10万馬券と紙吹雪、勘違いな桜花賞(2)
縁側のある南側の庭からリビングへ注ぐ春の陽光は気怠さと眠気を誘う。
そのリビング入口付近、住人達の熱い目線が注がれる85インチ8K液晶テレビが壁に掛かり、競馬中継を待っていた。
L字ソファーには窓側短辺にはセーラー服の果凛、テレビが正面の長辺には濃紺ピンストライプパンツスーツの冴。
ソファーの右、オットマンにはグレーのパーカー姿の優が座る。
制服姿の果凛が、本来ならば土曜は高校で軽音部の活動日だったという。
冴は競馬が終わったら、夜に出かけて仕事だと顔を澄ます。
外出制限のご時世で、拳銃を持った美女が夜の仕事とは?優の関心が掻き立てられる。
昼食を終えた優はスマホを手にして『騎手名前の前にある◇』を目にする。
騎手の減量記号で、見習でない女性騎手は一般レースで定められた斤量から2キロ減という意味だ。
優はスマホをタップする動きを止めると、画面に写された出馬表を確認する。
鞍さんに『大穴レースの候補』と告げた。
「福島競馬第8レースの 4歳以上1勝クラス、芝2600mでファストライフはどうスか」
優が日曜の桜花賞でなく、中山や阪神でもなく所謂ローカルと称される福島競馬場でのメインレースでも特別戦でもない、一般レースを候補に挙げた。
そう、鞍さんが言った『大穴』のレースの予想だ。
「奈々ちゃんね」
「はい」
鞍さんが両手を叩くと優が同意の返事をして解説する。
「注目はファストライフです。前走は3番人気で5着でしたが、前々走の小倉の芝2600mは4着で勝ち馬から0.3秒差です。このクラスで通用する目処は立っています…」
現在、中央競馬に所属する唯一の女性騎手が騎乗予定だ。
「…出来は4月8日に美浦のウッドチップコースで奈々ちゃんが乗って調教…」
「ダイダイちゃん、頑張っている」と果凛が口元を緩める。
優も笑みを浮かべてして続ける。
「調教は『馬なり』で67.2-52.2-39.3-12.5です。出来は良いと考えられます」
美浦とは茨城県美浦村にある中央競馬での東のトレーニングセンターの略称の意だ。
トレーニングセンターとは競走馬の管理・育成施設で、中央競馬の場合、滋賀県栗東市の栗東トレーニングセンターと東西二カ所ある。
競走馬は美浦か栗東どちらかのトレーニングセンターで調教の責任者である調教師が経営
する厩舎に所属し調教を経て、レースに挑む。
優が選択したファストライフという競走馬は美浦厩舎所属だ。
そのファストライフの調教、所謂レースに挑む為のトレーニングについて、『馬なり』とは馬の走る気に任せて基本的には力を残している状態での調教で、反対に『一杯』とは力を出しきった調教といえる。
調教タイムだが左からゴール前から逆算して5F(1000m)、4F(800m)、3F(600m)、1F(200m)のタイムとなる。
今回のファストライフは1勝クラス、調教が『馬なり』5F(1000m)で67.2秒なら、まずまずのタイムだ。
因みに『F』はFurlongの意味で、ヤード・ポンド法の長さの単位で国際フィートに基づく場合、約201mとなる。
競馬を予想する上で、一般的には調教のいい馬をレースでも活躍する前提でピックアップしていくのが普通だ。
好調教が好結果に結びつくかと言えば、実際のレースは調教とは違い、馬場や展開、騎手の思惑など様々な要因が絡み、調教通りにならないことも多々ある。
これが競馬の複雑さで面白さでもあるが。
「でも斤量は1k増だしさ。奈々ジョッキー、怪我で休んでから勝っていないでしょ。」
首を傾げる果凛の疑念に冴が続く。
「しかも芝の長距離で実績ないしね。確か芝2400m以上はデビューしてから1勝で、芝2600mだと未勝利なのかと」
斜に構える冴の大丈夫か?に優が真顔で説明する。
「斤量は今回2k減です。確かに前走から1k増えていますが、減量のない馬より有利なのは変わりません。特に長距離戦は斤量差が影響受け易いと僕は考えています。馬の能力以上に評価されて人気になるのは彼女の場合、勝ち星が多い短距離です。今回は奈々ちゃんの騎乗実績の薄い芝の長距離戦でもあるためか、前走が1着馬との着差が1.5秒差だったのか、単勝人気は前走の3番人気から7番人気と落としています。これは逆に配当妙味があるではないでしょうか。人気がないと言っても彼女の騎乗を悲観するものじゃあないですよ。それに…」
