8、
笑いながら階段を駆け下りたので、彼女の部屋に入るときにはひどく息が切れていた。
私は少しだけ立ち止まって苦労して笑いを引っ込めてから、彼女の部屋に入った。
彼女はいつも通りだった。ヘッドフォンから漏れていた今日の音楽は、重低音とメランコリックなメロディが合わさったバラード風メタル。
ワインを片手に上半身をテーブルに突っ伏したままの彼女に、私は言った。
「天使様。この教会はもう終わりです。
今こそ、そのラッパを吹くときではありませんか?」
彼女は酒精の入った目で、不思議そうに私を見た。
「上が騒がしいから何かあったのかとは思っていたけれど、本当に何かあったのかしら」
「不信心者たちが教会に押し入ってきたのです。
上では信徒たちが殺されています。皆殺しにする勢いです。
彼らを阻む者はいません。すぐにここにも来るでしょう」
「そう」
興味なさそうに、彼女は頷いた。
私は言った。
「何もしないのですか?
もうこの教会は失われたも同然です。
貴女をここに隠してくれていた教会はもう無くなる。
そして不信心者たちが貴女を敬うことはない。むしろ彼らにとって貴女は否定すべき敵でしょう。彼らが無事に貴女を外に出すとは思えない。
貴女の居場所はもうこの世界には無くなるのです。
ならいっそ……」
「世界ごと終わらせてしまえと、そう言うの?」
私は頷いた。
階段がある方向から、騒がしい音が聞こえ始めた。
どうやら、上で信徒を虐殺していた連中の一部が地下への階段を発見して降りてきたようだ。
集団による支離滅裂なリズムの足音が刻一刻と、近づいてきていた。
彼女は私をじっと見ていた。
彼女の気持ちが変わらないのは分かっていた。それでも少しでもその心を揺らせないものかと、私は思った。
「きっとこの世界はもっとずっと前に終わっていてよかったんですよ。
貴女はもっと早くにラッパを吹き鳴らすべきだった。
この世界はまるで成熟期を過ぎても枝にしがみついたまま肥大化して腐っていく果物のようです。中に住む人々は、まるでお互いを食いつぶしながら増殖し続けた蛆虫のよう。
その蠢く様は、本人たちから見れば生命の謳歌でしょうが、大局的に見ればグロテスク以外の何物でもないでしょう。
外から見れば、その腐った果物のような世界はきっと醜悪な毒素の塊のようでしょう。
しかもそんなでありながら、私たちの多くは自分たちの生命が正しく価値ある物と信じて疑わない。
信仰を振りかざすことをやめない。
そんな世界のために貴女の望みが食いつぶされる必要はない。
腐った果物は枝を腐らせてしまう前に落とされるべきです」
彼女は静かに首を振った。
私は言った。
「天使様。私は貴女の望みを愛します。音楽を愛する貴女の望みが満たされる時を望みます。
人々は皆、自分の望みを満たすためだけに自分本位に信仰を振りかざして他者を押し退けてきました。なぜ貴女だけが自分の望みを満たすことをためらわなければいけないのです?
貴女の音楽は、きっと素晴らしいと思う。
貴女の音楽は、きっと正しいと思う。
貴女の音楽を耳に出来れば、きっと私は何よりも満たされると思う。
私は、この人生の最後に貴女の音楽を望みます。
貴女の音楽を、聞かせてはくれませんか?」
彼女は静かに首を振った。
彼女は言った。
「ありがとう。あなたがわたしの音楽を聞きたいと言ってくれたのは嬉しかったわ。
ええ、本当に。嬉しかった。
例え、あなたと何も分かち合うことはできなくとも」
彼女は世界への否定の言葉をただの一つも口にしなかった。
ついに足音がすぐ近くまで来て、部屋に暴徒と化した人々がなだれ込んできた。
先頭にいた男が、私を目にして何一つためらうことなく手に持っていた木製バットで殴りかかってきた。
木製バットが自分の頭部に勢いよく近づくのを見た瞬間、私は走馬燈を見たように思う。それともそれに叩きつけられて意識が飛んだ瞬間だったか。どういうわけか、私には彼女に会ってからこれまでのことを思い返す時間があった。
それから、自分の体が地面に倒れた衝撃を感じた。現在の時間に引き戻された視界の端で、暴徒たちが彼女を見つけてその翼と後光を見て一瞬ぎょっとしているのが見えた。彼女はヘッドフォンからの大音量の音漏れの中で、特に興味もなさそうに彼らを見ていた。
そして。
暴徒の一人が銃を発砲し、彼女の頭部が弾けるようにのけぞった。上半身が一拍遅れてぐらりと重心を失って傾き、それに続いて他の連中が手に持った棒などの武器を振り上げた。
それが今。私の現在。
これから後のことは、もう私には見る機会はないだろう。倒れて起きあがれない私の周囲にも暴徒が群がってきていて、自分とは違うものを信仰する者に対する敵意の声を上げて手に持った棒や板材などの武器を振り上げている。位置的に暴徒たちが遮ってしまったので、その向こうの彼女の姿はもう私からは見えなくなっている。
彼らは私の命を叩き潰すまで武器を振り下ろすのをやめないだろう。
彼らがどのくらいで私にとどめを刺してくれるのかは分からなかったが、それは半ばどうでもいい。痛みの中で死ぬのも仕方ないだろう。ただ、彼女の結末を知りたかったなと思う。
彼女はもう死んだのか。それともまだ生きているのか。
だが生きていたとしても、彼女はきっと、何もしないのだろうと思う。もしかしたら超自然的な力で不死を保つのかもしれないが、それでも。
自分の音楽を奏でるよりは自分が無駄に失わされることを選ぶのだろう。
彼女がラッパを吹き鳴らす時は来ないのだろう。
私はそれが残念でならない。
世界の終わりは来ない。