9.確かなコト
「離れます、ジュリ様!!」
「へっ!?」
「危険です!! 魔王様とリリス様が本気で魔力をぶつけ合ったら……!!」
急速に緊張が増す空気を感じ取って、ヴェール少年が素早く駆け寄ってジュリの手を取り、空中へと飛んだ。
魔王に実力行使を告げられ――大魔女はどう受け止めるのか。受けて立つのか、降参するのか、再び逃亡するのか。その選択を待っていたら遅きに失する。ヴェールの離脱の決断は早かった。
(本当に良く出来た子ね、ヴェール)
リリスは安堵して、一瞥の後に近づいて来るルキに視線を戻した。その一瞬の隙が致命的だった。相手はただの魔族や人間ではなく、実力だけならこの世界で最も強大と言える存在である。臨戦態勢を取られたならば、すでに間に合わない。
(でも……貴方に引導を渡されるのならば、それもいいかもしれない)
迎撃の構えもせず、身を守る意思すら簡単に捨て置き、リリスは無防備に佇む。
本当はずっと罰せられたかったのかもしれない。
大切なひとの幸せを奪い、なおも浅ましく傍にいることを望んでしまった嘗ての自分を。遥かな時を超えて、次元をも超えて、ようやく戻って来た相手の幸せすら、壊してしまい兼ねない今の自分を。
ルキの前から消えるために別の世界に逃げ出そうと卑劣にも考えていたけれど、むしろこの方が手っ取り早いだろう。
(エヴァを死に至らしめた敵として、そしてジュリを排除しようとする邪魔者として、私を処分してくれるなら)
「リリス――」
数秒もしないうちに、ルキの姿が眼前に迫っていた。ごく間近で名を呼ばれ、リリスは呆けたように朱い瞳を瞠く。
ぐらり、と体勢が崩れた。
男の腕が力任せに華奢な肩を掴み、体重が押し付けられる。
リリスは背中から床に倒れた。
頑健な魔族にとって、打ち付けらた衝撃はさほど重くない。痛みもない。土埃により僅かに呼吸を損なっただけだ。
「ル、キ?」
「リリス……」
完全に押し倒された格好になったリリスは、剣呑な面持ちで己の両腕を拘束するルキを凝視した。
お互いの顔など見慣れすぎている。
息がかかるほど近くても、今更なぜ胸の鼓動が激しくなるのか。リリスの困惑した表情がルキの瞳孔に映る。徐々に距離が縮まる――。
気がつけば、唇が触れていた。
「……っ、な」
「黙れ」
一言で命じると、ルキは身動きが取れないリリスの唇を、二度三度ならず強引に奪った。舌先が口腔内を蹂躙する。思いもかけぬ甘さに翻弄され、リリスの全身から力が抜けた。
「っは、ぁッ……」
「……私はお前を手放さない」
リリスが陥落したと悟りようやく執拗な口づけを止めたルキが、強い口調で言い放った。
「お前がいなくなるのなら、魔王の地位も要らん。異世界に行く? いいだろう。どこまでも追ってやる。……リリス、私は」
「もう二度と、愛する者を失いたくない」
脱力して言葉も出ないリリスは、茫然とルキを見つめた。
彼は何を言っているのだろう。
……何を、言いたいのだろう。
「わからないか? 私が愛しているのはお前だ」
「……は? ……っ!」
今度こそリリスは混乱した。
間の抜けた声は再び唇で塞がれる。
「ッ……」
「理解しろ」
「な、にを馬鹿な……貴方には、彼女が。エヴァが……ジュリが」
「ああ」
リリスが不審を抱くのは当然だった。言い訳をするでもなく、ルキは頷く。
「エヴァを愛していた。それは嘘偽りない事実だ。今も彼女への想いが消えた訳ではない」
「じゃあ……」
「だが、ずっとお前がいた。エヴァを失っても私が生き続けられるよう傍にいてくれたのは……お前だったろう?」
「そんなの、それこそ結果論だわ」
「だとしても、私にはお前が必要だった。いや、今も、これからも必要なんだ」
「違うでしょ! 貴方には……ジュリが。エヴァの生まれ変わりが」
「彼女はエヴァ自身ではない。この先たとえエヴァの記憶が戻ったとしても、もう新たな人生を歩んでいる別人だ」
「あれほど……探していたのに!」
「見つけて初めてわかったこともある。お前がいるのに、私が他の女の手を取ることはない」
真摯な告白がリリスの耳元を滑り落ちる。何度も何度もルキはそれを拾い上げ繰り返す。
(信じ……られない)
少しずつ染みるように、リリスの心に言葉が浸透していく。
目眩がした。
思い詰めた挙げ句、儚い幻を見ているのではないのだろうか。
ずっと欲しかったものが――求めて求めて、けれど絶対に手に入るはずのないものがあった。
傍にいたいと、ただそれだけを願うと決めたのに、いつしか耐え切れなくなっていた。身勝手なのは承知のうえで、同じ想いを返して欲しかった。
端から行き場のない感情は、ジュリの出現で完全に進路を見失っていた。
リリス自身すら放棄したそれを、ルキは再び捕まえようというのだ。
(ルキ――)
「観念しろ」
囁きついでに耳朶を甘く噛み、ルキはリリスの抵抗を完全に失わせる。
「愛している」
「……っ……私、も」
「知っている」
嗚咽混じりに応えるリリスと額を合わせ、ルキは魔王らしくなく穏やかに、柔らかく笑った。
+ + +
空中に逃れていたジュリとヴェールは、地上で繰り広げられた大団円を遠目に眺め、ふたり揃って赤面した。
「床ドン! 床ドンですよ!」
「何ですか、それ?」
「リリスちゃんの見た目が若すぎるから、ちょっと魔王が変態ちっくな気がしなくもないけれども!!」
「じゅ、ジュリ様……?」
「ヴェール君にはまだ早いけどねー、いわゆる萌えシチュってヤツです。あああヤバい、きゅんきゅんする!」
何故か激しく興奮しているジュリに、ヴェール少年はドン引きして顔を引き攣らせた。
「え、ええと」
「す、すみません……」
年端もいかない子どもに胡乱な目で見られ、さすがにジュリも我に反って羞恥を抱く。
「あー、まあ兎も角! 犬も食わない夫婦喧嘩も雨降って地固まる的に解決した訳よね? とりあえず良かったわー」
「いや、あのぅ、仰ってる意味は正直わかりませんが……確かに良かったです」
「ほんと良かった良かった……。……んだよね? 待って、あれ? 何か忘れてるような……」
「――あ!」
互いに相槌を打ちながら、ジュリは不意に自身が置かれた状況を思い出す。そういえば自分の帰還の件はどうなるのだろう、と。
「でも今はさすがに、ラブラブなふたりの邪魔はできないしなあ」
馬に蹴られるのはご免だ。
ジュリの科白にまたしてもヴェールが首を傾げる。諺の類いは異世界間で多少言い回しが違うのかもしれない。
「心配なさらずとも大丈夫ですよ」
「そうね、大丈夫よね」
ジュリはヴェールと笑い合い、人騒がせな魔王夫婦を見守った。
荒れていた空はいつのまにか晴れ渡る。
彼女の故郷と同じ澄み切った青がどこまでも広がり、優しい光が世界に満ち溢れていた。
<完>
ありがとうございました