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形だけ大人になった僕たち  作者: 木痣間 片男(きあざま かたお)
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調子の悪いときくらいあるさ:前世がものすごく幸せだったから

 本シリーズは“一期一会”をテーマに続けているので、独白的に自分のことだけを書いた文章というのはあまりなかった。そこで今回はちょっと趣向を換えて、己の部分に触れてみたいと思う。

 というのは、最近の自分には“迷い”があると感じるからである。なんとなく釈然としない、悶々とした日々を過ごしている。仕事は安定していて、身体の不安もあまりない。確かに母親の健康問題が発生し、多少の心配事や不安はあるが、それとてこう言ってはなんだが、年齢を考えると仕方のないことだ。


 常に気分が優れないどころか、だいぶ悪い。こういうのは一種の“うつ状態”と言えるのかもしれないけれど、医者である自分がそれを言っているようでは先が思いやられる。

 だから、そのあたりを内省しつつ、分析していきたい。己の内面をえぐり出す行為は、自分のなかに溜め込んだモノを外へ吐き出すということにもなるだろうし、ひいては心の平穏へとつながるからだ。

 もしかしたら、そういうのは自分の日記帳にでも留めればいいのだろうけれど・・・・・・、でも、まあいいではないか。とりとめのない話しになるかもしれないが、心の内を語らせてもらう。


 最近の出来事として、まずもって悔まれるというか、残念というか、気持ちに陰を落としている事実は、先日(12月5日)行われたマラソン大会において、ハーフコースを走りきれなかったことである。要するに、途中リタイアだ。

 ハーフマラソンには年に2~3回くらい出場していて、そのたびに多少の優劣はあったものの完走できないということはなかった。そういう意味では、はじめてのリタイアだった。


 確かに予兆はあって、普段のジョギングからペースは上がらなかった。

 走るという行為における調子の悪さというのは、実にわかりやすい。つまりは、すぐに疲れてしまうということである。脚が痛むとか、息が上がるとか、胸が苦しくなるとか、そういう局所的な負荷を感じることもなくはないが、要はスピードを上げると、それに追い付いていくだけの条件を持ち合わせていないということを、身体が警告してくる。


 案の定、本番においても序盤から調子は上がらず、最後方から追随という形を取らざるを得なかった。10キロを越えたあたりからさらに様子がおかしくなり、脚は重く、息切れは解消されず、11キロ地点における急な勾配は何とかくぐり抜けられたものの、そこで力尽きた。強風のあおりを受けた体は急に冷え込み、一気に失速した。何とか速歩で持ちこたえていたが、間もなくそれも維持できなくなり、13キロを過ぎた時点で、耳元で聞こえていた風を切る音は・・・・・・完全に停止した。

 それからリタイアを告げる16キロ地点の関門まではひたすら歩き、そこですべて終了した。

 僕程度のランナーであっても、いや、この程度の走りしかできない人間だからこそ、だいぶ情けない結果だと思った。


 それから、ちょっとしたことかもしれないけれど――あくまで「僕にとっては」という注釈が付くが――、最近いい本に出会っていない。

 こういうのはひとつのご縁だと思うのだが、ネット購入を繰り返しているという理由からか――すなわち、書評だけが頼りという賭けを繰り返しているので――“アタリ”の本を引けていない。できるだけ吟味して買うようにしているが、限界はある。買ってみたけれど、自分の感性とはちょっと違う。

 書店に行くこともあるが、ベストセラーはたくさんあるものの、僕の必要としている本にはなかなか出会えない。

 たとえば“燃え殻”さんの後、最後に面白かったと感じた本に“カツセマサヒコ”さんがあったが、それ以降、夢中になったという本にはめぐり会えていない。仕方がないので、“雫井俊介”さんの『クローズド・ノート』を再読した。大部分忘れていたので、はじめて読んだときのように楽しむことができたのは幸いだった。


 繰り返しになるが、要するにご縁に恵まれなくなったということだ。本でさえこのようなありさまなのだから、映画や音楽、漫画やアニメといったジャンルにおいては、言わずもがなである。

 こんなことを言ってしまうと読んでもらっている読者に申し訳ないが、こうした自分のなかでの“文化度”が下がると、当然書くパフォーマンスも下がる。最近の僕の投稿が、かなり限定的な内容に偏っているのはそういう理由だ。


 ご縁といえば、“恋”においてはどうだろうか? まあ、いくつになってもそういうのも大事だと思うが、これに関しても、いまいちパッとしない。

 周囲にはもちろん素敵な女性が何人かいて、恋に発展する、しないは、いくつかの障壁を乗り越えなければならないから、そこまで期待しているわけではないけれど、せめてちょっと飲食をともにするとか、軽くドライブに出かけるとか、共通のイベントに参加するとか、そういうことも、最近は・・・・・・いっさいない。


 いままでの僕だったら、こういうときの奥の手として、“買い物”があった。仕事で使う洋服やら文具やらを買っている限りにおいては、無駄にはならない。が、オンラインを主流とするいまの風潮に対して、そうしたものの需要もほとんどなくなった。

 買っても使用目的が見出せず、物欲すら湧かなくなった。節約になるから、それはそれでデメリットばかりではないのだが・・・。


 さらにこういうときの奥の、さらに奥の手として、“芸術鑑賞”があった。美術やクラシック音楽、芝居などを観ると、躍動感によってテンションが上がるのだが・・・・・・、こういうのも、なんとなく行く気がしないでいる。そうした趣味を共有できるツレが、いまはいないということも大きい。


 医療にマンネリというのは、一番あってはいけないが、正直言うとそういう感覚もないとは言い切れない。

 充実感が足りない、満足感が得られない、達成感が湧かない、そう考えるとかなり重症で致命的だが・・・・・・、ただまあ、こうして分析できて、書けているうちはまだマシなのかもしれない・・・・・・。


 マラソン大会の話しに戻るが、あそこが痛い、ここが苦しいといった肉体的悲鳴がなかったも関わらず、勝手に脚が動かなくなったということは、体力というよりも、メンタリティの要因が大きいと考えられる。現に翌日になっても、翌々日になっても筋肉痛などはいっさいなかった。

 一言で言えば、軽い“イップス”に近いのかもしれない。イップスが心の病とする説もあれば、そうでないという説もあり、一定の見解をみていないが、いずれにせよ、なんらかの理由によって動作に支障をきたし、突如自分の思い通りの走りができなくなったのは間違いない。


 かつての知り合いがこんなことを言っていたのを想い出した。

「あー、最近なんか充実していないなぁと感じるようになったのは、おそらくアタシの“前世”がものすごく幸せだったからと思っているんだよね」


 昔、ちょっとだけ付き合いのあった、いまは40過ぎくらいになっている女性の言葉だ。

 皆、誰もがハッピーに充実して暮らせているわけではない。どこか満たされず、何かが足りず、得も言えぬ不安に苛まれることだってあるだろう。そんなときは前世のせいにでもして、時間が解決してくれるのを待つだけだ。


 久しぶりに、その彼女に連絡をしてみた。

「年末か年始か、時間があるならちょっと会いませんか?」

 別になんの脈絡もない、その後どんな暮らしをしているのか、いまは充実しているのか、そんなことを尋ねてみたくなったからだ。

「年末年始は・・・、仕事もバタバタ残っているし、家族(娘や息子)と会うからあんまり時間がないけれど、もちろんいいですよ・・・・・・」

 現世の彼女も・・・、いまはどうやら充実しているらしい。

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