3ー1.風の色が変わるころ
「──時が満ちようとしてますわ」
蒼髪の少女:オーレリアがそう呟いた途端、近くに座っていたシレーネがハッと背筋を正した。心なしか表情がこわばっている。しかし固唾を呑むと、ゆっくりとオーレリアのほうに向き直った。前回の任務で力を使いすぎた彼女は、以来オーレリアの側女として世話役を命じられていたのである。
冷たい空気が漂う岩屋の中、魔術の青い火が虚ろに照り映えている。磨かれた岩壁に乱反射する光と影は、さながらふたつの異なる価値観の反映のようでもあった。
「……我らが太母さまが、そう仰せになったのですか、それとも」
「もちろん、御義姉さまからに決まってますわ。当然と言っていいでしょう。このときのためにどれだけの労苦と犠牲を払ってきたことやら……」
シレーネは俯いた。その動きに合わせて、影がそっぽを向く。
向かい合ったオーレリアは、物怖じせずに淡々とつづけた。
「お前は喜ばないのですね、シレーネ。わたくしたちの悲願だったというのに。あなたはあの忌まわしい人狩りを忘れてしまったというの?」
「いえ、そのようなことは」
「ならば、なぜ? あなたはあの英霊の座にあぐらをかいたニンゲンに、すっかり同情してしまったとでもいうの?」
鋭くなじるオーレリアの表情は、目隠しによってその大部分が見えない。しかし言葉の内側にこもるものから、彼女が感情的になっていることが察せられた。
──だが彼女は怒っているのではない。
楽しげに笑っている。それも、獰猛な笑みだ。オーレリアは自覚していないかもしれない。けれどもシレーネは、長年の付き合いから彼女のそうした感情の機微に敏感になっていた。
だから、わかる。
彼女は楽しんでいるのだ、と。
「嬉しくないかといえば、嘘になります。ですが、それと同時に、恐ろしくもあります。いまからわれわれが行おうとしているのは、等しくひとの分限を超えた領域の話。古来の知恵を受け継ぐ魔女の役割を逸脱していますから」
「そうね。でも、誰かがやらねばならないことだわ。誰も神に挑もうだなんて、思わないもの」
「……あなたは恐ろしくないのですか?」
すると、ふふふ、と笑い声が響いた。
自制の効かない、破れ鐘のようにひどい笑い方だった。
それが答えだ。
シレーネは悲しげに首を振った。
「もう、わたしの知っているお嬢様では、ないのですね」
「……あら」と、ここで耳ざとくオーレリアは笑いを止めた。「その呼び方は、禁句だと前にも申し上げたはずですよ、シレーネ」
「わたしにとっては、この想いは変わらずにあります。なかったことにはできませんから」
「ふふ、一丁前に言うようになったじゃないの。召使いのくせに」
オーレリアはなおも微笑む。その程度の言葉でも、みずからの決意は揺るぎはしないのだと暗に示しているのだった。
そのまま彼女は、シレーネに向けて手を差し伸べた。艶かしい仕草でほおに触れる。
「さあ、シレーネ。ヴェラステラと、それから〈姫御子〉を呼んで頂戴な。あの子達もそろそろ遊び飽きたころでしょう?」
「──御意」
シレーネはオーレリアの手を包むように触れ返す。その手を捧げ持つように掲げてから、ゆっくりと退がった。
岩屋を降りると、そこには複雑な天然の迷路がある。いくつかある分岐点を間違えると、たとえ地元の住民でも迷って出てこられない。というのも、魔術の火すらも受け付けない深淵の暗闇と隣り合わせになっているからだった。
シレーネはその中を、迷わず進む。
右の岩壁に手を当てながら、記憶した通りの道筋をたどる。
冬ごもり用に整えられた穴なので、足元にそこまで気をつける必要はなかった。ところどころ高低差はあるが、岩壁に印があるため、転ぶことはない。
