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白魔4  作者: 星水晶
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後編

 いくつもの冬が過ぎた。長老も年老いて隠居し、次席の重鎮がその後任となった。その冬の夜、「白魔」の遠吠えが雪山に響き渡った。いつもの、魂のきしみのような悲鳴とはちがう。怒りと恐怖に彩られた苦悶の叫び。その声に引きずられるように、雪狼氏族は家を出て、声の源へ近づいた。

 雪山の鋭い稜線のひとつ、ちいさな台地に、むき出しの岩盤を背にした巨大な銀色の雪狼が天に向かって遠吠えする。氏族が近づくと咆哮はぴったり止み、銀狼は警戒態勢を取った。まるで敵の真ん中にいるような、本格的な警戒態勢だ。体を低く、頭を下げ、耳を寝かし、四肢は雪面を踏みしめて、すべての爪がむき出しにされている。腹に響く低い威嚇音。重くのしかかる魔力の重圧。

 「白魔」はガッと牙を鳴らした。

 キルンは自分を阻むものをすべて本気で屠るつもりだ。氏族の雄は全員背筋の毛が逆立った。


「長老だ。先の長老が来た」


 氏族は波が分かれるように、先の長老を通した。老いて足元もおぼつかなく、目も衰えた長老は、介添えの手を借りてゆっくりとキルンに近づいた。それでも、キルンの一撃の範囲から距離を取ることを忘れていない。


「キルンや、ルーネが帰ってきたのかね」


 長老の声に氏族全体がざわめいた。「灰色の疫病神」だと!まさか生きて戻ってくるとは。


「キルンや、ルーネを見せておくれ」


 キルンはしぶしぶ長老の声に従って、ぴったりと伏せた腹をもちあげた。ふきだまりの中にぺしゃんと押しつけられたような、灰色の毛の塊が見えた。そいつがもぞりと動いた。

 そいつは、小さかった。白い雪に薄汚れた灰色の汚点のような、ゴミの塊のように見えた。そいつからは人間の臭いがした。これが「灰色の疫病神」。まるで親のない子どものようだ。小さくて痩せていて、ふらふらと力なく坐りこんで、飢餓と諦めの臭いがした。


「生きていたのだねぇ。よく帰ってきてくれた。おかえり、ルーネ」


 灰色のチビは長老の仲介で、なんとか氏族に復帰することとなった。何といっても、キルンがそいつからぴったりついて離れなかったからだ。キルンはそいつの世話をかいがいしくし始めた。氏族の生活の範囲に戻ってきたのだ。灰色のチビ、ルーネは雪崩で川に押し流され、麓の人間の住処まで運ばれていったのだと。そこで何年も奴隷として飼われていたのだと。

 本来なら、誇り高い雪狼氏族の風上にもおけない、不心得者だ。雪崩で左前肢を失くし、人間に首輪をはめられ、のどをつぶされ、全身傷だらけなのだと。そうまでして、なぜおめおめと生きていたのか。命がけで脱出するか、自決するか。それこそが雪狼氏族の選ぶ道だったろうに。「灰色の疫病神」はおめおめ生きて戻って、またキルンの枷となった。

 キルンを「白魔」から氏族の一員に戻した存在なのに、氏族の一部はそのことを忘れ果て、またルーネを白眼視するようになった。


「ルーネをとるものは殺す」


 キルンの宣言を聞いたほとんどの氏族が、キルンとルーネを遠巻きにして、近づかないようにしていた。半分狂ったままの銀狼と、ぼろぼろの灰色の子。ルーネに不用意に近づくと、キルンの威嚇を受ける。同族殺しさえ躊躇しない本気の威嚇だ。ルーネを抱えたキルンに近づけるのは、治療師のセスと先の長老だけだった。その二人だけは、キルンの信頼をかろうじてつなぎとめていた。


 セスが教えてくれた薬草の束は、ルーネがお昼寝をしている間にいっぱい作っておいた。家の納屋に十分貯えられている。雪にさらして、匂いや薬効のあるまま、手早く保存する。長老にもらった東の山あいの熱い泉に毎日新しい束を浸し、その薬草のすっきりした匂いの湯にルーネを入れて、あたためてきれいにしてさすって堅いところをそっとほぐしてなでてだいて…。

 しあわせだ。

 帰って来てくれたルーネは怖いくらいにやせていた。セスが、まずは固まった毛並をほぐしてきれいにしてやれ、と言ったので、湯の泉の湧き口から遠い方で、シャボン草をつぶして泡立ててよく洗った。もつれて結びコブになってしまって、どうしてもほぐれない毛玉は、泣く泣く切ってしまった。水は汚れ、切った毛先や、ごみや、悪い虫や……ルーネの傷口のかさぶたとか……流れていった。何度もそっと繰り返して洗って、水はやっときれいになった。疲れたんだろう、ぐったりしたルーネを青草の莚に寝かせて、湯取り布で水気を拭き取って、指でそっと毛並を梳いていると、セスが声をかけてきた。


