6-5.錨と星亭
アンヌが動けない間、夜は錨と星亭で過ごすことになった。
ベネディクトが「セラマに来たら寄る店がある」と言い出したのは、アンヌの処置が落ち着いた翌日の夕方だった。「食事がいい。アンヌの分も持ち帰れる」というのが理由だった。ダニエルが「珍しいな」と言った。ベネディクトが「たまにはある」と答えた。
港の北側の路地を少し入ったところに、その店はあった。
外から見ると小さかった。看板に錨の絵と星が描かれていた。扉を開けると、声と熱と煙が一緒に来た。テーブルを囲む笑い声、グラスが触れる音、厨房の方で何かが焼ける音。全部が一度に届いた。奥が外見より広かった。テーブルがいくつか並んでいて、奥にカウンターがあった。天井から吊るされた灯りが、黄色い光を落としていた。煙草の煙と、魚のスープの匂いがした。
カウンターの中に男がいた。
五十代くらいに見えた。大柄で、腕に肉がついていた。頭を短く刈っていた。顔に深い皺があったが、目が若かった。その目がベネディクトを見た瞬間、何かが光った。一瞬のことだった。
「久しぶりだな」と男は言った。「生きてたか」
「お互いに」とベネディクトは言った。
それだけだった。二人の間に、長い時間を経た人間同士の空気があった。説明のいらない種類の空気だった。
ーーー
男の名はガレスといった。
ベネディクトが「古い知り合いだ」と紹介した。それ以上は言わなかった。ガレスの方も詮索させない構えがあった。でも愛想は良かった。皿を運んでくるとき、エリカには「よく食う顔だ、好きだよ」と言い、ビリーには「随分と綺麗どころが来たもんだ」と言った。エリカが「ほめ言葉として受け取っとく!」と言い返した。ビリーが「あらぁ、お世辞が上手いわねぇ」と言った。場が和んだ。
私はスープを飲みながら、店の中を見ていた。
客は半分ほど入っていた。船乗り風の人間が多かった。みんな思い思いに飲んで話していた。となりのテーブルから「だから俺が言ったんだよ」という声がして、笑い声が続いた。言葉の半分は分からなかったが、笑い声の種類はどこも同じだった。港町の夜はたぶんどこへ行ってもこういうものなのだろう、と思った。
食事が半分ほど進んだころ、ベネディクトが席を立った。
「少し話がある」とガレスに言った。
ガレスが「ああ」と言って、カウンターの奥へ先に入った。ベネディクトが続いた。
ダニエルは何も言わなかった。食事を続けた。エリカが「どこ行くんですか」と聞いた。「古い知り合いと話すんだろう」とダニエルが答えた。それで終わった。
しばらく、テーブルが静かになった。
「ベネディクトって昔の知り合いが多いな」とエリカが言った。
「そういう仕事をしてきた」とダニエルが答えた。
「どんな仕事ですか」
「お前が聞いても答えない」
「それ、教えてもらえないやつじゃないですか」
「そうだ」
エリカが「なんだよ」と言った。ダニエルが少し目を細めた。怒ったわけではなかった。笑ったわけでもなかった。それがダニエルの返し方だった。エリカが「分かった聞かない」と言って魚に戻った。
私も何も言わなかった。ただ、ベネディクトが奥に入る前に一度だけ視線をダニエルに向けたのを見た。ダニエルが目だけで頷いた。その動きが小さく、速かった。二人の間の、言葉を使わない確認だった。
奥で何が話されているのかは分からなかった。
でも、今夜この店に来たのは食事だけが目的ではないということは、分かった。
ーーー
ベネディクトが戻ってきたのは、食事が終わりかけた頃だった。
表情は変わっていなかった。いつものベネディクトだった。椅子に座り、残っていた料理に手をつけた。
「アンヌの分はもらえるか」とガレスに言った。
「包んでおく」とガレスが答えた。
それだけだった。二人の間で何が話されたのか、誰も聞かなかった。ダニエルでさえ聞かなかった。この船では、聞かないことが礼儀である場面がある。それがここだった。
帰り際、ガレスが扉のそばで私を見た。
「あんたが処置した医者か」と言った。
「そうです」と答えた。
「昨日の子供の親から聞いた。腕がいいそうだな」
何と返すべきか分からなかった。「間に合ってよかったです」とだけ言った。
ガレスが小さく頷いた。「また来い」と言った。ガレスの言葉に嘘はなさそうだった。でもそれだけではない何かがある、とも感じた。この人は何かを見ている。ずっと見ている。笑顔の後ろで、何かを計算している。
路地に出た。エリカが「あの店、また来たいな」と言った。「料理が良かったのか」とダニエルが聞いた。「雰囲気が」とエリカが答えた。ダニエルが何も言わなかった。それで終わった。
船に向かって歩いた。
ーーー
夜、船に戻ってしばらくしたころ、レオノーラの部屋の前を通った。
通りがかっただけだった。声をかけるつもりはなかった。
でも扉の隙間から、光が漏れていた。まだ起きているのだと思った。それだけなら何でもなかった。
扉の外で、レオノーラが止まっていた。廊下に出てきたところだったのか、扉に手をかけたまま立っていた。手に紙を持っていた。封筒ではなく、開かれた状態の紙だった。
「レオノーラさん」と声をかけた。
顔を上げた。いつものレオノーラだった。表情は穏やかだった。
でも目が違った。
何かを読んだ後の目だった。何かが裏で動いているのかもしれない、ほんの一瞬だけそれが見えて、すぐに消えた。
「なんでもないわ」とレオノーラは言った。「少し手紙を読んでいただけ」
「そうですか」と私は言った。
「おやすみ、シェリー」
「おやすみなさい」
扉が閉まった。
廊下に立って、少しの間その扉を見ていた。手紙、と言った。遠いところへ、とセラマに来る前に甲板で言っていた手紙のことを思い出した。あれの返事が来たのか、それとも別のものなのかは分からなかった。
レオノーラの目が、頭に残った。
消えない種類の引っかかりがあった。




