3ー3.王都のとある一日(前編)
「ユーレイ?」
昼間の食堂である。少年少女が群がる喧騒に紛れ、素っ頓狂な声が上がった。
「うん……なんつうか、夜中に女子団体寮のほうから、声が聞こえるんだよ……」
「やーん、なにそれ、やめてよー」
「いやいやいや、ほんとなんだって!」
そう主張するのは、アデリナだ。
彼女が向かい合っているのは、同輩のひとりニース・フェストルドだ。北部辺境伯の次女で、人一倍の腕っぷしの強さで騎士学校への入学を果たした。
亜麻色の髪とハシバミ色のひとみが特徴的な、名前にたがわず優しげな印象を持っているが、ヤギと相撲して勝ったと言われるほどの力自慢だった。
「そんなんいたら狩りに行きたくなっちゃうでしょう?」
だからなのか、話の重大さがあまり伝わっていないようだった。
うっかり豆のスープに顔を沈めかけたが、どうにか堪えた。
「あのな……これって、もし本当なら、王都に魔物がいるってことだろうが。一大事じゃないのかよ」
「あら、だからこそよ。お偉いさんの耳に入ったらそれこそコトだわ。さっさと片付けなきゃ」
「……話聞いてた? 頭も筋肉なの?」
「ひどいわね。魔術訓練のために冬の夜風に吹かれるアホよりは、理性があるわ」
「五十歩百歩だ。きみたちは揃いも揃ってバカなのか?」
と、そこにシュヴィリエールがやってきた。丸パンとスープ、それに若干の肉を盛った皿を持っている。
ニースはすかさずシュヴィリエールに抱きつこうとした。
「あーん、唯一の理性ー!」
「うるさい。肉を取るな、肉を」
「ち、ばれたか。けちー」
しかしシュヴィリエールは彼女を引き剥がし、アデリナの隣で食事を始める。
「全くきみたちは呑気だな。この間からフェール伯の異端審問で騒ぎになっているというのに、まるで気にしてないだなんて」
「やー、だってそんなにカンケーねえし」
「面白くもありませんわね」
やれやれ、とシュヴィリエールはパンを噛みちぎった。
彼女が話題にしたのは、今月に入って〈星室庁〉に連行された東部辺境伯:オイリゲン・フェーガスのことだった。雲霧山脈に近いさいはての領地を治めるこの辺境伯は、廃村を繕って《魔女》を匿っていた罪に問われている。
しかしその一方で、騎士学校の上流層の間では別の説がまことしやかにささやかれる。すなわち、フェール伯は姦計に嵌められたのだとする説だ。
アストライア聖王国は、教導会の信仰地域たる〈叙事詩圏〉を統治する巨大な国家であるものの、唯一絶対というわけではない。広く視野を広げれば、北部辺境の異民族や、南方から内つ海に跳梁する海賊王朝、そして東部辺境から南に下ったところにある蕃国などと、まつろわぬ支族が多くひしめく世界に君臨しているだけなのだ。
外敵だけではない。国内にも《魔女》をはじめとして、不穏分子が跋扈している。ことに女王家に忠誠を誓う公家や領主の集会──公領主議会では、土地の貧富に基づく南西部と北東部の対立が存在するのだ。それは内乱に発展するほど物騒ではないものの、王府や騎士学校などにおける派閥抗争として描かれる。
フェール伯もまた、そうした派閥同士の争いの駒として消費されたのだ──そう、うわさは定説として流布していた。
もっとも伝聞はさらに尾ひれを付ける。
その派閥争いの黒幕として、三英雄の家系たるシュヴィリエールのアスケイロン家や、軍閥を形成する近衛のクナート家などの多数の名前が挙げられているのだ。後者などは〈星室庁〉の中枢のひとり:ラインハルト兵部卿を立てているために、自然と話は大きくなってしまう。
ゆえにだろうか。シュヴィリエールやレアンドルなど、家の名を背負って生きている人間は、そうした社交や政略への事情に、敏感にならざるを得ないのだった。
