第54話 父親たちの婚約破棄交渉(前編)
メイット・イースティリアは、ウルーム伯爵邸の応接室で伯爵本人が現れるのを、大きな窓の前に立ち、待っていた。
相変わらず、窓の外に広がる手入れの行き届いた庭園は美しい。
だが、今のメイットの目に美しくは映らない。
胸の内で渦巻くのは、憤怒、屈辱、憎悪、怨嗟。負の感情が覆い尽くしていた。
「やあ、メイット・イースティリア。
待たせたね」
屋敷の主、ナージュ・ウルームは朗らかな笑顔を浮かべて部屋に入った。
「いや、こちらこそ、忙しいところ申し訳ない」
ナージュは寛いだ身なりで悠然と応接椅子に腰かける。
「メイットも座って」
「ありがとう」
「君が来ると知ってね、すぐさま最高級の茶葉を用意したんだ。
それとも酒の方がよかったかな?」
「いいや、どちらも結構」
立ったままメイットは首を振った。
「そうかい?
申し訳なかったね。
ちょっと領土でトラブルがあったらしく、そのトラブルの状況が把握できず、随分とお待たせしてしまったよ」
「そのトラブルは片付いたのかい?」
「いいや、いまだ混沌としている。
しばらく続きそうだ」
ナージュは首を振る。
「そうか、早く解決するといいね」
「ああ、まったくだ」
ナージュは若い侍女に二人分用意するよう目配せした。
そのとき、メイットは「おや」と思った。一人の侍女が随分と痩せこけている。
心なしか顔も蒼ざめていた。
もっと恰幅のいい女性だった気がしたが。
「彼女、どうしたんだい?
確かレオーネの乳母だったよね?」
気づくとメイットは尋ねていた。
「ああ、ちょっと病気していてね。
最近ようやく仕事に復帰できたんだ」
「そうなのか。
踏んだり蹴ったりだね」
「本当、その通りなんだ」
侍女がお茶を淹れている間に、メイットは手元のカバンから一枚の書類を出した。
「なんだい、これは?」
ナージュが事なさげにその書類を取り、目を通す。
「ほう、婚約破棄申請書ね」
ナージュは眉をひそめた。
「ああ、そうだ。
やはり何度熟考しても、此度の君の子息レオーネの浮気は許せない。
レオーネはイースティリア子爵として娘の婿に相応しくないと判断した」
メイットは静かな眼差しで、ナージュを見た。
「そうか――。
けれど、婿入りをするわけじゃないし、もう一度考え直してみないか?
なにせあの子が小さい頃から自分の娘同然に可愛がっていたし、婚約して結構年数も経っている。今更破棄するのは外聞もよくないだろ」
「確かに。
君がレオーネの妹シリル嬢と同様にローゼルを可愛がってくれたことは、とても感謝している。
だからこそ、昔馴染みの君のところならローゼルを大切にしてくれると思い、また共同事業関係強化のため婚約をしたんだ。そうだったよな?」
「ああ、相違ないね」
ナージュは淹れたての茶を優雅な仕草で飲んだ。
「だが、レオーネは浮名を流すどころか、王城の夜会で他の令嬢と逢引していた。
そんな不埒な男の元に娘を嫁がすことはさすがに出来ない」
「君の言いたいことは分かる。だが、愚息が浮気をしているという物的証拠はないだろ?
所詮、噂に過ぎない」
「だが、夜会当日のクレインバール軍師と魔法省官僚のエトワール伯爵夫妻が、浮気現場を目撃している」
「彼らは身分ある者たちだが、これは状況証拠に過ぎない。なにせ、証言だけだろ?」
ナージュは悠然と脚を組む。
「そりゃあね、確かに愚息はローゼル以外の数々の令嬢たちと交友していたらしいよ。
だが、それはあくまでも社交辞令であって、浮気ではない。
逢引したという話は、大方、令嬢人気の高いレオーネを羨んだ貴族子息の誰かが流したデマに決まってる。
昨今の若者は令嬢に声をかけるのも、勇気がいるとかで、相当な臆病者ばかりらしいからね」
やれやれとナージュは首を振る。
「それに、君が問題視する婦女暴行容疑だって訴えを取り下げられて、レオーネ自身も保釈されたんだ。
つまり、罪だと断言できる証拠がない。
それでも婚約破棄をするのかい?」
「訴えはなくとも、彼はローゼルへの暴行行為もしたんだ。
これが許せる行為か?」
「は?
