1-1.猫と奴隷商人
太陽が痛い。
露出した肌を焼くというよりも、刺すという感じだった。肌という肌が湿っていた。汗を含んだローブが重くなり、歩くたびに太腿の内側に張りついてくる。首筋から背中にかけても同じだった——薄い布地が皮膚に吸いついて、動くたびに肩甲骨の形を拾う。髪の生え際がひりついて、耳の後ろに熱がこもっていた。自分の身体が発した熱が、逃げ場を失ってローブの中に留まっている。
照り返しが強い石畳の坂道を、私は裸足で歩いている。
一歩ごとに、石畳が足の裏を読んでくる。継ぎ目の角、砂粒の粒度、石の熱。裸足でなければ気づかない地面の細かさを、皮膚が全部受け取っていた。時折、尖った小石が刺さる。刺さるたびに熱が細い線になって足首を駆け上がり——そのまま消えない。痛みのはずが、どこかで変質している。自分の身体の奥に染み込んでいくような、輪郭が溶けるような。正しい痛みの感じ方を、私は知らない。
踏み込むたびに、石が足を知り、足が石を知っていく。
それでも私は立ち止まらない。立ち止まることが許されていないからだ。
目の前に、男の背中がある。
分厚い体格をした人間の男で、歩くたびに腰の革袋がじゃらじゃらと音を立てる。私はその音を聞きながら、少し視線を上げた。坂道の先に海が広がっている。この角度から見ると、水平線と空の境目が滲んで見える。暑さのせいだろうか。それとも私の目が悪いのだろうか。
ここは港町だ。
坂を下った先に船着き場があり、大小さまざまな船が停泊している。帆柱が林のように立ち並んで、潮の匂いが風に混じって鼻をくすぐる。嗅いだことがある匂いだと思った。どこで嗅いだのかは、分からないけれど。
私は自分の両手に視線を落とした。
鉄の輪が両手首に嵌まっている。鎖はないが、輪の重みが常にそこにあって、自由を削いでいる。手首から先に目を向けると、腕は病弱な子供のように細くて白い。袖をまくれば肋が数えられそうなほど痩せている。服は使い古しのローブ一枚で、フードは目の前の男に命じられて被ったままにしている。
私の種族特有の耳を隠すため、だろう。
猫の耳は、人間からするとひどく珍しいものらしい。物心ついた頃から……いや、違う。私には物心ついた記憶がない。気づいたときにはもう、この耳のことを「隠した方がいい」と知っていた。知識と記憶は別物なのだと、最近になって気がついた。
私には記憶がない。
これが今の自分に関する最も重要な事実だった。名前も、生まれた場所も、どうしてこうなったのかも、何もわからない。あるのは知識だけだ。言葉を話せるし、文字も読める。目の前の港がどんな構造で、停泊している船の種類がどう違うかも、なんとなく分かる。でも自分が誰なのかは、まったく分からない。
おかしな話だと思う。でも不思議と、怖くはなかった。
頬に触れる。フードの隙間から、指先で顎のラインを辿ると、頬骨の近くに細い線が何本か走っているのを確かめられる。戦化粧だ。猫族の紋様で、消えないものだと知っている。これも誰かに教わった覚えはないのに、知っている。
前を歩く男が振り返った。
「遅い」
それだけ言って、また前を向く。私は黙って歩調を速めた。
ーーー
坂を下りきると、急に人が増えた。
潮と汗と香辛料が混ざったような匂いが立ち込めていて、様々な種族の声が飛び交っている。人間、ドワーフ、獣人らしき耳や尾を持つ者たち。露店が並んでいて、魚や布や得体の知れない瓶が雑然と積まれている。私はそれらを横目で見ながら、男の後ろをついて歩いた。
視線を感じる。
フードで耳は隠しているが、裸足で鉄の輪を嵌めた少女が歩いていれば目立つのは当然だ。露骨に指差す者もいれば、値踏みするように上から下まで眺める者もいた。私はその視線を正面から受け止めながら、なるべく周囲の情報を集めることに集中した。
怖い、と感じる前に、観察する方が先に来る。これが私の癖らしかった。
港町の規模はかなり大きい。複数の桟橋が伸びていて、荷の積み下ろしが絶え間なく続いている。海軍の旗を掲げた船と、そうでない船が混在していた。そうでない船の方が多い。
男が立ち止まった。
「着いたぞ」
見上げると、石造りの建物の前にいた。入口に人が集まっていて、看板が出ている。私にはその文字が読めた。
――奴隷市場 本日開催――
そうか、と思った。
他に思うことがなかったわけではない。でも今の私には、今の自分の状況を嘆くための過去がなかった。失ったものが何かも分からないのに、失ったと感じることは難しい。だから私はただ、この建物の中で自分がどうなるのかを考えた。
値がつけられて、誰かに売られる。
それは多分、悪いことばかりではないかもしれない。少なくとも行き先が決まる。今より悪くなるかどうかは、買った相手次第だ。
男が私の腕を掴んで、建物の中に引き入れた。
潮の匂いが遠のいて、代わりに香水と人いきれの匂いが鼻を満たした。高い天井の下に、すでに多くの人間が集まっていた。競り台の前に椅子が並べられていて、様々な身形をした者たちがそこに座って談笑している。
私は初めて自分が、この部屋の中でどう映っているかを考えた。
痩せた猫獣人の少女。汚れたローブ。裸足。鉄の輪。頬の紋様。
たいして高い値はつかないだろう、と思った。
男が私を壁際に立たせて、離れていく。競りが始まるまで、ここで待っているのだろう。私は壁に背を預けて、部屋の中を見回した。
窓の外に海が見える。
さっきよりも少し高い位置から見る水平線は、さっきよりも少し遠かった。どこまでも続く青が、この建物の騒がしさとひどく不釣り合いで、それがなんとなく好ましかった。
今日から私の人生が、また何かに決められる。
でも最初から、ずっとそうだった気がする。記憶がなくても、そのくらいのことは分かった。