「……それで? なんの話だ。魔物がどうとか言っていたようだが」
肉をほおばり、上品にスープを飲みはじめたとき、シュヴィリエールは改めてふたりに話題を振った。
そこでアデリナは、昨晩遭遇した女子寮の正体不明の声について話そうとしたが、途中まで言って、彼女は口を開けたまま呆然となった。というのも、最後まで言い切らないうちに、シュヴィリエールの手が止まったからだった。その横顔は不自然なまでに硬直している。
「どしたの」とニース。
「へ?! いや、なんでもないぞ!」
シュヴィリエールの声が裏返っていた。
見れば、彼女の顔には冷や汗が浮かび上がっている。
そんなありきたりな虚勢を、やすやすと見過ごすほどアデリナたちは愚かではない。
「ははーん、なるほど。シュヴィ、おまえ魔獣と戦うわりにこういうのに弱いんだな」
「意外でしたわ。まことに意外でしたわ」
アデリナとニースは意気投合してシュヴィリエールを取り囲む。ぎくりとした彼女だったが、もう挽回しようがなかった。物理的にも精神的にも逃げ場を失った彼女を、さらにニースは追い詰める。まるで日ごろの恨みを晴らしているかのような清々しい笑みで、
「では、こういうのはどうでしょう。わたしたち、心の友であるシュヴィリエール嬢の弱みを克服するお手伝いをして差し上げるというのは?」
「いや、あの……」
「よーし、そうと決まれば今夜だな。予備調査はしておくから、心置きなくきていいぞ。まさか聖刻拝領を志すものが、幽霊なんて怖くはないだろう?」
「……くっ!!」
シュヴィリエールは屈辱に顔を赤らめていたが、首を縦に振る。意地というより、ここまでくると矜持に関わっていたのだった。
よし決まり! と賑わうアデリナとニースを尻目に、彼女は「憶えていろよ……」と独りごちた。それから急に我に返り、複雑な面持ちで遠くを見ていた。そこには食堂の壁に刻まれた〈七曜の神々〉のレリーフが、鮮やかに『神聖叙事詩』第二:楽園の章の神話世界を描き出していた。人類がまだ無垢で、神々と等しく造化の力を持ち合わせていたと言われる美しい時代の物語絵巻を。
神々よ──と彼女は内心で祈った。なぜそう思ったのかは、自分でもわからなかった。
* * *
騎士学校の生徒が昼食を終え、午後の課に向けて移動を始めた頃、王都の外れ──〈導きの塔〉と呼ばれる教導会の総本山にて、密談が交わされていた。
向かい合うのは、ふたりの男たち。
しかし片方が白髯の老人であるのに対して、もう一方は中年を超えるか超えないかの外見をしており、さながら父と子のように年月の離れた間柄に見えた。
時の鐘が重々しい音を響かせている。
ひとつ、ふたつ、みっつ──
よっつ、いつつ、むっつ──
こうして中天ノ刻が告げられる間、ふたりは黙したまま頭の中で思考を整理していたのだった。
「──フェール伯の告発を、あなたはどう受け止めますか?」
やがて沈黙の帳が降りた頃、老人の方から言葉が出た。彼の名はパラディン・トルクと言って、教導会の老師としてこの〈導きの塔〉の管理を預かっているものだった。
対する男──ハルディア・ブラギオルはあごに人差し指と中指を当てて、唸った。椅子の手すりにひじを付くこの男は、〈星室庁〉の中枢のひとりであると同時に、現・女王の摂政を務めている。三英雄家のひとつ:ブラギオルの家系に属しながら、先代の王配でもあった立場を振るっているために、ひとは彼を〈夜の宰相〉と、皮肉を込めて呼んでいた。
「あまり面白い話ではないですな」
柔らかいが節々に棘がある物言いで、彼は応えた。〈星室庁〉の異端審問室で、フェール伯に呼びかけたものと同じ性質のものだった。彼は椅子の手すりにもたれかかって、次第にほお杖を突いていた。