「水のませないとダメだぜ。あと、目がさめたら何かちょこっと食べさせないとな」


 キルンはあわてて用意しておいた水筒から果実水を注いで、そっと目をつむったルーネの口元にもっていった。小さな口があいてこくんと飲み込むのを、ぞくぞくしながら眺めた。


「あーそれでだな。きれいに洗えたみたいだから、のどと左手の傷をみようか。俺がそばに行ってもいいだろう?」


 キルンはうなずくと、体をずらした。セスにルーネののどの傷をみせるために。人間がルーネを奴隷とするためにはめた小さすぎる首輪が、ルーネの首を長年締め付け、のどをつぶして声をうばった。首輪はセスの手でそっと切り離されたが、その傷痕は幅広く分厚いかさぶたとなって、ルーネのやせた首にぐるりと残っている。キルンはセスに傷を見せることは承知したが、それでも反対側にぴったりと寄り添ったままだ。


「かなり長い間でできた傷だから、気長に治さないと。ここの毛を短く切って、傷口に毛が触らないようにしてくれよ。うん、左手のほうも、古い傷だけど、きれいに治ってるわけじゃないみたいだ。これまでもずっと痛かったはずだよ。こっちも毛を切ってくれ」


 果実水を飲んだルーネはすやすやと眠っているようだった。乾き始めてふわふわしてくる毛を切るのは、とても悲しかった。こんなにやわらかくて気持ちがいいのに。

 セスはのどの傷を見て何度もうなずくと、袋から軟膏の包みを取り出した。


「これをかさぶたの上からそっと塗って、体温でとけたら、痛がらないくらいの力かげんですり込むんだ。かさぶたがはがれた所に塗る薬は、またあとで別のやつを持ってくるから。左手やほかの傷跡も、かさぶたのあるところはみんなこの薬でいいからな」


 キルンはセスの手元を見ながら真剣にうなずいた。


「くれぐれもあせっちゃダメだ。気長に、根気よく、やさしくな」


「うん、ありがとう」


 久しぶりに聞いたキルンの普通の話声に、セスは目をぱちぱちさせた。

 セスは冷静になって、ルーネの体の状態を診察した。今はわざとルーネを雪狼の姿形のままにしている。毛並に覆われていれば、その傷跡のひどさや体の衰弱度合いもごまかせる。いずれ人型になる必要があるとしても、今はダメだ。今ルーネの実態を目にしたら、キルンは怒りにのまれて暴走してしまう。セスの目から見て、ルーネはぎりぎり限界のところにいた。たぶん雪崩で流されてから、ほんのすこしも成長できてないだろう。よく生きていられる。それほどの状態だ。雪崩の際に失ったという左手も、おそらく岩や流木につぶされて、もぎとられたのだろう。手当もろくにされず、くだけた骨のかけらが肉に混じりこんだままだ。残った手の骨の端もきっと裂けた時のままにとがっているのだろう。そこを無理にくるんで、補助腕として使ってきたので、痛々しいタコになっている。タコはひび割れて深い裂け目ができ、そこから体液や血がしみだしている。栄養が足りなくて肉付きの薄い体は、外傷や皮膚病や虫に食われた跡で覆われている。毛並の上からでもあばら骨がわかる、こんな様子では、いつも寒くてひもじかっただろう。


「ルーネどう?」


 キルンの声に我に返ると、セスはわざとのんびりと答えた。


「やせすぎだな、こりゃー。もっとうまいもの食わせてのんびりさせないと、ちびさん大きくなれねえぞ」


「うん。木苺のジャムのパンケーキとか、食べるかな」


「あー、その、もすこしたってからなら、よろこんで食うだろうよ。子どもは甘いもんが好きだからな」


「じゃあ、今日は?今日はなに食べさせたらいい?」


「うーん、柔らかいあったかいもん。腹にもたれないやつ、ね」


「小麦のミルク粥じゃあダメかな」


「いいんじゃね?それをちょびっとずつ、な」


 キルンのまともそうな会話の間、彼の目は一度たりともルーネから離れることがなかった。

「ルーネをとるものは殺す」たぶん躊躇なく、その宣言通りにするのだろう。

 眠っている子どもはいつしか毛並もすっかり乾いて、ふわりとした小さな毛玉になっていた。キルンはその小さな体を背負い布でくるむと、ぽんっと背負った。熱の泉のゴミを押し流し、あたりをざっと掃除して、青草の莚や使い終わった薬草の束を岩の下にしまいこむ。毎日来るのだから、置いたままにするのだろう。

