10万馬券と紙吹雪、勘違いな桜花賞(4)
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そして話は『阪神牝馬ステークス』のレース後へと進む。
『阪神牝馬ステークス』では優が的中馬券を間違えで買い損ねていた。
その土曜の夜、ダイニングで優は背伸びして体を解していた。
まだ、昼間に果凛からコブラツイストをかけられた痛みが残る。
シェアハウスの住民は鞍さんの作る夕食を無言で待っていた。
今日は軽めで月見うどんだという。
『競馬予想大会』がこのシェアハウスの名物だ。
G1前日夜に競馬好きのシェアハウス住民全員による競馬の予想大会だ。
鞍さんが腕を振う料理を肴に飲めや歌えの競馬談議が繰り広げるらしい。
『らしい』というのは、優がこのシェアハウスで初のG1が明日の桜花賞で参加したことがないからだ。
本来は今晩の『競馬予想大会』デビューするはずだった。
だが、珍しくG1前日の競馬予想大会はお流れとなった。
暗雲低迷のシェアハウス、主催者の鞍さんでさえ予想大会の中止を宣したくらいだ。
土曜日の競馬でハシャギ過ぎたりすると『やらないこともたまにはある』とは冴さんの話だ。
冴も果凛も週末の予想大会の中止は『何年か前にあったかな、忘れた』というレベルだ。
優がシェアハウスに住んで最初の週末、クラッシック競走の開幕である桜花賞の『競馬予想大会』がまさかの中止である。
まさに今日、土曜日は波乱の一日だった。
10万馬券を的中させた大興奮までは良かった。
だが、優が配当21万7千円の馬券を買い損ねる大トラブルは、住民たちをキリキリ舞いにしていた。
人は欲深い。
先に10万馬券の的中より、後の21万7千円の幻の方が堪えている。
その晩、夕食時には住民四人でうどんをすする音のみがダイニングに漂った。
優が10万馬券の主軸ファストライフを選んだ立役者ではなかったら、今晩はシェアハウスにいられなかっただろう。
『競馬予想大会』の『波乱含みの結末』は嫌な予感の通りだ、優は今を感取する。
鞍さんは来週の皐月賞、競馬予想大会を絶対にすると息巻いていた。
日曜の朝、ダイニングで住民たちの朝食を迎える。
鞍さんは土曜日を忘れましょうというようにテンションが高かった。
冴にレシステンシアとデアリングタクトの馬連を100万円買っちゃおうかと戯ける。
『いいんじゃない?』冗談だと分かっていても冴はそのテンションに乗り、シェアハウスの雰囲気を盛り上げようと協力する。
果凛も感情的になって乱暴して悪かったと優に謝った。
優もスマホの操作ミスによる馬券の買い間違いを住民たちに詫びる。
鞍さんは気丈にも大丈夫よと言いつつ、スマホでのネット投票の操作を優に願い出る。
彼に対する思いやりは、皆のささやかな認知を得てはいる。
なんとなく、住民連中はお互いに薄ら笑いをし、取り繕うように距離を測っていた。
こういう時に限って、波乱は向こうから襲って来る。
『桜花賞』の『波乱含みの結末』
まだ、誰もそれは分からない、ほんの少し先の話だった。
日曜午後、テレビは桜花賞のゲート前の輪乗り運動を映していた。
住人四人は発想直前の桜花賞を放心して眺める。
G1のゲートイン直前なんてゴール前の接戦に並ぶくらいのドキドキがある、はずだった。
今、テレビの前では桜花賞出走各馬のゲートインが始まる、奇数番から偶数番へ。
ところが、だ!
