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狼王と兎少女  作者: 亀吉
番外編
53/58

はぐれもののうた。 1

屋敷の三人の過去話です。

狼と吸血鬼。

 無数の生命が静かに息づく森の中。

 芽吹いて百年は経つであろう木の下で、座り込んだその少年は空を見上げていた。

 その双眸は今の空と同じ灰色をしていて、しかし、曇天よりも重く沈んだ色をしていた。そこに子供らしい無邪気な光は一切見えない。

 黒髪が風に揺れる。その風に湿った匂いを嗅ぎ取った少年は汚れた布を羽織って立ち上がった。寒さを凌ぐには心許ない布だったが、少年はあまり気にしなかった。

 歩き始めた少年を向かい風が煽る。布の隙間から褐色の肌が覗く。まるで自分の道のりを邪魔するような風に、少年は小さく舌打ちすると鋭く前を見据えた。


「……とりあえず、東にでも行くか」


 薄い唇から漏れた声は、子供が発したものとはとても思えないほどに落ち着いていた。

 少年は東へと向かうべく、森の出口に向かう。

 冷たい地面に小さな足跡を残して。


 ***


 澄んだ泉に燃えるような夕陽が浮かんでいる。

 その畔に咲いているのは、夕焼けの赤とはまた違った美しさを持つ深紅の薔薇だった。

 高貴な甘い香りが漂う。畔のあちこちに咲く赤い花の一つから、薄紅色の丸い光がふわりと生まれ落ちた。光の中に薄く人影が見える。

 その光は、花の精霊だった。

 花の精霊は楽しそうに宙を舞った後、微笑ましげに自分を眺めていた少年の傍に行った。


「サーヌ、こんにちは」


 光の玉からは優しい女性の声が聞こえてきた。


「こんにちは、フェズ」


 染み一つも無い白肌。美しい金髪の毛先が肩を擽る。サーヌと呼ばれた少年は頬を綻ばせる。

 そして、持っていた銀の如雨露を薔薇の根本に傾けた。先端から水が注がれて、跳ねた水玉がきらきらと煌めく。


「君の仲間も早く出てこられたらいいね」

「そうねー……気配はするから眠っているのは確実だし、気長に待つとするわ」


 サーヌの周囲をふよふよと漂いながら、フェズは呑気に呟く。と、仲間たちに水を与えている少年の袖口にある物を見つけた彼女は、ひょいとそこに近付いた。


「サーヌ、これって……」

「え? ……あ、付いちゃってたんだ」


 フェズに言われて視線を向けたサーヌは、自分の袖口に付いていたものを見て、少し困ったように眉を下げた。

 白いシャツに目立つ、点々とした赤黒い染みーーそれは紛れもない血痕だった。


「さっき、皆が食事だったから……」


 サーヌは苦笑しながら呟くように言う。

 それを聞いたフェズは心配するように小さく揺れた。


「……大丈夫だったの?」


 気遣いが分かる優しい声を受けて、表情に少し陰が落ちていたサーヌは青色の瞳を緩やかに細めた。


「うん、お腹空いてないって言って、部屋にいたから」

「そう……」


 そこで二人の会話は途切れる。

 何処か遠くで黒い鳥の鳴き声が聞こえた時、サーヌはそっと口を開いた。


「……変だよね、血が嫌いな吸血鬼なんて」


 雫のようにぽつりと落ちる声。

 フェズが見れば、そこには微笑みを浮かべたサーヌの顔があった。

 寂しい夕焼け色に染まったその笑顔を前にして、彼女は思わず言葉を失ってしまう。

 それでも何か言葉を掛けようとした時、サーヌは森の方を振り返った。少し尖ったサーヌの耳にだけ、吸血鬼特有の超音波が聞こえてくる。


「あ……呼ばれてるから、行かなきゃ」

「サーヌ……」

「また明日、水をあげに来るから。またね」


 銀の如雨露を薔薇の根本に隠すように置いて、サーヌは笑顔で手を振りながら森の奥へと帰って行く。

 フェズは不安そうに漂いながら、その小さな姿を見送った。


 ***


 パン、と乾いた音が、暗い部屋に響く。


「……っ」


 床に転がったサーヌは叩かれた頬を押さえ、痛みに目を潤ませながら唇を噛み締める。それでも僅かな隙間から、堪えきれない泣き声が漏れ出ていく。

 そんな痛々しい様子を、サーヌと同じ髪色をした長身の男性が冷たい眼差しで見下ろしていた。


「またお前は食事を取らなかったのか」

「ご、めんなさ、父さ……」


 まだ幼いサーヌにとって父親は絶対であり、何よりも強く恐ろしい存在だった。そんな存在に睨まれて、怯えきった小さな体は自然と震える。

 目にたっぷりと涙を浮かべながら謝る我が子を、父親は冷え切った非情な面持ちで見つめる。

 やがて鼻を鳴らすと、踵を返して背を向けた。


「もういい、限界だ」

「……え?」

「これ以上、出来損ないの異端児を家に、いいや、一族には置いておけない。出て行け」

「ーー……っ」


 自分を突き放す無感情な声に、呼吸が詰まった。

 見開いた瞳の端から涙が零れ落ちていく。

 しかし、振り返ることもせずに部屋を出ていった父親が気付く筈も無く、暗い部屋に残されたサーヌはただ呆然と床に座り込んでいた。

 それからは、もう無意識に動いていた。

 気が付けばサーヌは真っ暗な森の中を、重たい足を引きずるように歩いていた。ぼんやりと顔を上げれば、静かな泉にたゆたっている三日月が見えた。


「サーヌ、どうしたの!?」

「あ……」


 目の前に飛んできた光に、サーヌは目を瞬かせる。


「夜だから寝てると思ってた……」

「寝てたけど、気配を感じたから起きたのよ。まさかとは思ったのに本当にサーヌなんだもの」


 早口でそう言ったフェズは、サーヌの青い瞳が虚ろなことに気付いた。白い頬は片方だけ腫れていて、涙の流れた跡がそれを更に痛々しく見せている。

 只ならぬ事態だと察した彼女が言葉を発する前に、サーヌはいつものように微笑んでみせた。


「そっか、起こしちゃってごめんね?」

「別にそんなのいいのよ。それよりも……」

「あの、さ」


 僅かに勢い付いて吐き出された声に、フェズは驚いて思わず言葉を止めた。

 びくっと跳ね上がった光に、サーヌは申し訳なさそうに眉を下げながらも微笑みは崩さなかった。少し言い辛そうに唇をもたつかせた後、ゆっくりと口を開く。


「……僕も、今日からここで暮らしていいかな?」


 いつもより少しだけ明るい声色が、その言葉の裏にある陰を余計に際立たせた。

 薄紅色の光は何か言いたげに瞬いたが、やがてふわりと浮き上がって、サーヌの頭を撫でるように宙を漂った。

 その優しい光の下で、僅かに潤む瞳を細めたサーヌはそっと俯く。

 そして、震える唇を強く噛み締めた。

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