 子どもを背負ったまま、キルンは雪狼の姿形になった。セスにうなずくと、さっさと家を目指して立ち去った。セスはそれを見送ると、ちょっとため息をついて、先の長老の家まで報告に向かうことにした。


「大丈夫、なのかね?あんなに無防備になっちまって」


 セスの懸念に先の長老は首をかしげた。


「ルーネがキルンの手元で元気になればいいじゃろう。でもなあ……」

「掟をどう解釈しても、キルンがルーネといられるのは、春までなんでなあ」


「ちびさんが、キルンを伴侶に望めばいいんじゃねえですか」

「例え体がよくなったって、片手じゃ独りで暮らしていけっこない」

「キルンはちびさんといっしょにいたい。ちびさんだって、キルンといれば都合がいいでしょう」


「それはそうなんじゃがのう。ルーネという子は、けっしてその道を選ばんと思うでな」

「やっかいなのじゃて」


 長老はふーっと長い息を吐いた。


 キルンの家は雪崩のあと、ことさら頑丈に建て直されていた。場所は同じで、家の奥は岩壁をくりぬいた岩室になっているのも同じ。家の前には水槽があったし、雪に覆われて見えないが、裏には菜園もあるようだ。

 キルンは背負い布からルーネを取り出し、家の入口に置くと、そーっと前肢でルーネの体を押して、家に入れようとした。東の山の熱の泉からここまで、背負われているうちに、眠気はさめた。


「ルーネ、おうち。ね、おうち、帰ってきたよ」


 キルンがセスに薬草の説明を聞いている時、長老はルーネにそっと耳打ちした。


「キルンにとってルーネは預かり子のままなのじゃ。さからわず、なだめておくれ」


「おなかすいたね。すぐごはんにするからね」


 ルーネはおぼろげな記憶をたどって、自分の寝部屋だった隅のくぼみへ行こうとした。キルンはあわててうしろからルーネを抱き上げた。


「ごめんね、ルーネのお部屋はもうないの。入れないの。こっちで、キルンの部屋で寝てくれない?」


 ルーネの寝部屋はあのあとずっとキルンの寝部屋だった。ルーネの匂いを求めて、キルンはその狭い部屋に無理やり体を押し込んで寝ていた。そのうち部屋からも毛布からもキルンの匂いしかしなくなって、悲しくなったキルンは、そのくぼみを埋めてしまった。

 キルンは青草の莚を何枚も岩室の前に敷くと、別のくぼみから冬毛の塊をいくつもひっぱりだして、莚の上に盛り上げた。それは銀色をしているので、キルンのもののようだ。形をととのえ上から柔らかい毛布をかけると、極上の綿毛布団になった。キルンはルーネを抱き上げると、そーっと真ん中のくぼみに寝かせた。


「いい子だから、ここで寝ててね。すぐに、すぐにごはん作るから。ね、ここから出ちゃダメだよ」


 ルーネは温泉につかってぐったり疲れていたので、すぐにまた眠気に襲われて、眠ってしまった。

 小麦のミルク粥を煮ていたキルンは、ふと何の物音もしないことに不安になった。こがさないように柔らかく煮えてきた粥に、壺から糖蜜をたっぷり二さじたらしていた時だった。キルンの胸は不安でズキズキ痛くなったので、薪を引いて埋め火にしたまま、布団の所にあわててもどったのだ。そっとのぞきこむと、ちいさな灰色の毛玉が布団の真ん中でまるくなって、すやすやと眠っていた。もう人間の臭いはしない。薬草の匂いとセスの傷薬の匂いがするだけ。

 キルンは身を乗り出して、ルーネにさわらないように気をつけながら、寝息とともにふわふわ動く耳の匂いをかいだ。かすかに記憶の底に残ったルーネの匂いがした。


「帰ってきてくれた。ほんとうにルーネ、帰ってきてくれたんだ」


 それからのち、何度もキルンは眠っている灰色の毛玉を確かめに戻ることになる。何をしていても、ふと不安になると自分が押えきれないのだった。毛並を見て、寝息をうかがって、たまにそっと触ってぬくもりを確認しないと、怖くてたまらない。キルンの不安はいつもまっ白な闇におおいつくされてしまう。生きているルーネ。生きてそこにいて、あたたかくさわれる存在で、キルンのもの。ちいさい、あたたかい、やわらかいもの。確かめないと気が狂いそうになる。