冴は脱力して肩を落としていた。
鹿の子ワンピース着ていた果凛は怒気を含めて腕組みをし、一人の男に目線を刺す。
意識の先の優は縮こまっていて、鞍さんの憐憫の目線がもの悲しい。
ほんの一分前まで、鞍さんは心を砕きながらリビングを盛り上げていた、だが。
「また、馬券を買い間違えやがって…」
果凛が繰り返し三度目の台詞を吐くと、鞍さんが優しく肩を撫でる。
やっと浮かべる笑みで、落ち着いて静かにねと右手の人差し指を立てて口を塞ぐ。
レースが始まるからなのか優に配慮してなのかは分からないが。
鞍さんの結論は9番デアリングタクトと17番レシステンシア、馬連一点1万円となる。
鞍さんのポリシー上、一つの買い目の上限は原則1万円だ。
優は鞍さんのスマホを操作し、9番人気の3番スマイルカナと2番人気の9番デアリングタクトを買っていた、いや、買い間違えていた。
馬連一点1万円を、だ。
本来は果凛のピックした17番レシステンシアと冴の一押しの2番デアリングタクトだ。
気づいたのはスマホの持ち主である鞍さんがふと購入履歴を確認した時だった。
返し馬を見てから締め切り直前で投票したのがいけなかったのだろうか。
優は『9番デアリングタクト』と『9番人気』を意識したという。
『9番デアリングタクト』を押した後、『9番人気スマイルカナ』の『3番』を押してしまったとのことだ。
スマイルカナも逃げ先行馬でレシステンシアとイメージが被って気付かなかったということだ。
焦って、そう操作したと、優は言い訳した。
理解し難く、何でそんなことするの、というレベルだ。
鞍さんの優に対する配慮が裏目に出た。
スマホでのネット投票、馬鹿みたいに再び買い間違えるとは。
締め切りの後では、馬券が追加で買えるはずもなく、冴を失意のどん底へと突き落とした。
果凛が優の後ろから首に腕を回し左右を挟み、プロレス技、スリーパーホールドを実演するのが精一杯だ。
鞍さんがその狼藉を止めに入ったのは言うまでもない。
ただ、咳き込む優の苦しみは暫く続いていたが。
レース前、果凛と冴は偶然にも縁がある馬を吟味する。
「スマイルカナねぇ。先行して自分の競馬が出来ればだけど」
果凛は賭けた馬に淡い期待を抱く。
他馬に邪魔をされずにマイペースで先行できるかがポイントだという。
冴はダメと思う時に案外上手くいくかもと肩を叩いて果凛を励ます。
優から取り上げた鞍さんのスマホを手にして、冴はゲートが開くのを黙って観ていた。
ゲートが開くと最内枠のナイントゥファイブがスタート良く飛び出す。
買い間違えたスマイルカナが外からダッシュしハナを奪って逃げ、続くはマルターズディオサとなる。
レシステンシアが今日は逃げずに4番手、内はサンクテュエール。
デアリングタクトは後方だ。
果凛は逃げないレシステンシアを『この競馬で正解なのか』と無言で見詰める。
3コーナーではレシステンシアが2番手へと進出する。
背景には少し寂しそうな桜が流れる。
重馬場でレシステンシアが控えた競馬で600m34.9秒。
スマイルカナ4コーナーを回ると、レシステンシアがマークする。
直線、スマイルカナが予想以上に粘り、レシステンシアを引きつけていて、デアリングタクトが一気に後方から追い上げる。
デアリングタクトはこの位置で、その走りで、ポーコ・フォルテで伝わるのか、届くのか。
先頭では、スマイルカナとレシステンシアのデュエットが続く。
デアリングタクトは厳しいか。
デアリングタクトは騎手の両手が手綱をしごく。
必死の右ムチは美しき指揮棒となり、一完歩ずつ先を詰めにかかる。
ポーコ・ア・ポーコのクレッシェンドの音色が上行する。
そして、加速が続くアッチェレランドとなる。
「そのまま、そのままで頼むーっ」
「差せ、差してくれーっ」
果凛と冴はスマイルカナとデアリングタクトへ大声援を送る。
レシステンシアがスマイルカナに並び、抜き去る。
デアリングタクトの猛追、極めて速いプレスティシモを響かせる。
ついにデアリングタクトがレシステンシアを捉えきる。
声援の大音響、ピークが1馬身半差の壮大なゴール、堂々たるグランディオーソを迎える。
2着はレシステンシア、さらに1馬身と3/4離れて3着はスマイルカナだ。
