改札口の境界線と、甘い請求書
マンションを出て、最寄り駅まで並んで歩く。
朝の通勤時間帯に差し掛かっているせいか、
周囲には同じように会社へ向かう人々が増えてきた。
ふたりの間には、昨夜のような近さはない。
肩が触れそうな距離はしっかりキープし、
会話も最小限。
それなのに、
さっきまで同じ空間で朝食をとっていたことを知っているせいか、
どこか不思議な非日常感が漂っていた。
「……なんか、変な感じですね」
人の流れが少し途切れたところで、
悠人は小声でつぶやいた。
「何が?」
「こうして一緒に駅に向かってるのに、
会社に着いたら“知らないふり”するのかと思うと」
「知らないふりはしないわよ」
意外な返事だった。
「普通に、同僚として接するだけ」
「ああ、そういう意味では」
「ただ、“昨日のことを知らないふり”をするだけ」
彼女は歩きながら、視線を前に向けたまま言う。
「それくらいの演技、できるでしょ?」
「がんばります」
「がんばらないと」
淡々とした口調なのに、
内容は容赦がない。
「今日の顔見てると、そのうち誰かに“どうしたの?”って言われそうだし」
「そんなにわかりやすいですか、自分」
「うん」
即答。
「でも――」
そこで、彼女の声が少しだけ低くなる。
「その“わかりやすさ”、嫌いじゃないから。
ちゃんとバレない範囲で楽しませて」
“楽しませて”。
その言葉に含まれたニュアンスを理解した瞬間、
胸の高鳴りが、また早くなる。
(完全に、遊ばれてるな……)
そう思いながらも、
その遊びに付き合いたいと願っている自分がいる。
駅が見えてきたところで、
氷見が歩みを少し緩めた。
「ここまで」
「え?」
「ここからは、別行動」
彼女は改札を指さす。
「私はあっちのホームから乗る。
佐伯くんは?」
「反対側です」
「じゃあちょうどいい」
彼女は、ふとこちらに視線を向けた。
「じゃあ、ここから先は“同僚モード”ね」
そう宣言すると、
少しだけ顎を引いて、口元を引き締める。
その一瞬で、さっきまでの柔らかさが霧散する。
会社で何度も見てきた、
“周囲に一歩距離を置かせる氷見綾”の表情。
その切り替えの速さに、少し戦慄する。
「遅刻しないように」
それだけ言い残して、
彼女は改札の向こう側へ消えていった。
悠人はしばらく、その背中を目で追ってしまう。
――ルールその二。
“必要以上に目で追わない”。
(朝から違反してるな、俺)
内心で苦笑しながら、
自分も反対側のホームへ向かって歩き出した。
◇
会社に着くと、
フロアにはすでに何人かの社員が席についていた。
「おはようございます」
「おはよう、佐伯くん。昨日遅くまで残ってたみたいだね」
係長の声に軽く会釈して、自席に向かう。
氷見は、すでに自分の席でPCを立ち上げていた。
朝のミーティング用の資料をチェックしているのか、
眉間に軽くしわを寄せている。
その表情も、見慣れたものだ。
――ただ、
“その顔をしている人が、今朝、自分のネクタイを直してくれた”という事実が、
現実感を薄れさせている。
(ちゃんと、普通に……)
意識して、いつも通りのトーンで声をかける。
「氷見さん、おはようございます」
氷見は、キーボードから手を離さずにちらりとこちらを見る。
「おはよう、佐伯くん。
今日、十時から仕様のレビュー、一緒に出られる?」
業務連絡としても自然な内容。
そこには、昨夜や今朝の痕跡は、ひとつも見当たらない。
「はい。九時半までに、昨日の分整理しておきます」
「お願い」
それだけ告げて、
彼女はすぐに画面に視線を戻した。
――完璧だ。
そう思った。
彼女は本当に、スイッチを切り替えるように、
“会社仕様の氷見綾”に戻っている。
(俺も、ちゃんと切り替えないと)
イスに座り、PCを立ち上げる。
モニターの光が目に刺さる感覚に、
いつも通りの仕事モードが戻ってくる。
……はずだった。
数分後、
PCに通知がポップアップした。
《氷見:仕様書の共有フォルダ、URL送る》
社内チャットのメッセージ。
業務連絡のはずなのに、
心臓が微妙に緊張する。
URLと一緒に、短い一文が続いていた。
《あとで、朝のコーヒー代請求する》
その一文に、思わず変な声が出そうになる。
慌てて咳払いでごまかした。
《佐伯:ごちそうさまです、じゃダメですか》
慎重に返信を打つ。
周囲から見れば、ただの軽い雑談にしか見えないはずだ。
数秒後、返事が返ってくる。
《氷見:ダメ。
タダより高いものはないって言うでしょ》
モニターの文字なのに、
彼女の声がそのまま脳内に再生される。
《佐伯:請求内容が怖いんですが》
《氷見:安心して。
仕事で払える範囲だから》
最後に、もう一行。
《――今のところはね》
その“今のところは”に、
ぞくりとするような期待と不安が混じる。
画面を見つめながら、
悠人は改めて自覚した。
(完全に、遊ばれてる)
でも、その遊びに付き合うことを、
自分はもう選んでしまっている。
来週の打ち合わせ。
自分の担当パートを“通す”ことが、
仕事上の責任であると同時に――
彼女との“次のステップ”への条件でもある。
(やるしかない、か)
胸の奥で、小さな炎が灯る。
彼女が用意したルールの中で、
彼女が定めた条件をクリアすることでしか、
その先へは進めない。
それは、少し悔しいようでいて、
同時に、妙にしっくりくるやり方でもあった。
だって――
氷見綾という女は、そういうふうに人を巻き込むのが、
とびきり上手いのだから。
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次回は明日の8時更新です。お楽しみに。




