったけど」
ローゼルは、エレナと小次郎が仲良く温泉に浸かっている姿を想像し、クスクスと笑った。
(温泉街か。懐かしいな)
あの当時、母マリアーナも健在で、しょっちゅう家族四人で遊びに行っていた。
ローゼルは幼い頃の記憶を必死で思い出す。
オーレイヴ荒原は、すぐそこに火山があって、その手前には、温泉により作り出された広大な石灰棚が広がっている。
ローゼルたちが到着した頃には、いつもすでに何世帯かの貴族が温泉に浸かっていた。
けれど、それを気にさせないくらい雄大だった。
印象的だったのは、雲ひとつない青空が広がっていたこと。
どこまでも青。
くっきりとした王都とは違う明るい青。
あの突き抜けるような青色は、王都では絶対に見られない色だった。
「そういえば、今あそこって魔物が増加しているんだってね。
ひょっとして、あそこの調査?
奥地になる禁足地」
ローゼルは何気なく聞いてみた。
エレナは出張の内容を話したがらない。
でも、気にしないようにしようと思いつつ、レオーネの捕縛のことも頭の片隅にはあって、なんでもいいから情報が欲しいと思った。
「そうだよ。
崖ばかりの奥のところ」
「あそこって、火山口に近づくと硫黄の香りが凄まじくて、お父様にも危ないからあまり近づかないように、って注意されたなぁ。
けど、泥がボコボコと吹き出すマッドプールは迫力があったから、お兄様とこっそりと何度も見に行ったの」
「うん、それ。本当すごかった。
けど、今回の出張の調査はさらに奥」
「奥?
あぁ、あの場所ね」
荒原があって、温泉があって、火山を越えたさらに向こう側。
小高い丘に鬱蒼とした森がある。
そこは誰も踏み込んではいけない禁足地だと、伯爵夫人教育の時に教えてもらった。
遠くからしかローゼルも見たことがない三角形の森。
「うん、あそこは大変だった。
だって、飛行魔法が使えない天然の結界があるんだもん」
「へえ」
天然の結界――。
初めて知った。
その時、ふとローゼルの目に、同じ世代の女の子たちが手に持っているものが留まった。
「ねえねえ、エレナ、あれすごくない?」
ローゼルが指差したのは、月光を閉じ込めたように輝くキャンディ。
透明な飴玉の中で星屑が瞬き、舐めると舌の上で光が弾けるというもので、エレナもローゼル同様に目を輝かせた。
「きらきらしてる!
あれ、絶対欲しい!」
「ね、でしょ?」
「でも大きいかな?
他のも食べてみたいし……」
「じゃあさ、二人で分け合おうよ」
「いいね、そうしよう」
エレナが笑い、ローゼルも頬を綻ばせて頷いた。




