十四話 ハルの残したもの
「よいしょっと……」
大掃除を明日に控えた、静かな前夜。
三葉は細い指先に力を込め、ビニール紐で十字に縛り上げた本の束を玄関に積み上げた。本を少し浮かせることで運ぶのを手伝っていた僕は、すでにクタクタだ。
「手伝ってくれてありがとう。これで……ちょっとは明日も楽かな」
前の住人『ハル』が遺していった教科書や、参考書、使い古されたノートの山は想像以上の重みを持っていた。
三葉は膝をつき、崩れかけた本の背を整えながら、ふと動きを止めて首を傾げる。
「やっぱりこれ、海斗先輩が持っていたのと同じ森林科学科の教科書だよね」
海斗先輩……?
三葉と同じバイト先の、あの金髪頭?
何度か音を鳴らして説明を促すと、三葉は僕の気配を探すように宙を見ながらポツリポツリと話し始めた。
「海斗先輩って今三回生なんだけど……同じ教科書を持ってたの。森林科学科って生徒数が少ないから、バイトしていた時期は違っても、大学でハルさんと知り合いじゃなかったのかなって。ちょっと気になっちゃって」
三葉は一番上にあったノートの表紙にそっと指先を滑らせた。表紙の下部には、几帳面な字でハルの本名が記入されている。
「倉木晴臣だって。ハルさん、こんな名前だったんだ」
名前の響きを確かめるように、三葉の指が移動する。表紙の隅には、そのノートを使い始めた年と日付が小さく書き込まれていた。
「最後のノートの日付は一年半前。海斗先輩が一年生の時、ハルさんは二年生だったのか」
先日、杏奈と翔太が語るハルについて、海斗は殆ど触れる様子がなかった。他学年については詳しくないのかも。
三葉は購入したばかりを思わせる新しい教科書を、どこか悲しげな目で見つめた。同じ大学生だったハルの学びの跡が、三葉にはひどく残酷に映ったのかもしれない。
そしてゆっくりと首を振る。
「考えてもわかんないや。私も英文科の同学年の子、全員覚えてるわけじゃないし」
三葉は立ち上がって居間へと戻った。
ハルの遺留品で占められていた本棚は、三葉の教科書や私物を入れても大きな隙間ができている。
「本棚、スカスカになっちゃったね。あとはこれをどうしようか」
机の上には、本棚から移動させた残りの遺留品が並べてあった。
ノートパソコンと幾つかのフォトアルバムだ。
写真があるなら見てみたい。
倉木晴臣――
もし『ハル』の顔が分かれば、記憶の糸口になるかもしれないし。
僕は意識の腕を伸ばして、パタリとアルバムの表紙を持ち上げた。
「あ、見たい?」
僕の意図を読み取った三葉はゆっくりとアルバムを持ち上げて、膝の上に乗せ表紙を開く。最初のページに挟まっていたのは、深い藍色の夜空に宝石を散りばめたような星々の写真だった。
「綺麗でしょ。私もさっきチラッと見たんだ」
三葉がページを捲るたびに、鮮やかな景色が飛び込んでくる。爆ぜる火の粉が幻想的な焚き火のクローズアップ。どこまでも広がる抜けるような青空。そして、瑞々しく生い茂る木々の合間から、せせらぎが聞こえてきそうなほど澄み切った渓流。
そこには、自然を愛したハルの視線が色濃く反映されていた。
各ページの右上には、白いマスキングテープで、撮影場所と日付が淡々と記録されている。
日常から離れ、孤独を慈しみながら見つけた小さな感動を大切に閉じ込めたような写真の数々。
それを見ていると、もう存在しない心臓が震えるのを感じた。
「これ……きっとハルさんの宝物だと思うの。ソロキャンプが好きだったって翔太先輩と杏奈先輩が言ってた。ほら、キャンプ場の名前が書いてある」
行くたびに写真を撮っていたのだとしたら、よほど好きだったのだろう。六年前から続くそのアルバムを捲るだけで移ろう四季を感じられる。
僕は部屋の隅にいる黒いモヤに視線を向けた。
なぁ、本当にお前が撮ったのか?
そう尋ねても、黒いモヤは答えない。
ただ無機質な目玉で三葉を見つめるだけだ。
「日常から離れて、自然の中に溶け込むのが好きな人だったんだね」
慈しむように呟いた三葉は、またページを捲る。それと同時に、一枚の紙切れがアルバムから滑り落ちた。
古いノートの切れ端だ。
それを拾い上げた三葉がフッと子供のような笑みをこぼす。
「見て。ほしい物リストだって。私も作ってた」
エナメルマグ、ランプ、コンパクトグリル、新しいチェア。
安い物から順番になっているのだろうか。
すでに斜線が引いてあるのは一番上のエナメルマグだけ。
「エナメルマグって、これだよね」
三葉の目がテーブルの上に置かれたカップに注がれた。少しレトロなデザインの深緑色のエナメルマグ。
僕が三葉のココアを冷やすという悪戯を仕掛けて以降、『冷めにくいように』と三葉が使い出して、そのまま愛用品となったカップだ。
『ハル』の叶えられなかった、ささやかな願いのリスト。
その一番下に『カメラ、目標二十万円』と書かれている。
「カメラはなかったからスマホで撮ったんだろうけど、わざわざ現像してファイリングしてるんだもん。きっと自然は、彼の大切な居場所だったんだね。……ユーレイ君、これ気に入った?」
コン――
短く音を鳴らすと、三葉は満足げにそっと微笑んだ。
「私も好き。スマホのカメラで、こんなに綺麗に撮れるんだもん。きっと本物の星空はもっと綺麗なんだろうね。……いつか見てみたいな」
三葉は名残惜しそうにアルバムを閉じて「これは残しておこう」と本棚に戻した。
僕も、できればまた見たい。
この1DKの部屋に縛られ、もう二度と触れ合うことのできない外の景色。はっきりと思い出すこともできなくなった風の匂いや星の瞬きを少しでも感じていたかった。
三葉は「さてと」と軽く伸びをして、残ったノートパソコンに視線を向ける。
「ハルさんのパソコン……使わせてもらえるなら、レポートが家で書けるし助かるんだけど……どう思う?」
三葉の問いかけに僕は『はい』と返事をした。
ハルがもう殺されていることを知っている僕は、彼がもう戻ってこないことも知っている。
黒いモヤには口もないみたいだし、文句が出ることもないだろう。僕の物じゃないけれど、幽霊二体を同居させる迷惑料になればいい。
「うう……大丈夫かな? すごく罪悪感あるんだけど」
三葉は悩みながらも、充電アダプターをコンセントに差し込んだ。意を決してノートパソコンを開く。
「ハルさん、ごめんなさい。中身は見ないので許してください!」
三葉の指先が電源ボタンを押し込むと、ノートパソコンは微かな排気音を上げ、赤いインジケーターが鮮やかな緑色に変わった。