「…長距離戦でも勝負になりますよ。今回が過去を変える時です。止まない雨はないです」
優の力強い言葉に皆、呆気に取られた。
鞍さんが優の肩に同意の意味で手を乗せると住民たちに目尻を下げる。
「ファストライフで行きましょう」
「後は、どうかな。お勧めある?」
鞍さんから振られた果凛が馬名を口にする。
「ラヴィアンレーヴ、かな」
少しの間を置いてファストライフと同じレースに出走する馬名を挙げた。
ラヴィアンレーヴは1番人気だ。
「ラヴィアンレーヴって綺麗だよね」
サラブレッドの美しさには住人は全員、納得して頷く。
ラヴィアンレーヴの馬体をネットで検索し、チェックする。
『確かにディープインパクト産駒の鹿毛で見栄えするよな』と腕組みをする冴。
『そう、ラヴィアンレーヴ、凜々しい感じだ、よね』と短く口笛を吹く果凛。
「もっと上のクラスにいても可笑しくない印象だね。成績だって福島競馬場と同じ芝の右回り2200m以上は崩れてないし、札幌で2600m未勝利戦を勝ってるしね」
優がラヴィアンレーヴの実績を評価した。
「了解です。ラヴィアンレーヴ、君ですね。後は…」
鞍さんが馬券の軸2頭を決すると、それ以外の馬券候補を皆に問う。
「難解ですね」
「どの馬もチャンスありそうだよねぇ」
優と冴は悩みを披露すると困ったように押し黙る。
「そりゃ、歩く馬はいねーよ」
果凛の口の悪さに皆が苦笑する。
「じゃ、全部買っちゃいましょうか」
白い歯を見せる鞍さんに驚きが集まる。
「優くんのファストライフを1着、果凛ちゃんのラヴィアンレーヴ君を2着固定の3連単総流し各1,000円の十二点!」
鞍さんが結論付ける。
この買い目なら確かに3着次第では万馬券どころか10万馬券も夢ではない『大穴』だ。
住民たちの納得顔に鞍さんも嬉しさを零す。
「レースが楽しみですね」
「鞍さん、10万馬券なら初めてじゃない?」
冴の確認に鞍さんはその通りよねと同意する。
「優くんの予想は必ず当たります。このシェアハウス『KURA HOUSE』の新住人の予想ですし」
鞍さんはシェアハウスの名称と確信を披瀝すると、冴は一瞬目を見開く、そして祈るようにいう。
「そうかも知れないですよね」
その言葉は途方もないことへの憧憬を滲ませると、さまざまな考え方はあると冴は想起する。
万馬券、100倍以上配当など滅多には当たらない、ましてや10万馬券、1000倍以上の高配当などは夢物語で偶然を頼って得られる傾向が強いように思える。
馬や騎手の能力や状態だけでなく、馬場コンディションや展開など、好レースをする確率が低いと多数の馬券購入者の判断が裏切られたとする時、高配当がもたらされるのか。
人気馬が能力を発揮出来なかったという観点からは、大穴は運によるところも大きい。
それを何で鞍さんは『新住人の予想』を確信的に言えるのだろうか、しかもピックアップしたのは自身ではないのに。
まあ、鞍さんは『女神』なので、とてつもない『引き』持っている御仁なのは認めるけど。
ただ明確なのは、確率が高かろうが低かろうが、結果は一つで『当たるか、当たらないか』
だが。
やっぱり無理筋かもしれないなぁと言いながら、冴は仲良く話す鞍さんと優に目を細めた。
鞍さんはソファーでスマホを操作する。
ネット投票で馬券を買うと、スマホを無造作にエプロンの前ポケットにしまい込んだ。
1着を1番ファストライフ、2着を4番ラヴィアンレーヴの固定にした3連単3着ながしで十二点を各1,000円、計12,000円は鞍さんのポケットマネーだ。
冴は同じ買い目を各100円で『遊ぶ』そうだ。
13時45分発走福島競馬第8競走、一般レースを告げるシンプルなファンファーレが終わる。
スタンドからの向こう正面でゲートへの枠入りが始まり、全馬が揃う。
「ポン」という感じで各馬がダッシュ、横一線の好スタートだ。
まずは黄色い帽子のトライゲッターが飛び出して、先頭。
外からアルスラーン、内にエスピリトゥオーゾが追走。
