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「優しすぎる」と捨てられた僕の隣には、もう君の居場所なんてない  作者: ledled


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第6話 決別の夕焼け、そして新しいページ

秋の深まりを感じさせる冷たい風が、並木道の枯れ葉をカサカサと音を立てて転がしていく。

空はすでに茜色に染まり始め、西の空に沈みかけた太陽が、街全体をノスタルジックなオレンジ色で包み込んでいた。週末の夕暮れ時、駅前の大通りは買い物客やカップルで賑わい、あちこちから楽しげな笑い声が聞こえてくる。


「佐藤さん、見てください! あのケーキ屋さんのディスプレイ、すっかりハロウィン仕様になってますよ。かぼちゃのお化け、すっごく可愛いです」


隣を歩く彩香が、ショーウィンドウを指差して弾んだ声を上げた。彼女の明るい笑顔が、夕暮れの光を受けて柔らかく輝いている。俺は彼女の視線の先にある可愛らしい装飾に目をやり、自然と頬を緩めた。


「本当だ、よく出来てるね。帰りに寄って、あのパンプキンタルトでも買って帰ろうか」

「賛成です! この前プロジェクトがひと段落したお祝いも兼ねて、今日はちょっと贅沢しちゃいましょう。後でアウスタに載せる用の写真も撮りたいですし」


彩香は嬉しそうに目を細め、俺と繋いでいる手に少しだけ力を込めた。その温もりが、コート越しにもはっきりと伝わってくる。俺もまた、彼女の小さな手を優しく、しかし確かな力で握り返した。


彩香と付き合い始めてから、半年以上の月日が流れていた。

その間の俺の人生は、以前の灰色のどん底からは想像もつかないほど鮮やかで、充実したものになっていた。仕事では彩香との完璧な連携のおかげで、担当していた大型プロジェクトが大成功を収めた。社内での評価も上がり、今では新しいチームのリーダーを任されるまでになっている。


かつての俺は、他人の顔色ばかりをうかがい、波風を立てないことだけを「優しさ」だと信じ込んでいた。だが、彩香が教えてくれた。相手と正面から向き合い、時には意見をぶつけ合いながらも、共に最善の道を探していくこと。自分の意志を持ち、大切なものを全力で守り抜く強さを持つこと。それこそが、本当の意味での誠実さであり、本当の「優しさ」なのだと。


彩香と一緒にいると、俺は自然体でいられる。無理をして自分を殺す必要もないし、見栄を張る必要もない。彼女は俺の長所も短所もすべて理解した上で、ありのままの俺を受け入れてくれている。休日の過ごし方も、どちらかが一方的に合わせるのではなく、二人の意見をすり合わせて決める。メッセージアプリのMINEでのやり取りも、かつてのような義務感や不安はなく、ただ純粋に相手との繋がりを楽しむ温かい時間になっていた。

俺もまた、彼女の明るさや仕事に対する真摯な姿勢を心から尊敬し、彼女のすべてを愛おしく思っていた。俺たちはお互いを高め合える、最高のパートナーだった。


「佐藤さん、今日のご飯どうしますか? ケーキを買うなら、夕食は少し軽めにして……」


彩香が楽しそうに夕食の提案をしてくれている最中だった。

駅前の大きな交差点に差し掛かり、信号が赤に変わったため、俺たちは足を止めた。行き交う人々が横断歩道の前で立ち止まり、周囲は少し混雑している。


その時、ふと視界の端に、奇妙な違和感を覚えた。

信号待ちをしている人混みの中から、こちらをジッと見つめている視線を感じたのだ。俺は何気なくその方向へ顔を向け、そして、呼吸を止めた。


そこから数メートル離れた街灯の下に、一人の女性が立っていた。

季節外れの薄手でヨレヨレのカーディガンを羽織り、髪は手入れされていないのか毛先が傷んでパサついている。顔色は土気色で、目の下には濃い隈が張り付き、かつての華やかな面影は見る影もない。うつろな目で周囲を見回していた彼女の視線が、俺を捉えてピタリと止まった。


見間違えるはずがなかった。

俺がかつてすべてを捧げ、そして残酷に捨てられた相手。元婚約者の、美咲だった。


ドクン、と心臓が一度だけ大きく跳ねた。

だが、それはかつてのような未練や、裏切られた怒りからくるものではなかった。ただ、純粋な驚きだった。あのプライドが高く、常に自分を美しく見せることに執着していた彼女が、どうしてこんなにもボロボロの姿になっているのか。その落差があまりにも激しかったからだ。アウスタで華やかな日々をアピールしていた彼女と、目の前にいる疲弊しきった女性が、どうしても結びつかなかった。


「……健太……?」


人混みのざわめきを縫うように、掠れた細い声が聞こえた。

美咲は信じられないものを見るような目で俺を見つめ、フラフラとした足取りでこちらへ近づいてきた。


俺の隣にいた彩香も、俺の異変と近づいてくる美咲の存在に気づいたようだ。彩香は美咲の顔に見覚えはないはずだが、彼女が放つただならぬ雰囲気と、俺の強張った表情から、すぐに状況を察したようだった。彩香は何も言わず、ただ俺と繋いでいる手をさらに強く握りしめてくれた。「私はここにいますよ」と、無言で伝えてくれているように。


