四十一話 その愛を覚えてる(完)
よく晴れて澄んだ空から光が差し海が眩しく煌くその日、百合恵とラルフの挙式を迎えた。
まるでグランヴィル侯爵領を初めて訪れた日のようだと百合恵は思う。
花嫁の支度を終えた百合恵は介添え人に促され控室を出ると長い廊下を渡り礼拝堂の扉の前に立った。
そこには花嫁の父の代理としてアレクが待っていた。
薄いヴェール越しに視線を合わせるとアレクは淡く微笑んだ。
「ユリエ・・・おめでとう。いつでもあなたの幸せを願っている」
「アレクさ・・・」
百合恵はお礼を述べるために開いた口を閉じ、アイスブルーの瞳を見つめた。
頭の中でアレクの言葉がこだまする。
アレクは今、「ユリエ」と呼んだ。
こちらに来てからの呼び名である「ユリ」ではなく、二人が一緒に過ごしていたころの呼び名で。
違和感のないきれいな発音で「ユリエ」と。
「もしかして・・・アレク?」
震える百合恵の声に、アレクはアイスブルーの瞳を揺らせた。
空と海を描いた青のグラデーションも美しいステンドグラスが外からの日差しを受け、礼拝堂内部に光を踊らせている。
祭壇の前で待つラルフは数メートル先の扉をじっと見つめていた。
その扉が開き、花嫁がやって来ることを信じて。
ステンドグラスの踊る光がラルフの顔に掛かる。
そっと目を閉じたラルフはあの日のアレクと交わした会話を思い起こした。
アレクが倒れ、意識を戻したあの日。
ラルフはアレクが階段から落ちて気を失ったと聞いた時から、もしかしてと思っていた。
その状況は、百合恵から聞いたアレクが百合恵のいる世界へ渡った時の状況と同じだったからだ。
そしてアレクが目覚めたとき、一度だけ「ユリエ」と呼んだ。
それがラルフに確信を持たせた。
百合恵からアレクと過ごしていた日々を話して聞かされたことがあるラルフは、そこでアレクが「ユリエ」と呼んでいたことも知っていたのだ。
どんな理があり異世界へ渡るのかラルフにはわからない。
あるいは何の法則もない気まぐれなものかもしれない。
その証拠とでも言うように、アレクと百合恵の時間はズレていた。
百合恵があと数か月遅くこちらの世界へ来たならば、それはアレクが異世界へ渡った後であり、二人は結ばれただろう。
もしくはアレクがもう数か月早く百合恵の世界へ渡れたなら、その直後に百合恵がこちらへ来て、やはり二人は結ばれることになったはずだ。
だが二人はすれ違った。
アレクは百合恵を忘れていたわけではなく、まだその時が来ていなかっただけだった。
その事実はラルフにとっては衝撃だった。
百合恵はアレクを想いながらも、ラルフに少しずつ好意を見せてくれるようになり、ようやくラルフだけを好きだと言ってくれるようになったのだ。
アレクへの想いからラルフへの想いを無かったことにしようとしたり、戸惑ったりしながら、それでも自分の気持ちを見つめ続け、ラルフを選んでくれた百合恵。
その百合恵が過去にどんなにアレクを想っていたかも知っているラルフは、百合恵が自分の手を放してしまう不安に苛まれた。
百合恵と思いを寄せあっていたアレクが、今その時の想いのまま目覚めたのだ。
だがラルフがどんなに不安を感じていようとも、百合恵にもアレクにも不誠実な真似はしたくなかった。
それは後々ラルフ自身が後悔しないためでもある。
だからラルフはアレクが意識を取り戻してすぐに確認したのだ。
「兄さん・・・ユリィの世界に行ったんだね?」
「・・・ああ」
「ユリィのことを愛している?」
「・・・・・・」
「兄さん!」
「ああ。だが、私の想いもこのタイミングで異世界へ渡ったこともユリエに告げるつもりはない。こちらでユリエはおまえを選んだ。それがすべてだ。彼女には自分の心を大切にしてもらいたいと願っている。誰を選んでも彼女の幸せを思うことに変わりはない」