暗闇を歩きながら、シレーネはここ二ヶ月のあいだ展開していた〈イドラの魔女〉の活動を思い返す。
騎士団による東部辺境──〈暗森〉の奪取以来、〈イドラの魔女〉およびその下部組織は騒乱の舞台を北へと動かした。べつに重要拠点であったわけではないのだが、全く予期していなかっただけに打撃は大きい。おかげで王都近隣はふたたび平穏が取り戻され、東部の辺境騎士団はまた国境の警備に専念できるようになったようだ。
聞くところによると、対・《魔女》専用の騎士団が創設され、各地に派遣されながら戦線を展開しているらしい。シレーネはあの日から前線に立つことがなくなったので伝聞になってしまうが、結社の密偵を務める衆〈火の娘〉からの連絡で知っている。〈魔女の騎士団〉と呼ばれるかの組織は、あの〈竜騎卿〉:マースハイム・ゴドウィンの監督のもと、日に日に武功を挙げているようだった。
だが、これは必ずしも《魔女》側の不利を示すものではない。
『華を持たせてやっているのだよ』
〈冬将軍〉:イシュメルは、そう言っていた。彼女は北部辺境にたびたび出陣し、魔獣を都市や山村に放つ任務を与えられている。
ふだんは好戦的な気性を振るう彼女だったが、戦場においては冷徹なまでに優れた戦略家でもある。これまで飼いならしてきた魔獣を惜しげもなく投入したかと思えば、じつにあっけなく騎士団に屠らせる。その戦いぶりは浪費とも見えるが、じつのところ、各所ごとに戦った個々の騎士の力量を測る実験台に過ぎなかった。
『奴らは、どういうわけかわれわれの仕組みを掴んで利用しようと目論んでいるようだ。われらが衆同様、十三人を単位とし、連携を取りながら自然物を触媒に魔術を展開している。なるほど、われわれの秘術に通じていれば〈神殿〉を奪うことなど造作もあるまい。よく考えられたものよ』
〈神殿〉──魔術を起動するために必要な空間設定は、こと勢力争いにおいては、単なる陣地や設備以上の意味がある。
《魔女》の言い伝えによれば、魔術とは《記憶》の再現だ。ならばそれを可能とする〈神殿〉という場は、《魔女》側の歴史や文化、伝統を表現した領土そのものになる。
ゆえにそこを侵入し、奪取するということはまさに敵の精神を乗っ取ることに等しい。
『だが……よく考えられてはいるが、しょせん後手だ。彼らはわれわれの術中に嵌っていることに何ひとつ気づいていない。愚かだよ。やはりあの国は、外敵を駆除することしか関心がない愚か者たちの集まりなのか……』
そう呟くイシュメルの横顔には、かつての祖国に対する複雑な想いが錯綜していた。
どんな想いだろう、とシレーネは思う。自分が心と剣を捧げた国家に、全身全霊をもって刃向かわなければならないひとの心を、彼女はいまだに掴めずにいた。
シレーネには故郷はない。もともとふるさとを持たない部族:〈山窩〉の出身だからだ。彼らは、金星と芸能の神ミレイアに祈りながら、この世界──〈叙事詩圏〉のあちこちを転々とする生活を良しとする。いまこうしているのは、本来の山窩のあり方ではなく、人狩りに遭い、オーレリアに手を差し伸べられてからの生き方だった。
ゆえに、彼女にはイシュメルの複雑な心境を理解することができない。
察することはできる。かの〈竜騎卿〉は、かつてイシュメルの師匠だった男だ。だが彼女は、今の今までそのことを話そうとしなかった。皮肉なことに、それが心境の複雑さを表現して余りあったのだ。
──このことを、太母さまはどうお考えなのだろう。我らが《魔女》の大元になったあの方ならば。
しかしそこまで考えたところで、岩屋の出口に差し掛かっていた。シレーネは最後の段差を乗り越えると、光差し込む空き地に入っていった。
まるで庭園のように美しい空間だった。