「健太……健太だよね……?」


数歩の距離まで近づいてきた美咲は、潤んだ目で俺を見上げた。

近くで見ると、彼女の消耗具合はさらに痛々しかった。頬はこけ、唇はカサカサに乾燥している。以前は俺とのデートのたびに完璧なメイクを施し、香水をつけていた彼女から、今は微かな生活の疲弊と、アルコールの入り混じったようなすえた匂いが漂っていた。


「久しぶりだな、美咲。……どうしたんだ、その格好」


俺が冷静なトーンで問いかけると、美咲の目からポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。彼女は周囲の目も気にせず、その場に泣き崩れそうになるのを必死に堪えているようだった。


「健太……会いたかった……。ずっと、ずっと探してたの。MINEでメッセージを送っても既読にならないし、電話も繋がらなくて……。アウスタのアカウントも消えちゃってて……私、どうしていいか分からなくて……っ」


嗚咽を漏らしながら、美咲は震える手を俺のコートの袖へと伸ばしてきた。

以前の俺なら、彼女が泣いているのを見れば、理由も聞かずに慌てて抱きしめ、慰めていただろう。彼女の悲しむ顔を見るのが何よりも辛かったからだ。

だが、今の俺の心は、冬の湖面のように静まり返っていた。彼女の涙を見ても、胸の奥が痛むことは一切なかった。


俺は彼女の手が触れる直前で、静かに一歩後ろへ下がった。

空を切った美咲の手が、虚しく宙をさまよう。


「……俺を探して、何の用だ。俺たち、もうとっくに終わった関係だろう」


冷たく突き放すわけでもなく、ただ事実を淡々と述べる俺の態度に、美咲はビクッと肩を震わせた。


「違うの、違うの! 私、間違ってた……! 健太の優しさが退屈だなんて言ったこと、本当に後悔してるの。翔太は……あいつは最悪だった。私を家政婦みたいに扱って、すぐ別の女のところに逃げて……私、あいつに全部奪われて、捨てられたの……」


美咲の口から次々と溢れ出すのは、自分がいかに悲惨な目に遭ったかという言い訳と、同情を引くための言葉ばかりだった。

翔太との刺激的な生活を望んで俺を捨てた彼女が、その刺激に裏切られてボロボロになり、今度は俺の「優しさ」という安全な場所に逃げ込もうとしている。その身勝手な論理に、俺は呆れを通り越して、ある種の哀れみすら感じていた。


「健太がどれだけ私を大切にしてくれていたか、失って初めて分かったの。健太のあの優しさがないと、私は生きていけない……。お願い、もう一度やり直して! 今度こそ、絶対に健太を裏切らない。健太の言うこと、なんでも聞くから! だから……見捨てないで……!」


美咲は両手で顔を覆い、しゃくり上げながら必死に懇願した。

その声は悲痛で、周囲の歩行者たちが何事かとチラチラとこちらを窺っている。だが、彼女はそんな羞恥心すら捨て去り、ただ俺という命綱にすがりつこうとしていた。


『健太は優しすぎて、物足りないの』

『私を尊重してるんじゃなくて、決断から逃げてるだけ』


あの日、あの喫茶店で彼女が放った冷酷な言葉の数々が、俺の脳裏に蘇る。あの時の彼女は、自分の選択に絶対の自信を持ち、俺のことを見下して嘲笑っていた。

それが今、自分勝手な理由でどん底に落ちた途端に、俺の足元に這いつくばって復縁を乞うている。これが、かつて俺が人生のすべてを懸けて愛し、結婚を誓った女性の本当の姿だったのだ。


俺は小さく息を吐き出し、美咲を真っ直ぐに見下ろした。


「美咲。君が翔太とどうなったか、君が今どれだけ辛い状況にいるか。それは俺には一切関係のないことだ」


俺の静かで、しかし一切の温度を持たない声に、美咲は顔を上げ、すがるような目を向けた。


「嘘……健太は優しいじゃない。私がこんなに苦しんでるのに、助けてくれないの……?」

「俺の優しさは、もう君に向けられることはない。君のMINEをブロックしたのも、アウスタのアカウントを消したのも、もう君とは二度と関わらないという俺の決意だ」


俺ははっきりと、迷いのない言葉で告げた。

その言葉が、美咲の胸に深く突き刺さったのが分かった。彼女の顔から、微かに残っていた希望の光がスーッと消え失せていく。


「君はあの日、俺の優しさを『退屈だ』と言って捨てた。そして、俺自身もその言葉に傷つき、自分を否定しそうになった。でも、俺は気づいたんだ。俺の優しさは、決して自己満足でも、逃げでもない。本当に大切な人を守るための、俺の強さなんだってことを」