「今度こそ大事にだいじにするから、もうどこにもいかないで」


 夜ごと、キルンはルーネを押しつぶさないように気をつけて、小さな体をぐるっと巻き込むように添い寝するようになっていた。同じ部屋にいても、離れていては眠れないのだ。ルーネの体温と匂いがしているだけでは、安心していられない。どこか体の一部でもふれていないと。キルンはルーネのやせた手足をさする。もう三本しかないのだが。血行の悪いせいでいつもなかなか温まらない。それを言い訳にして、キルンはルーネの足を自分の密生した冬毛の中に押し込む。足だけでなくその小さい体全体を抱きくるむ。そしてやっとほっと安心する。

 眠る時も固くこわばっていた小さいルーネの体は、やっとほぐれて無防備に眠るようになっていった。キルンのするままに、あたたまりにくい三本の足をキルンの冬毛につっこまれても、キルンの前肢の付け根に小さな頭を乗せても、赤子のような無心な眠りを続けるようになってきた。はじめの頃眠りながら何度もびくびくと痙攣し、はっと目をあけ体をこわばらせて耳を立てることを繰り返していたのに、やっとキルンの腕の中を安全なところと思ってくれたようだ。

 このごろはたまに寝返りをして、キルンの体から布団の外にころげ出していってしまう。キルンの方はどんなに深く寝入っていても、ルーネが離れると目が覚める。台所の火種を埋め火にしたあたたかい寝部屋は暗くて、灰色の毛並は見えにくい。キルンは何度も何度も泣きそうになりながら、手探りでルーネを探す。そして見つけると起こさないようにそっと抱きしめる。ルーネが寝返って離れるごとに、キルンの胸は切り裂かれるように痛むから。

 ルーネがやっと起きて歩けるようになった頃、朝キルンが目がさめるとルーネがいなかった。キルンは寝部屋を探したがどこにもいない。家中探して見つからない。恐怖で全身の毛を逆立たせて、外に飛び出したところで、ルーネがちょこんとすわっているのを見つけた。ルーネは飛び出してきたキルンの権幕に押されて、おどおどと小さくなった。その手には水桶が抱えられていた。小さい右手と肘までしかない左手。水桶の綱を肩から回して危なげなく抱えていた。水桶にはきれいな雪が詰め込まれていて、ルーネが水汲みをしようとしていたのだとわかった。


「なにしてる!ああ、お手てが冷たい。だめ!こんなことしちゃだめなの!」

「お水を汲んでくれようとしたんだね。ありがと。でも、そんなことはキルンがするんだよ」

「ルーネはしなくていいの。ルーネはおうちにいてくれないとだめなの」


 ルーネはぽかんと口をあけて、せかせかと水桶をとりあげ、ルーネを抱き上げるキルンを眺めた。自分のできることは自分でする。他者に寄り掛からない。できないことは望まない。独りで生きていくためのルールだ。それを教えてくれたのはキルンのはずだ。


「お願い、キルンにだまってひとりでどこかへいかないで」

「もうキルンをおいていっちゃいやだ」


 喪失の恐怖はいつもキルンにつきまとう。


「ルーネ、いいこ。約束して」


 キルンはルーネをもちあげると、目線の高さを同じにして、その山葡萄色の目をのぞきこんだ。キルンの蒼い目はいっぱい涙がたまっている。

 ごめんなさい。

 ルーネは出ない声でそっと謝った。心配かけるつもりじゃなかった。体もずいぶんよくなったので、前みたいにちゃんとうちのお仕事ができるところを見せたかった。ここにいてもいいんだと思ってもらいたかったのかもしれない。

 朝ごはんはニンジンとカブとジャガイモをとろとろに煮込んだシチューだ。固焼きのビスケットと甘酸っぱい果実水も。温かくて消化のいい、たっぷりとおいしいごはん。キルンはルーネが小さい口でゆっくり食べる様子を、目を細めてながめていた。その時、家の外で誰かがキルンを呼んだ。とたんにキルンの耳がぴんと立ち、たてがみが逆立つ。低い食卓におかれた前肢から、爪が出たりひっこんだりしている。キルンは低い声でルーネに「じっとしてて」と警告して、家の外に出て行った。