ラヴィアンレーヴは中段、ファストライフその後ろの内側にいた。
3~4コーナー、コースの背景はみちのくで咲く桜は満開で美しかった。
最初のスタンド前、トライゲッターが長距離戦らしく淡々としたペースを刻む。
前半1000mは約62秒、1勝クラスなら平均ペースだ。
1~2コーナーで先頭はサーベラージュに変わる。
じわりとラヴィアンレーヴがポジションを上げるが、ファストライフはまだ中段後方だ。
向こう正面、段々と競馬が忙しくなる。
3コーナーでは早くもラヴィアンレーヴが先頭を伺う。
ファストライフが外目をスーッと加速して3番手集団を追い抜こうとする、残り400m
「来た!」
「来たねぇ」
優と冴が次々に声を張り、立ち上がる。
ファストライフのしなやかな四股のスライドが加速する。
直線コース、そのファストライフに騎手が右ムチ3連発、覚醒を促す。
先行した馬が粘りまくるが、ラヴィアンレーヴが競り落として先頭。
そのラヴィアンレーヴが粘り込みを図るが、ファストライフ届きそうにない。
果凛と冴は不安げに見詰め合う。
ここまでか、観念すると優は両手の拳に力が入る。
「ファストライフ頑張れーっ!!」
鞍さんが祈るように目を閉じながら両手をメガホンにして透き通る懸命さを画面一杯に届けた。
観戦する住民たちが総立ちになる。
ファストライフに一段上のギアが入る。
間に合うのか。
赤いシャドーロールを揺らしながら力強いストライドでひと延びしたファストライフがラヴィアンレーヴを捉えて差し切った所がゴールだった。
「芦毛、差せっつ」
優の短い応援に二頭に少し遅れて10番が最後の一延びで3着争いを制した。
1着1番ファストライフ、2着4番ラヴィアンレーヴ、3着10番サンライズアキレス。
全員が全ての顔をゆっくりと見回し合うと、万歳して飛び上がった。
「やった、やった」
「うれしー」
「3連単ゲットだぜ!」
「ファストライフ、ナイスレースでした」
「ジョッキー、グッジョブ」
「ラヴィアンレーヴも頑張ったよね」
「頑張った」
「3着は10番か、10番人気だろ。これは高目の配当だねー」
誰の声だか分からなくなった四人が肩を組んで、背中からソファーに倒れ込んだ。
ゴールしてから数分が過ぎる。
審議対象のレースではないので、あと少しで『確定』して払い戻しが決定するだろう。
四人がソファーに腰掛け、脱力していた。
テレビは消えておりリビングに静寂が戻る。
テレビを見ないのは、他のレースへの関心が失われたからだ。
皆、静かにレースの結果を待っていたいのだ。
「どのくらいの配当?」
「確か、単勝で7番人気、1番人気、10番人気だから万馬券以上は確実かと」
「後、数分で確定するんじゃない?」
イラつく果凛の問いに気を紛らわせようと優が懸命に答え、冴がぶっきら棒に反応する。
鞍さんは無言で遠くを眺めていたが、居たたまれない雰囲気からか、リビングから自分の部屋へ戻ってしまった。
残った三人は長い数分の時の刻みに身を任せていた。
中学高校で吹奏楽部だった冴さんが、コンクールの結果発表を思い出すという。
同じ学校で吹部の後輩だった果凛も硬い表情で肯首する。
優がいらつくようにスマホ画面『レース結果』のアイコンを何度も叩く。
なだめるように冴はコンクール全国大会の成績発表、緊張感はこの比じゃないと戯けてみせた。
「『確定』です」
大声を張り上げた優が手にしたスマホを熱視線が取り囲む。
周囲に圧された優は見辛いなと思いつつも『払戻金』を見据えて代表して発表する。
「ええっと、3連単は…。1、4、10でこれは…」
六桁の数字は直ぐに声に出せないぞと、優は困惑しながら何とか口にする。
「104,970円です」
数字を耳朶にした皆は一斉に暗算を巡らせた。
これは1049.7倍という意味で、鞍さんは1,000円賭けていたので配当は1,049,700円ということだ。
無機質な数字がこれ程までに人を興奮させるとは感慨深い。
「いぇーい」
皆一斉にジャンプすると同時に鞍さんが紙袋を手にリビングに戻って来た。
尚、この小説はフィクションであり、過去および現在の実在する人物・組織・馬などにはいっさい関係ありません。