俺はそう言いながら、隣で静かに寄り添ってくれている彩香の手を、さらに強く握りしめた。

俺の言葉を受けた彩香は、俺の顔を見上げて、深く、確信に満ちた微笑みを浮かべた。彼女の瞳には、一切の不安も迷いもない。俺のすべてを信じ、この場を俺に委ねてくれている。


俺は再び美咲へと視線を戻した。


「俺は今、心から愛する人と一緒にいる。彼女は俺のすべてを肯定し、俺と一緒に歩んでくれる大切な人だ。俺がこれから先、一生を懸けて優しさを注ぎ、守り抜くのは、彼女だけだ」


美咲の視線が、俺と彩香の繋がれた手へとゆっくりと移動した。

そして、彩香の落ち着き払った、凛とした佇まいを目の当たりにし、美咲の顔が絶望に歪んだ。彩香が放つ穏やかで温かいオーラと、俺と彼女の間に流れる絶対的な信頼感。それは、かつて美咲が俺との間に築くことができなかった、あるいは自ら壊してしまった「本物の絆」だった。


美咲は震える唇を開き、何かを言おうとしたが、言葉にならなかった。

ただ、自分が手放してしまったものの大きさと、二度と取り戻せないという残酷な現実を前に、その場に立ち尽くすことしかできなかった。


「君も、過去にすがるのはもうやめるんだ。自分の犯した過ちの代償は、自分で背負って生きていくしかない。俺の隣には、もう君の居場所なんてないんだ。……さようなら、美咲」


俺は最後にそれだけを告げ、美咲から視線を外した。

これ以上、彼女にかける言葉は何もない。怒りも、恨みも、悲しみもない。俺の中で、美咲という存在は完全に過去のものとして消化され、消え去ったのだ。


「行こうか、彩香ちゃん」

「はい、佐藤さん」


俺が声をかけると、彩香は力強く頷いた。

俺たちは、呆然と立ち尽くす美咲の横を通り過ぎ、再び歩き出した。

すれ違う瞬間、美咲から微かな嗚咽が漏れたような気がしたが、俺は二度と振り返らなかった。振り返る必要など、どこにもなかった。


交差点の信号が青に変わり、俺たちは人混みの中へと足を踏み入れていく。

後ろから聞こえていた美咲の泣き声は、街の喧騒に紛れてすぐに聞こえなくなった。すべてを失い、一人ぼっちで夕暮れの街に取り残された彼女が、この先どう生きていくのか。それは彼女自身が背負うべき代償であり、俺が関与する領域ではない。


「……佐藤さん」


少し歩いたところで、彩香がふと俺の顔を見上げて声をかけてきた。


「ん? どうしたの?」

「さっきの佐藤さん、すごくかっこよかったです。……あんな風に、私のことを言ってくれて、嬉しかったです」


彩香は頬をほんのりと赤く染め、少し照れくさそうに笑った。

その笑顔があまりにも愛おしくて、俺は思わず足を止め、彼女の方へと向き直った。


「本当のことだからね。俺は、君に出会えて本当に良かった。君がいなかったら、俺は今でも暗闇の中で自分を責め続けていたと思う。……俺を救ってくれて、本当にありがとう」

「私もです。佐藤さんの優しさに、いつも救われています。……これからも、ずっと私のそばで、その優しさを独り占めさせてくださいね」


彩香の言葉に、俺は心の底から込み上げてくる温かい感情を抑えきれず、彼女をそっと抱き寄せた。街中だということも忘れて、ただ彼女の存在の確かな重みと温もりを感じたかった。

彩香も俺の腕の中で、嬉しそうに背中に腕を回してくれた。


西の空に沈みかけていた太陽が、最後の強い光を放ち、街をドラマチックな黄金色に染め上げている。

かつて、美咲と翔太の裏切りを目撃し、絶望に打ちひしがれたあの黄昏時。世界が色を失い、冷たい灰色の底に沈んでいったあの日の記憶は、もう今の俺を苦しめることはない。

この夕焼けは、終わりの象徴ではない。過去との完全な決別と、明日へと続く新しい始まりを告げる、希望の光だった。


「さて、それじゃあ美味しいケーキを買いに行こうか。君の好きなパンプキンタルト、売り切れてないといいけど」

「大丈夫ですよ! 私、歩くの早いですから! 買えたら、絶対にアウスタにアップしちゃいます」


俺が腕を解いて笑いかけると、彩香は元気よく歩き出した。

俺はその少し前を歩く彼女の小さな背中を追いかけ、再びその手をしっかりと握った。


過去の傷跡は、もう痛まない。

俺が失ったものは大きかったかもしれないが、それ以上にかけがえのない、真実の愛を掴み取ることができたのだから。

二人で歩む未来は、どんな困難があっても、きっと温かく優しい光に満ちている。

そんな確信を胸に抱きながら、俺は彩香と共に、新しいページへと続く光の中を真っ直ぐに歩き続けた。

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