パラディン老師は苦笑した。試すように、椅子に背を預けて言葉をつなげる。
「では、このまま口を封じましょうかね」
「ふざけておられるのか、老師。むやみに断罪すれば公領主議会が分裂してしまいます。フェール伯はあれでも人気者でしたし、タリムのギルド支部とも積極的な関係を築いてくれましたから」
「しかし《魔女》と手を結んだのは確実ですぞ。〈泪の試問〉において、彼はもう『叙事詩』の言葉に何ひとつ心を動かされることがありませんでしたゆえ」
「そう、だからこそ厄介なのです」
密偵たちの調べによると、フェール辺境伯は廃村であるメリッサの地に、《魔女》の隠れ里を設けていたらしい。そこでは〈五姉妹〉のうちふたりの存在が確認され、あまつさえ裏切りの騎士:ラストフ・シュステイムが骨を埋めていたことも判っている。
フェール伯がシュステイム家の後見人の立場であることを考えると当然と言えたが、こうも明確に判ってくると、ハルディアはその仔細を徹底的に掘り下げたくなってしまう。というのも、ラストフ・シュステイムは、ただ《魔女》に寝返った以上の重罪人であったからだ。
『聖剣は、どこにある?』
それは〈星室庁〉の異端審問のときに遡る。ハルディアはフェール伯の罪状を片端から挙げてゆき、それぞれの関連性を指摘したのちに、尋ねたのだった。
かつて神々が〈魔王〉を封じるために鍛え上げ、時を経て、英雄アスケイロンが邪竜の腹わたを貫いたさいに手を持っていたと言われる聖剣:アンスラード。神聖語で〈西日に応えるもの〉という意味を持つこの名剣は、十四年前の事件で行方知れずとなっている。
記録によればラストフが盗んだとされていた。そして彼とフェール伯に連携の事実があるならば、いまなお見つからない聖剣の在り処を知っているはずなのだった。
しかしフェール伯は答えなかった。
話したのは次のような告発であった。
『この国は呪われている。その呪いは女王家に連なる多くの悲しみと共に祓われなければならない』
この言葉の意味を解きほぐすために、〈星室庁〉は多くの時間を費やした。中でも兵部卿のラインハルト・クナートは、拷問をも厭わぬ問い詰めようで迫ったが、ついぞフェール伯の口を開くことはできなかった。
仕方がないのでハルディアは、フェール伯を監獄塔に連行させた。対・魔術師用に設けられた水晶の檻の中に、かつ監視付きで彼を幽閉したのである。
「本来ならば処遇は死罪に値する。謀叛人をかくまい、あまつさえ《魔女》に与した。それで決定的と言っていい。だが……」
「もしあれのもたらした情報がほんとうならば──《魔女》の真の目的が〈魔王〉の復活にあるのだとすれば、われわれは聖剣を見つけなければならない。その鍵を持っているのは、フェール伯ただひとり」
「全く、忌々しいことだ。デニスと言ったか、あの愚か者め、良い報告と悪い報告を同時にもたらしおった。奴も《魔女》の手先ではあるまいな?」
「疑いだしたらキリがありませんよ、ハルディア卿」
「しかし! こればかりは正気を疑わずにはいられない。神話の時代をやり直しでもするのか。愚かで虚しいことだとは思わなかったのだろうか」
「さあて。異教のものの考え方はまるでわかりませぬ」
と、ここでノックの音がした。
パラディン老師が応対すると、扉の陰から現れた若い導師が、こそこそと老師に耳打ちした。老師の顔がたちまちにして強張った。
「どうかしましたか」
「フェール伯の牢獄塔に凶手が入り込んだとのこと。さいわい命に別状はないものの、フェール伯に刃を向けて、現在逃走中だと」
「なんだと! 見張りは何をやっていた!」
ハルディアは立ち上がった。手を拳に握りしめて、わなわなと慄わせる。
これが長い一日の始まりだとは、この時誰も思わなかった。




