ローゼンベルク王宮
王城の執務室には、雨の音だけが静かに響いていた。
窓辺に立つ男――国王コンラートは、報告を聞きながら雨の続く外の景色を眺めていた。
まだ三十代後半。
父の前王の死後、王太子であった兄に内戦を仕掛け、自らの手で王冠を勝ち取った男。
「雨季にはヴァイセンも侵攻するまい。
その間にカールは山の向こうで戦の準備をしているか」
背後に控える宰相グスタフ・フォン・アイゼルベルクが頷く。
国政への野心を実現する為、王宮で燻るコンラートに目をつけた男。
そして、カールという刃を拾い上げた男でもある。
「はい。彼からピルゼン領の報告が来ました」
国王は薄く笑った。
「あの男から報告書など珍しいこともあるものだ。
任せた以上いちいち報告させるなと言っていたが」
「何やらピルゼン家の次女と交渉し、防衛に係る費用の半分を王政府が持つと約束したようです」
「どれ、見せてみろ」
宰相から受け取った書簡に目を通す。
「出来のいい世子は戦死。老いた当主は優柔不断。世子の妻子と姉妹が後継争いでも始めるかと思っていた」
アイゼルベルクは静かに答える。
「我々もそのように予測しておりました」
「だからこそ、武しか知らぬカールだけを送った」
書簡を机に投げ出し、国王は椅子へ深く腰掛ける。
「ピルゼンのいるアルゼン地方は強敵ヴァイセンとの緩衝地帯だ。
ピルゼンが守れぬなら王家の直轄にした方が良い」
淡々とした声だった。
「伯爵妃の実家も、世子の妻の実家も、兄の派閥。特にアンナの実家など、要職を追われた恨みを募らせている」
その言葉に冷気が混じる。
コンラートの勝利と即位。
だが、その過程は大貴族との妥協の産物。
王兄派は頭を失った。
だが、胴体までは死んでいない。
一掃する時間はない。
国境の向こうにはヴァイセンがいる。
コンラートは和睦を選び、徐々に彼らを切り崩す道を選んだ。
「ピルゼンは王兄派寄りの中立。
しかし、世子がこちらにも誼を通じていた。
あれは有能ゆえに、残すつもりだったが、死んだなら話は別だ」
「ピルゼンが使えるならヴァイセンに当たらせる。使えないなら潰す。
そのためにカールを送った」
有益でなければ潰す。
それだけの話。
アイゼルベルクは静かに続ける。
「彼らもそれほど愚かではなかったようです。
それならばヴァイセンへの備えが順調であり、問題はないかと」
「誰かが動いているか」
「はい」
宰相はもう一通の書簡を差し出した。
「密偵からの報告です」
国王が目を通す。
短い沈黙。
やがて、眉がわずかに上がった。
「……娘?」
「ピルゼン伯爵次女、ルイーゼ。
未婚だったので、カールが動ける根拠を作る為に婚約者としました」
アイゼルベルクは淡々と述べる。
「動揺する領民を抑えて、動員と補給を立て直したとのことです」
「伯爵令嬢が、か」
「王命の婚約を使い、父から代理の権利を出させ、更にカールへの怖れも利用し、領内を掌握したと」
「あれは伯爵家を抑える方便」
国王は小さく笑った。
「まさか、逆に利用されるとはな」
書簡を読み返す。
『円滑に動員を実行。内政を掌握。
カールとの交渉に成功』
簡潔な文だった。
だが、あのカールが貴族の娘を認めるなど考えにくい。
「面白い」
国王は口元を歪めた。
「世の中が乱れれば思わぬ者が世に出てくる。
余や宰相、カールのようにな」
アイゼルベルクも薄く笑う。
「私も少々驚きました」
部屋に沈黙が落ちる。
雨音だけが続く。
やがて国王が低く言った。
「問題はヴァイセンの侵攻とピルゼン家だけではない。カールは諸刃の剣だ」
「承知しております」
「貴様の勧めで、カールを招く時に、奴と約束をした。
有害無益な貴族は潰す。働く者のための世にすると。
余がそれをやらぬと思えば、カールは去るかこちらに刃を向ける」
その言葉は確認だった。
アイゼルベルクは即答する。
「だからこそ、ピルゼンに行かせました。
貴族との交渉もその手で行わせる。
自らの目で見て有害ならば排除し、そうでなければ使えと」
「……そして、婚約という手段。
うまくいけば奴を縛れる…か」
「はい」
宰相は静かに頷いた。
「奴は家も持たず、帰る場所もない。
そして並ぶものがないほど武に優れている」
「ですが、領地と民、そして妻を持てば――」
そこで言葉を切る。
国王は鼻で笑った。
「あの男が安定を求め、貴族になる、か」
誰よりも貴族を憎み、血の匂いを染み付かせたあの男が妻子に囲まれて、屋敷でくつろぐ。
「想像できんな」
アイゼルベルクの眼が細くなる。
「まあ、あのカールが縛られるかは分かりませんが」
国王は再び書簡へ視線を落とした。
ルイーゼ
これまで聞いたこともない名。
名門のピルゼン伯爵家の子と言えば優秀な長男、美貌の長女と三女は聞いたことがある。
国王は書簡から目を上げた。
兄の影。表へ出てこない。
——知っている感覚だった。
兄の死が、その娘を表舞台へ押し出した。
カールを手懐け、国境を支えているのは、その娘らしい。
「様子を見るか」
国王は立ち上がった。
「ピルゼンが持ちこたえるなら、それでいい」
「では、費用の件は」
「カールの言うようにしてやれ。
カールもその娘も動きやすかろう」
窓の外では、雨がなおも王都を濡らしていた。
その遥か南。
国境では、すでに戦が動き始めている。
国王は書簡をもう一度だけ見た。
ルイーゼ。
覚えておく価値のある名かもしれない。