「・・・兄さんは・・・それで平気なの・・・?」
ラルフの問いにアレクは確かに頷いた。
アレクはこのときラルフを選んでいた百合恵に真相を告げず、見守る愛を選んだ。
それからもアレクの態度は変わることはなかったが、ラルフは迷った。
アレクの意思に反して百合恵にこの真相を告げるべきか。
アレクの意思を尊重すべきか。
百合恵はこの事実を知りたいと思うか。
そして一番迷わせているのは、百合恵を手放したくないというラルフの想いだった。
それが結果的に百合恵を不安にさせ悲しませた。
さらにみっともなく「俺を選んでほしい」と願ってしまった。
優しい百合恵を困惑させることを承知で自分の本音を押し通した。
それに百合恵は応えてくれた。
百合恵はラルフの存在が愛おしいと言ってくれた。
ラルフはそのとき交わした愛を覚えている。
百合恵の愛を信じているし、愛される自分であると信じている。
そして百合恵も同じ想いを持っていると信じている。
その想いを噛み締めながらラルフは扉が開く瞬間を静かに待った。
百合恵はアレクの顔を食い入るように見つめた。
「私のこと、思い出したのね・・・?」
「・・・半年前に階段から落ちたあとに。あなたに真相を告げるつもりはなかったのだが・・・」
「私が・・・ラルフを選んだから?」
「あなたに心のままに生きて欲しかったからだ」
その言葉に百合恵は目を潤ませた。
アレクの愛情は見守るように今も百合恵を包んでいる。
「ありがとう」
万感の思いを込めて百合恵は伝える。
「あなたが私を愛してくれたことを私は覚えてる。あなたが最後に言ってくれた言葉もずっと覚えてる。アレクは私と離れるときにはもう知っていたんだね・・・私がラルフを好きになること。だから私が迷わないように、自分の気持ちに後ろめたさを感じないように言ってくれたんだよね?私の幸せを優先するようにって。心のままにって言ってくれたんだよね?私、アレクとラルフのおかげで自分を大切にできるようになったの。・・・本当にありがとう」
ヴェール越しに百合恵の頬を伝う涙をアレクはぬぐうことができない。
それはこの扉の先に待つラルフの役目だから。
涙をぬぐう代わりにアレクは左の口角を上げて微笑んでみせた。
やがて扉は開かれ、百合恵はアレクのエスコートでバージンロードを歩く。
一歩ずつ、これまでの想いを胸に。
そしてアレクからラルフへと百合恵の手は引き渡された。
ラルフのもとに着いた百合恵の目と頬には涙がまだ消えずに残っている。
それを見たラルフは切なげに目を細めた。
ラルフのその表情で、百合恵は自分がアレクの真実を知ったことをラルフが気付いたのだと感じた。
そして涙の理由を誤解しているのではないかと感じた。
真相を知り、アレクの元に戻りたがっている後悔と悲しみの涙のように思わせたのではないだろうか。
そうではないとラルフを安心させたいのに、始まった式の途中では口を開くことが出来なくてもどかしい。
やがて誓いの言葉を述べる段になったが、涙で声が震えてしまった。
誓いの口づけになり、ラルフが百合恵のヴェールをあげる。
視界が晴れた百合恵は自分の想いを伝えるように、涙で濡れた目で熱心にラルフを見つめた。
そんな百合恵にラルフは淡く微笑むと手袋をはずし、百合恵の頬を手のひらで包み込み涙をぬぐう。
ラルフの手のひらの温かさと優しさに包み込まれた百合恵はやっと想いを言葉に出来た。
「ラルフ・・・愛してる」
その想いに応えるようにラルフは優しい笑顔を百合恵に返した。
「俺が不安を隠していたときもそう言ってくれたよね・・・。ありがとう。俺はユリィが示してくれた愛を覚えているよ。そしてこれからも愛していくと誓う」
想いを込めた誓いの口づけのあとに、ゆっくりと二人の顔が離れる。
左目を細めて微笑むラルフに、百合恵は一番の笑顔を見せた。