釉薬を塗ったかのように滑らかな岩壁に囲まれたこの空洞は、喩えるなら壺の中身だ。天井にはぽっかりと穴が空いていて、曇りがちな灰色の空を映し出している。けれどもその光は、こもりの穴に横たわる魔術の火よりも健全で、白々しい眼差しでもって広間のふたりを照らしていた。
片方は、〈氷月の乙女〉:ヴェラステラ。薄紅色の髪を揺らしながら、退屈そうに貴石を配置して遊んでいる。
もう一方は、新たに〈姫御子〉と名付けられた《魔女》だった。広間の片隅で静かに坐禅を組んでいる。女性ならば羨まずにはいられない美しい黒髪を、肩まで伸ばして、まるでほんとうに美少女のようだった。だが、彼は見かけに反して男性──少年だ。
「……わかっているよ、シレーネ」少年は目を閉じたまま、唐突に言った。「ようやく、ボクたちの出番なんだね」
シレーネはその声の響きに戦慄する。
出逢ったときと比べて、すっかり変わってしまった彼の様子に。
美しい少年:ルートのひとみが開かれる。
魔が月のように凶々しくも魅入られる双眸が、紅く閃いて、こちらを向いた。その佇まいにはオーレリアやイシュメルとは違う意味で、ゾッとさせられる。
喩えるならば、底知れぬ柔らかい闇を覗き込むような、うっかり見つめたら自分の懊悩を洗いざらい吐き出してしまいたくなるような、広漠たる視線。
シレーネはそのひとみから逃れるように、頭を下げた。
「はい。教母様から。ヴェラステラ様も」
「え、わたしも?」
きょとんとするヴェラステラ。
シレーネは頷いた。
「だって、まだ時には早いでしょう?」
「おそらく戦況が変わったのだと思われます。詳しくは、我が教母様からお願いいたします」
「あー、なるほどネ……」
ヴェラステラは渋い表情を浮かべる。
あなたもご苦労さま、と。
しかし口から出たのは違う言葉だった。
「わかったわ。行きましょう」
彼女は振り向きもせず、すたすたと歩き出す。ブーツがこつこつと鳴る音が岩壁に響いていくが、それがどこかしら虚勢を張っているようにも聞こえた。
ルートは黙ったまま、静かに後を追う。
ところが、彼はシレーネの傍らまで歩くと、一旦止まった。そして彼女にだけ聞こえる小さな声で、こう言った。
「怖れているの?」
シレーネは飛び退るように振り向いた。
表情がこわばって、目を見開いている。
ルートは妖しげに笑った。
「大丈夫だよ。神サマなんてこの世界には存在しないし、してはならない。ただ自然には運命だけが回り続けているんだよ」
「わたしは、……べつに」
「だから、神殺しなんて大したことではないんだ。ボクたちの行く先を、そう悲観しないでください」
ククク、とルートは笑う。
まるで別人が取り憑いているようだ──とシレーネは思う。じっさいその通りなのかもしれない。彼は前任者であり、かつ母親であった〈姫巫女〉:エスタルーレの血を濃く受け継ぎ、その禁断の《記憶》を理解した唯一の存在なのだから。
それはすなわち──〈魔王〉の再来。
〈イドラの魔女〉の下部組織──〈姫巫女〉の衆が長年集めてきた古代魔法文明の《記憶》は、いまここに結実した。あとはその時が来るのを、ただ待ち、相手方に気取られぬようにするだけだった。
「……あなたは、わかっているんですか。その選択をすることで、どれだけの悲劇が起きうるかを」
「ちがうよ。悲劇はもう起こってる。ただ見えなくなり、なかったことにされただけ」
もう行くよ、とルートは素っ気なく歩み去った。足音が何ひとつ聞こえないまま、闇に吸い込まれるように奥へと消えた。
残されたシレーネは、あらためて壺の底から曇天の灰色を見上げた。よく見れば、その中に白い粒が舞っているようだった。
「風の色が、変わる──」
この世界の人類に冬が来るのだ。
越せるかわからないほどの、猛烈な冬が。