 外にいたのは先の長老だった。介添えの若者はすこし離れて控えている。


「キルンに話しておくことがあってな」


 キルンは警戒をゆるめることなく、家の入口を背にして立ちふさがった。それでも、長老をまっすぐに見た。


「キルンがルーネの守役でいられるのは、次の夏の集会までじゃよ」

「もしか忘れているかもしれぬ、と思ってな」


 キルンは目を見開いた。握りしめた両手に自分の爪が食い込んで、血が流れた。ルーネはやっと帰って来たのに、掟はまたキルンから取り上げようとする。ひどいひどいひどい!ルーネはいっぱい怪我をして、辛い苦しい目にあって、片手もなくなって、声も出なくなって、それでもやっと見つかって、馬鹿なキルンのところに戻って来てくれた。だからこれからはずっと、キルンがお世話して大事にするのだ。今度こそ間違えないように、大事にだいじにする。ちいさくてあたたかいふわふわのキルンのたからもの。キルンの命。


「キルンや。わしとてもむごいことはしたくないのじゃ」

「ルーネがキルンを伴侶に望むなら、ずっといっしょにいられるのじゃが」


「伴侶?」


 キルンはかすれた声で口に出した。そうだ。キルンは守役でルーネは預かり子だ。預かり子は三年のちの夏の集会で、守役を伴侶にしたいか尋ねられる。ルーネがキルンを望んでくれたら、キルンを伴侶にしてくれたら、ずっとずっと一生そばにいられる。もう苦しい寂しい痛い思いをしなくていい。ずっと毎日毎夜死ぬまで小さいふわふわと一緒に。キルンの壊れかけの心は、幸せな夢でふくらむ。キルンはふにゃんとほほえんだ。

 長老はその呆けた顔を見てため息をついた。


「キルンや。ルーネはお前を伴侶に望んでくれるじゃろうか」


 キルンはその言葉に歯軋りと唸り声で応えた。誰であろうと、キルンからルーネを取り上げようとするものは容赦しない。あの恐ろしい白い闇は一瞬にしてキルンの腕からルーネをもぎとっていった。キルンの心は闇にのまれ壊れて魔に墜ちた。それでも死ななかったのは、キルンの失ったものがまだ少なかったからだ。それまでのキルンは、冷たく素っ気ない厳しい守役だったのだから。今はあの時とはぜんぜんちがう。まるで生きたまま胸を断ち割られて、心臓をわしづかみにされたような気がする。ルーネ、ちいさいふわふわのあったかくてやわらかくていいにおいのするもの。どうしたら喜んでくれるのか、何ならもっと食べてくれるのか、今よりちょっぴりでもよけいにキルンを好きになってもらえるのか、どうしたらずっといっしょにいてくれるのか。わからなくて、こわくて、苦しくて。

 それなのに、それがみんななくなってしまうだと。

 そんなことをするものは敵だ。キルンの手からルーネを奪うものは敵。


「ルーネをとるものは殺す!それが誰であっても必ず!」


 キルンは空にむけてあからさまな威嚇を放った。


 それからほどなく、治療師のセスが訪れた。家のそばまで来て、声をかけてくるのは、セスと先の長老だけだ。他の氏族のものは誰も、キルンの家に近づくことはない。家の周りには重苦しい警戒と威嚇の魔力がたちこめているからだ。よほどの理由がなければ、それを押して家に近づくことはない。

 セスの声に応えて、キルンはそっと家の外に滑り出た。奥ではルーネが眠っているから。無言で「何の用だ」とにらむキルンに、セスはバツが悪そうに座りなおした。


「ああ、その、前に言っただろう。かさぶたがとれたあとに塗る薬なんだけど」

「かさぶたは絶対に無理にはがしちゃいけない」

「はがれたあとの皮膚はとても弱いし、乾くと痛んでしまうんだ」

「だから、別の薬を使うんだよ」


 セスは新しい軟膏の入れ物を取り出した。


「それから、そろそろ、湯に入る時には人型になったほうがいいから」

「毛並より直接皮膚に触れた方が、薬効も高まるし」


 セスは冷や汗をぬぐうように、何度も耳や首もとをこすった。視線がおよぐので、セスの緊張が伝わってくる。


「なあ、キルン。お前もそろそろ気持ちの準備ができただろう」


 治療師のいうことは聞かないと。キルンは当然のようにうなずいた。セスの言った本当の意味がわかったのは、温泉に入れるために、ひとりでは人型をとれないルーネに魔力の手を貸して、ほんとうに久しぶりに毛並のないルーネを見た時だった。

 カルキオルの峠で、人間の手で道に投げ出された襤褸の塊は確かに見ているのに、それが探していたルーネだとわかった途端、キルンの脳裏にはその時のルーネの様子などはすっかりかき消されていた。やっと見つけた歓喜があまりに強かったから。