ローゼルにレオーネが?」
ナージュは息を呑み、凍りついた。
それは初耳だと言わんばかりに、ティーカップを持つ手が震えた。
「おや、ナージュは知らなかったのか?」
「ああ、初耳だ」
「ローゼルがレオーネを訴える気がなかったことから事は大きくならなかったらしい。
だから正式な記録にも残ってはいない。
しかし、レオーネを今回取り調べた第2魔法騎士団アラン・リックランス団長ならびに、ルシアン・クレインバール軍師がその現場を目撃しているんだ」
「まさか……」
「本来であれば、ローゼルへの乱暴狼藉についても言及されるべき酷い振舞いだったと聞いている」
声音こそいつもどおり穏やかだが、メイットのこめかみには青筋が立っていた。
「あんの馬鹿息子め。
ローゼルにそんなことを」
ナージュも忌々しげに顔を歪め、謝意と戸惑いが交錯する。
神妙にティーカップをテーブルに置き、立ち上がり、姿勢を正し、頭を下げる。
「それは申し訳ないことをした」
「謝罪は結構。
嫡男への監督不行き届き甚だしい」
メイットは肩をすくめた。
「ああ、ごもっともだ。
否定はしない。
そこは正そう。
……それで、ローゼルは大丈夫なのか?」
ナージュは心配しているように見える表情で、メイットの様子を窺うように見た。
「もちろん、その場ですぐルシアン・クレインバール軍師が応急処置を施したそうだから大事ない」
「そうか、それは良かった。
ローゼルに傷が残っては大変だからな」
ナージュは心底ほっとして胸をなでおろし、再び椅子に座った。
「とりあえずレオーネは今、領地に戻って再教育をし直しているんだ」
「へえ、領地で」
「うん。言われる通り、レオーネの至らない点はあった」
「そのとおりだ」
「だが、愚息はまだ若い。
ローゼルに対しての乱暴狼藉についても新たにカリキュラムを見直し、さらなる再教育をする。
もちろん反省文を書かせ、今後の対応について改善させる。約束する」
「いや、もういい。
彼を娘の夫として受け入れる気は毛頭ない」
メイットは手を振って、冷たく跳ねのけた。
「いやいや、最終判断するのは時期尚早だ。
いいか、メイット。
再教育をした後のレオーネをちゃんと見て判断してくれ。
婚約破棄なんて双方にいい点は何一つないんだからな」
ナージュは必死で訴えかける。
だが、メイットはひどく醒めた目をしていた。
「この期に及んで、『再教育後のレオーネをちゃんと見て判断してくれ』?」
メイットから信じられないほどのドスの効いた声が漏れた。
研ぎ澄まされた刃のような鋭い目が向けられ、ナージュは絶句した。
まずい。この雰囲気は――。
背中に冷たい汗が走った。
「メイット、その……」
「ふざけるなっ、手を挙げる男を娘の婿に出来るわけがないだろっ!」
普段温厚なメイットの怒声が響いた。
ナージュは雷に打たれたように硬直した。
(ヤバい、切れた)
メイットはふだん怒ることがない。
温厚で波風を立てることを厭う男だ。
だが、一度癇癪を起こすと手が付けられない。
なんとか宥めなくては。
あの子は絶対に手に入れないと――。
「メイット。
申し訳ないが、我がウルーム伯爵家は、やはり双方の名誉を守るためにも婚約破棄に断じて同意出来ない」
ナージュはあえて下手に出るように、すまなさそうな顔をする。
「そもそも婦女暴行容疑について弁解させてくれ」
「弁解?」
メイットは不愉快そうに聞き咎めた。
「ああ。ローゼルに対しては、全面的にこちらの不手際を認める。
決して男としてやってはいけないことをやった。
だがな」
ナージュは下唇を舐める。
「浮気に関しては、少々勘違いしている」
「勘違い?」
「そうだ。
当日の詳細内容を問い合わせてみると、どうやら君の奥方の親戚筋の男爵家令嬢、デブラント嬢がレオーネに勝手に想いを寄せていたらしい。
しかも、振られた腹いせに訴えたというじゃないか。
男爵位風情の娘が伯爵家に嫁げると壮大な妄想を描いたせいで、こっちはとんだ迷惑を被ったんだよ。
むしろ被害者なんだ」
ナージュは切に訴え続ける。
「それに、レオーネもローゼルもまだまだ若い。
これから結婚すれば、多少なりとも諍いは大小関係なくどの夫婦にも必ず起きる。
俺たちそれぞれの夫婦にもそういう事があっただろ?