「デアリングタクト、凄い」
全てを忘却の彼方へ追いやり興奮する冴は優に右手の親指を立て、同じ想いを伝える。
「2着は惜しかった。あそこまで来たら2頭に差されて欲しくないけどなぁ」
スマイルカナの頑張りに果凛も心地良い残念さを浮かべる。
買い間違えた馬券は1着3着、馬連としては惜しくもハズレだ。
ただ、いいレースを観戦した満足感を住民たちは共有していた。
冴が何気に鞍さんのスマホをタップすると、果凛が気になると覗く。
馬券の結果を踏まえた姉妹はさすがに吐息を天井に向け、脱力した背中をソファーに沈めた。
2人の姿を見た優がソファーの右脇のオットマンで無言を噛みしめる。
突然、冴がソファーを飛び跳ねる。
あの冷静な彼女が興奮で息を荒くしていた。
『こんなことって…』と驚きを響かせた冴がスマホを皆に突き出した。
何ごとかと顔を集める住民たちだ。
「当たってます、ワイドで。1,000円ですけど」
購入馬券は馬連でなく、実はワイドだという。
ワイドは1・2着、2・3着、1・3着を当てる馬券で、1着9番デアリングタクトと3着3番スマイルカナで的中していた。
ただ、賭け金は1万円でなく1,000円、ワイド3番9番の配当は2,880円、28.8倍で2万880円の払い戻しだ。
こんなことなんてあるのかという感じで住民たちは目を見開いた。
「夕食はお外にしましょうか」
スマホと賭け金の主である鞍さんがトレードマークのエプロンを脱ぐ。
「偶然が重なってますからね。1万円を賭けていたら、当たっていないのかと」
そんなもん、そんな気がすると鞍さんが感を披露した。
その感じは馬券を欲張って追加購入した時に的中しないのや気楽に小額を賭けた時に的中するのに似ている。
住民たちはそうかも知れないと感覚を理解し共有する。
「鞍さん。お寿司はどう?回らない方で」
冴が鞍さんにウインクを投げる。
「焼き肉。肉が食べたーぃ」
果凛が口をほころばし、犬歯を光らせる。
「あの、僕は…」
場の雰囲気に安堵した優に果凛の厳しい視線が注がれる。
「優に物言う権利があるのかよ?」
果凛が回し蹴りを一閃、眩しい太ももを覗かせる。
優は少しの眼福と心地良い痛みを堪能していた。
冴が昨日の濃厚チーズケーキを頂こうと提案すると果凛は二つ返事で賛成した。
「来週、皐月賞の予想大会が楽しみです」
鞍さんは満面の笑みで両手を大きく広げた。
このシェアハウスでの生活、競馬の予想大会を実施することに意義があると宣する。
「私も料理に腕を振いますから、優くんもデビュー戦を期待してくださいね」
そう言いながら鞍さんが『来週はもう一人シェアハウスの住民が増えますよ、仲良くしてくださいね』と付け加えた。
「ああ、あの子か。三月に一度シェアハウスに入居した…」と冴が思い出す。
「…新潟の実家に一度帰ったよね」と果凛が追従する。
「はい、明日に深川のシェアハウス戻るって連絡がありました」
シェアハウスは東京・深川、永代通りと葛西橋通りの間、平久川の側に位置している。
鞍さんが『仲間が加わります』と優に向く。
『どんな人なんですか』と問うが、鞍さんは『当日まで、ナイショ♡』と笑みを浮かべる。
「その方が面白いでしょ」
鞍さんはそう言うと『でも、優くんと性格が合うと思いますよ』とも補足した。
優はこのシェアハウスでの暮らしの始まりと仲間になる人物に思いを馳せる。
『その方が面白いでしょ』という鞍さんの台詞は、振り回される将来を如実に現わすことになる。
今週末の出来事は波乱万丈なシェアハウスでの騒動と競馬の序曲、オーヴァーチュアに過ぎなかった。
優がそれに気付くには、あと少しの猶予となっていた。
参考文献
楽譜がすぐ読める 名曲から学べる音楽記号事典 CD付き
監修 齋藤 純一郎
ナツメ社
ヘアゴム1本のゆるアレンジ
著者 工藤 由布
セブン&アイ出版
今さら聞けないヘアスタイル&ケアの正解
著者 宮村 浩気
主婦の友社
桜花賞版今回で終了です。次は皐月賞を予定しております。毎日20時更新予定ですが9月13日は8時と20時更新予定です。
この小説はフィクションであり、過去および現在の実在する人物・組織・馬などにはいっさい関係ありません。