 小さい痩せた体は傷だらけだった。背中には人間の使う鞭で叩かれた跡が白い筋になって残っている。これは折檻の跡だ。その他にも火傷の跡、切り傷、打撲痕など数えきれない傷が残っている。たぶん、ルーネが帰って来た直後なら、治っていない傷口やあざや炎症で、まっとうな皮膚が見えないほどだっただろう。首の回りの厚いかさぶたはやっと少しずつはがれかけてきた。手足の傷からも毎回湯に入れるたびにかさぶたがはがれおちる。これまでは、セスにいわれた通り、雪狼の姿のままのルーネを、薬草の束を浸した湯でよくあたためたあと、そっと撫でては堅くなったところをさするようにしてきた。セスの配慮のおかげで、一番ひどい時を直接見ることがなかった。今だって、身震いするほど辛い。

 湯から抱き上げるときだって、ルーネの体は子どもより軽い。本来なら青年期にはいっているはずの年齢だろうに。まるで成長が止まったかのように、体も小さいし骨も細い。今でも薄い肉付きは、当時はもっと、それこそこわくなるほど痩せていたに違いない。膝やくるぶし、ひじなどの関節がとびだして見えるほど、その手足は細い。これでもたぶん、帰って来た時にくらべればましになったはずなのだろう。少しずつ質のよい栄養のあるおいしいものをあげるようにしている。もっと食べてくれるとキルンも安心なのだけれど。おとろえた体はよい食べ物でさえたくさんは受け付けない。あせらず根気よく、少しずつ。それはもう、セスに言われたことを呪文のように繰り返さないといけなかった。

 湯上りでぐったり疲れたルーネを、青莚に寝かせ、湯とり布でそっとそっと拭いて、皮膚が渇く前に、新しい軟膏をかさぶたのはがれた後に塗り、かさぶたには前からの軟膏を塗り、痛めないようにそっと堅くなった所をさすった。ふぞろいの髪もこのごろはサラサラになっているので、前のように結びこぶに指がひっかかることもない。手櫛を入れて頭皮を探ると、頭にも傷跡があるのがわかる。今はもう治っているが、指にさわってわかるほどひどい。キルンは泣きそうになった。

 うとうとしていたルーネが目をあけると、すぐに果実水を飲ませる。ルーネは果実水が好きみたいで、特に湯上りはよく飲んでくれる。


「……き…きるん……」


 それはほんとうにかすかな息のような声だった。


「ルーネ?今、キルンのこと、呼んだ?」


 ルーネはこくりとうなずいた。


「…た、だ、いま……」


 ルーネののどは治って来ていたのだ。無慈悲な首輪が取れ、その下にできた分厚いかさぶたの層が柔らかくなって、長く傷ついたのどの内側も少しずつ治癒していったのだ。かすれたちいさな声だったけれど、それはまぎれもなくキルンの名前。キルンは震える手で、ぎゅっとルーネを抱きしめた。ルーネの小さい頭に押し付けられたキルンの目から、雨のように涙が落ちてきて、ルーネは不思議に思った。どうしてキルンは泣いているのだろう。

 キルンの心は荒れ狂っていた。人間の元からひっさらって、無理やり山に戻した時、声を失くしたことも何も知らずにルーネに請うた「キルンって呼んで」「ただいまって言って」の言葉を、ルーネはちゃんと覚えていた。だから声が出るようになって最初に、キルンの名前を呼んでくれた。

 だめだめだめだめ!どうしてこの子を手放せるだろう。どうしてこの子を諦められるだろう。ずっといっしょにいてもらえるなら、キルンは何でもするのに。たぶんルーネはキルンに自由をくれようとする。ちがうのに!キルンの願いはこのままずっとルーネを独り占めして、いっしょに暮らして、世話する権利を誰にも譲らず、一生一番近くにいることなのに。

 ルーネはキルンの運命の子。キルンのいのち。たとえルーネがキルンを望んでくれなくても、彼の心はもう他の誰も受け入れられない。あとはもう、一日でも一晩でも長く、そばにいられることを祈るだけ。あわれなキルン。あわれで馬鹿なキルン。ルーネがいってしまったら、もうキルンは生きていけないだろう。それでも、どうしてルーネにすがってお願いできるだろう。それができるものなら、もうとっくに……。


「よかった。よかったね、声がもどって」


 キルンはただそれだけ、ルーネに言った。


 ルーネはいつだって、おとなしく聞き分けがよく、人に寄り掛かることなく、できないことでも一生懸命にしようとする子だった。わがままを言ったこともなく、不機嫌な態度をとったこともなく、自分を避ける氏族の目や、こそこそささやかれる陰口にも、ただじっとうつむいてやりすごすだけ。かしこい子で一度教えたことは二度とは尋ねない。知っていることを足して重ねて、きちんと自分の中に整理して、自分なりの推測を建てることができる。