——それをいちいち親が目くじらを立てて、破談だなんてみっともない」
メイットはナージュの出方をそっとうかがいながら、ティーカップに手を伸ばす。
必死に澄ました表情で取り繕う。
「だいたいローゼルが訴えなかったということは、ローゼルにとって許容範囲内で、騎士団と軍師閣下が大層に言い過ぎただけと思うんだ」
「……違う。
訴えなかったのは、あの子の優しさからだ」
ぽつりとメイットが呟いた。
「私はもうあの子の優しさに甘んじて、婚約を続ける気はない。
父としてこれ以上は看過はできない」
苦渋と後悔、自嘲。
それはすべてローゼルへの深い愛情の裏返しだ。
「――そうか」
ナージュは諦めたような深いため息をつく。
「残念だよ」
「ならば、サインをしてくれ」
「構わないが——どうしても婚約破棄をするというなら、こっちにだって手を打たねばならないんだぞ。
それがどういう意味か分かっているのか? メイット。
これは家と家の問題だ」
ナージュは乾いた口調で言う。
「当然、これはイースティリア家の一方的な訴えということで、我がウルーム家は多額の慰謝料を要求せねばならなくなる。
だが、それをされては困るのはそちらだろ?」
ナージュもやすやすとは引き下がらない。
ほんのり口角が勝ち誇ったように吊り上がる。
「そもそもローゼルが女官として働き出したキッカケは、君の新薬用植物栽培事業の失敗のせいだよな?」
「……ああ。そうだが」
メイットは口ごもった。
そんな一瞬弱気になったメイットを尻目に、ナージュは畳み掛ける。
「女官とはいえ、王宮内務官はかなり高待遇の高給与らしいな。
しかも、あの子は働いた大半を家に入れているらしいが、未だにイースティリア家のタウンハウスの家計は火の車だと耳にしたぞ。
その上、君の土魔法でいくら領地が豊作でも、君の魔法論文が認められて褒賞金を貰えても、まだまだ返済されていない。
そんな状態で慰謝料が支払えるのか?
余計、ローゼルを苦しませるだけなんじゃないか?
それともまだ馬車馬のように働かせ続けるのか?」
メイットは黙り込んで、視線を下げた。
その顔は虚脱しているようにも見えた。
(やれやれ。
これでもう変なことを言い出さないだろう)
額に冷たい汗が滲み、ナージュは思わず喉を鳴らした。
何がなんでもローゼルは、必ず我がウルーム伯爵の嫁にならなければならない――。
しばらく間があって、メイットは突如カバンを開けた。
まだ悪あがきをするのかとナージュが思っていると、彼は何通かの封書を出し、順にテーブルの上に並べた。
彼の表情を覗き見るけれど、何も読み取れない。
無表情に淡々と――
「これは?」
ナージュは訝しげに封筒を手にした。
「証拠を出さないとダメなんだろ?
出来れば穏便に済ませたかったんだけど、こっちこそ残念だよ」
「は?」
メイットは憐れむような眼差しをナージュに注ぐ。
どういう意味だ?
なぜ、俺がお前にそんなふうに見られなくてはならないんだ?
重苦しい空気が漂い、部屋の中が妙にしんと静まり返る。
「これはすべてレオーネが女性たちとやり取りした証拠だ」
長い沈黙を打ち破るようにメイットが口を開いた。
「証拠だと?」
ナージュはぎょっとした。封筒を開いて手紙の内容を確認した。
「これは……!」
手紙の内容を読む。
読み進めるうちに持つ手がぶるぶる震えた。
あの馬鹿息子!
なんてことをしてくれたんだ!!
それは全部、レオーネが女性たちに宛てたラブレターだった。
歯が浮くような気障な台詞を書き連ね、鳥肌が立つような甘ったるい愛の言葉が並べる。
耐え難い怒りに、ナージュは腸が煮えくり返った。
よりによって言い逃れのできない『紙の証拠』を残していくとは。
すっと、メイットがナージュの視界に入るように、二通の手紙だけを差し出す。
「特に問題視するべき手紙はこれだ」
不気味なほど静かな口調。
「まず、一通目。
相手はフィオーラ・メッシーナ准男爵令嬢。
彼女はレオーネがここ数年かなり懇意にしていた令嬢のようだよ。
彼女の父親は貿易商で、珍しい東方の国との貿易を盛り立てたことで昨年准男爵の地位を得たらしい。
だが、レオーネの手紙を読んでいくと、なんでもローゼルと結婚したあとは、彼女を『妾として迎える』というふざけた約束事が書いてる。
結婚前から愛人を迎え入れると約束するなんて、それはもう結婚後もローゼルを蔑ろにしている証拠だ」
ナージュは腹の中が熱くなった。
じわじわとその熱が全身に広がっていき、目の前が真っ赤に染まる。
今まで築き上げてきたものが足元から音をたてて崩れて落ちてゆく――
「それから、さらにもう一通――。
その前に、まずこれを見てくれ」
醒めきった表情のメイットは、カバンからおもむろに一枚の書類を出した。
ナージュは底知れぬ恐怖を抱えながら、バケモノでも見るような目つきでメイットの出方を待った。