 自分より弱いものには、手にもっているものを半分に割ってでも差し出す子だった。


「ルーネ?」


 温かい布団にうずもれて、胸からおなかにかけて、ちいさいふわふわした毛玉を抱きくるんで、両手両足できつくしがみつかないように、自分を押えないと、眠っている子どもを起こしてしまう。


「眠ってる?」


 あまりにもあたたかくてやわらかくて、ちいさい頭をキルンの腕にのせて眠っているルーネ。キルンはそっとその頭に頬をすりよせる。ふわふわした耳が口元にふれる。ルーネが眠っているのを確かめるため、キルンは小さい声でささやきかける。


「馬鹿で哀れなキルンは運命が見えなかったの」

「苦しくて悲しくてつらくて、胸が裂けそう」

「どうかどうかお願いだから……」


 そこから先はどうしても言葉にすることができなかった。キルンはきゅうっとルーネを抱きしめると、なんども頭に頬ずりする。「どうかお願い。キルンをずっといっしょにいさせて」心の中で声のない声で叫ぶ。

 もうすぐ春が来る。そしたらもう、寒いからという理由をつけて、こんなふうにだっこして眠ることができなくなる。今でもときどき、寝返りをうったルーネが、ころころとキルンの腕の中から出て行ってしまうくらいだ。春がきたらもうじきに夏だ。夏の集会でキルンの幸せな日は終わる。ああ、そうだ。幸せだったのだ、とキルンは思う。この冬、これまでの一生の間で一番幸せだったのだ。誰とも深くかかわろうとせず、孤高を気取っていつも自分のことだけだった。それが正しいことだと思って生きてきた。その頑なな生き方が粉みじんになった。失うのがこわくてたまらない存在がある。彼の腕の中でやっと息をして、目を離せば、手を抜けば、今度こそ永遠に失ってしまうかもしれない大切なものがある。前の彼なら、それを厄介な荷物だと思っただろう。でも今は、その大切なものがキルンの生きる目的だ。

 ふと思う。守役は全部がそうではないだろうけれど、預かり子には情が移るものだ。伴侶に望まれなかった者の気持ちは、けっして楽しいものではないだろう。そうだ。キルン自身も、守役に別れを告げる時そっけなかったはずだ。集会で長老に決まり文句で問われ、即答で「伴侶には望まない」と言った記憶がある。彼の守役はどんな顔をして、預かり子の返答を受け止めたのだろう。今となっては、まったく思い出せない。あの時は、自分のことだけしか考えてなかったのだ。優しいおだやかな人だったと思う。おとなしくて平凡で面白みがないと思っていた。あれ以来あの人はどこで暮らしているのか、さっぱり見かけなくなっていた。そんなことも気づかないほど、キルンは傲慢だったのだ。今なら、もっと心をこめてお礼が言えるだろうけれど。

 ルーネがそうだったら。あっさりと「キルンを伴侶に望まない。三年間ありがとう」と言って、振り返ることもなく行ってしまったら。置き去りにされたキルンの胸はつぶれてしまうだろう。

 きっともうこの家に帰ることもできないのだ。だってここにはルーネの記憶でいっぱいだ。ルーネがもし誰かの守役になったら、そのチビがルーネを伴侶に望んだら。他の誰かがルーネといっしょに……。そんな日は見たくない。


 雪がとけ、春が来て、草木は芽吹き、大地は柔らかな緑におおわれた。キルンにとっては一日いっときがかけがえのないたからものの時間だった。もうあとほんのわずかしか残されていない幸せな時間。大切ないとしいもののそばにいられる時間。

 ルーネはずいぶん回復してきた。目に見えるかさぶたはすべてとれ、新しい皮膚にも産毛が生え始めた。のども、少しずつ長く話せるようになり、足取りもしっかりして、野原を歩き回っている。花をつんだり、蝶をおいかけたり。風がふくと、灰色のふわふわの耳がなびいて、キルンはさわりたくてたまらなくなる。


「……だから、もう冬の薬草はとれなくて、春の薬草が生えてきているから、そっちを…」

「って、聞いてるのかよ」


「あ……ああ、聞いてる」


 はあぁ、とセスが大げさにため息をつく。


「お前ね、ちびさんを見すぎ。ちいさい子じゃないんだからさ、もっとゆるくしないと、つらくなるだけだぜ。…いや、その…」


「わかってる」


 あとまだ少しのあいだは、ちいさいルーネはキルンのもの。あともうちょっとだけ、キルンは幸せでいていい。先の長老にルーネが春の挨拶をしているようだ。何を話しているのかな。集会の話だろうか。もうキルンの世話はいらないだろうとかじゃないだろうな。まだ春になったばかり。まだいっしょにいられる。花のジャムをつくったり、キノコをとったり、新芽のほろにがいひたしものを食べたりできるはずだ。

 冬ごもりで食べ残った食材を使って、春のピクニックもこれからだ。

 まだかけがえのない大切な幸せの時間は残されている。

 ああ、ルーネがしゃがんだんだ。くさむらから耳のさきっぽだけが見えて、ぴこぴこしている。長老は見えないな。あの人も年を取ってちいさくなった。この頃は耳もだいぶん遠くなったようだ。だから、あんなに近づいて話し込んでいるんだろうか。なんだか、いらいらする……。

 ルーネが立ち上がった。どうした。いきなり首をふっている。何度も。どうしたの?長老の手がルーネの手をつかんでいる!ルーネいやがってる!


「ルーネ!」


 何も考えられなかった。次の一瞬でキルンの体は茂みを躍り越え、たちすくんだルーネと、その手をつかんだ長老の前に飛び出した。そのままの勢いで、キルンは長老を引き倒し、そののどを咬み裂こうとした。あとほんの少ししか残されていないキルンの時間を、掟の名のもとにこれ以上奪おうとするのか。いやがるルーネの手をおさえつけて、何をしようとしているのか。たとえ長老であろうと、たとえ神だろうと、キルンは絶対に許さない。

 だって、キルンが悪いんだ。悪いから悲しくても苦しくても我慢して、ルーネとさようならをする覚悟をしたんだ。だから、あとほんの数日、ほんの数日だけ幸せでいたっていいじゃないか。


「ルーネをとるものは殺すといったはずだ!」


「ちがう、だめ、やめて!」


 ちいさい手がキルンをとめる。止めたって、いうことを聞いたって、誰もルーネをキルンにくれやしない。キルンの願いなんてかなえてくれやしない。キルンは自分を押えるものをすべて力と魔力ではねのけた。ちいさい一本の手以外はすべて。

 キルンの首にまきついたその手だけは、キルンを離してくれなかった。怒りと絶望で目の前が真っ赤に染まったキルンの耳に、何度もせきこむ声が聞こえてきた。苦しそうにせきこみながら、くりかえし話しかける声。


「キルン!ルーネ見て」

「気、静めて」


 キルンは自分の首にぶらさがるちいさい灰色の毛玉に目をやった。怒りの赤い炎が、もっと絶対的な心配に呑み込まれる。ルーネ、せきしてる。苦しそうにせきしながらしゃべってる。キルンは首を傾けてルーネの口元に自分の耳を押しつけた。


「長老、悪くない」

「ルーネ、寝たふり、聞いたの、ごめんなさい」


 何の話をしてるの。そんなにせきして、苦しそうなのに。まだ長老をかばう。ルーネのほかの誰も大事じゃないのに。いいんだよ。どうせルーネが行ってしまえば、キルンは寂しくて悲しくて死んでしまうんだから。ここで氏族に殺されたってかまわない。


「キルンの、胸痛いお願い、なに?」


 キルンの願いはたったひとつだけ。口に出さないようにずっと我慢してた願い。


「お願い、ルーネ」

「キルンなんでもするから」

「お願いだから、どうか」

「キルンをおいていかないで。どこにもいかないで」

「ずっと、ルーネといっしょに」


 いつのまにかキルンは人型になっていた。自分よりずっと小さなルーネにしがみつくようにして、その顔をルーネの灰色の髪に埋め、泣きながらささやく。

 突き放されるものと覚悟した手は、ひんやりと銀の頭をなでた。ルーネが自分からキルンをなでるのはこれが初めてだった。小さい右手はさらさらとキルンの髪をなでた。何度も何度も。キルンは震えながら泣き続けた。


「うん、いっしょにいる、ずっとね」

「キルン、白魔にならないように」

「ルーネがいっしょにいてあげる」


 キルンの涙にぬれた蒼い目は、ルーネの山葡萄色の目を見つめた。ルーネはにっこりとほほえみかけた。償われるのではなく、与えあう喜びのために。

 こうして、キルンとルーネは伴侶となり、末長くむつまじく暮らした。これ以降、雪狼氏族の誰もが、二度とルーネを「灰色の疫病神」と呼ぶことはなかった。ルーネはキルンの心を守るものだから。


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― 新着の感想 ―
[気になる点] 友人枠として出て来たと思ったソーマさんが後半からセスさんに完全に取って代わられた件 [一言] これ、雪崩が起こらなかったらルーネ山に捨てられてただろうし、起こったら全身ズタボロにされた…
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