新しい世界
「明日、プレジールの方に行ってくる」
すっかり見慣れた光景となった四人での夕食時。
根菜と肉が丹念に煮込まれたビーフシチューを食べながらケルトーはそう言った。
それを聞いたパティの表情は一気に明るくなり、若干身を乗り出し気味にしながら口を開く。
「じゃあ序でに服の生地と食材の買い出しも頼む!」
「いいけど、直ぐには帰らねえぞ?」
「あ、久々に仕事してくるのかい?」
「まあな。最近顔出してねえし、暇潰しには丁度良いだろ」
「……?」
とんとんと進んでいく会話。しかしラパンだけは流れが分からず、食べかけのベーコン入りキッシュを両手に持ったままきょとんと小首を傾げている。
そんなラパンに気付いたケルトーは、シチューに入っていたジャガイモをスプーンの先でぐずぐずと割りながら言った。
「森を抜けるとリベルテ平原ってとこに出るんだ。其処を越えた先に、プレジールっていう馬鹿みてえにデカい城下町があるんだよ」
「あ、えと、森にいた時に聞いた事はあります。多分、私を捕まえてた人たちは其処から来ていたんだと……」
「……っ!」
ケルトーの問いに小さく頷いて答えるラパン。その答えにパティは一瞬悲しげに眉を下げる。
けれどラパン本人が特に気にする様子を見せていないのを見ると、直ぐに安心したように微笑んだ。
「ふーん……じゃあ、行った事はねえのか」
「はい、いつか行ってみたいですね」
「そうか……」
ラパンの返事を聞いたケルトーはそう呟くと、何かを考えるように顎に手を添えた。
それを見たラパンとパティは揃って首を傾げ、サーヌは次にケルトーが何を言い出すかが分かっているかのように穏やかな表情で黙っている。
そうして数秒の間を置いた後、考えが纏まったらしいケルトーは顎から手を離して「よし」と頷いた。
「んじゃ明日、一緒に街行くか」
「……え?」
「はあっ!?」
あっさりと提案された内容にラパンは目をぱちくりさせ、パティは驚いたままに大声を上げて思わず立ち上がる。
その勢いでテーブルに両手を突いたのでシチューが少し零れてしまったが、今のパティにそんな些細な事を気にする余裕は無い。
「な、何言ってるんだ、ケルトー! ラパンちゃんを森に閉じ込めてた奴らがいるんだぞ!? もし見つかりでもしたらどうするんだ!!」
今のところラパンが見つからずに済んでいるのは、霧の森の最奥であるこの屋敷と、不思議な霧が届く範囲内でしか行動していないからに過ぎない。
そこから出て見つかりでもしたら、再び森の何処かか、下手をすれば更に深い場所に幽閉されてしまう事は、火を見るより明らかだった。
「私はもう、ラパンちゃんには笑っていて欲しいんだ!」
ケルトーに腹の底からの大声をぶつけながら、パティは初めて出会った時のラパンを思い出す。
傷だらけの小さな体と何も映していなかった赤い瞳。そして欲望のまま無造作に切られた、美しすぎる銀の髪。
どれも今では漸く生き返ったのに、それをまた酷い目に遭わせるわけにはいかない。
こみ上げた感情に任せて叫んだパティは赤らんだ顔で呼吸を整える。
しかし、一方のケルトーは平然とした顔で琥珀色の酒を一口飲んでから、未だ興奮が冷め切らない様子のパティを灰色の瞳で真っ直ぐに見つめて答えた。
「だから、俺が一緒に行くっつってんだろ」
自分が一緒にいるのだから、危ない目に遭わせるわけがない。
暗にそんな意味が込められたその言葉には、寸分の迷いもない絶対的な自信が満ちていた。
「……っ」
声自体の大きさは今の自分の叫びよりずっと小さいにも関わらず、ケルトーの力強いその言葉はパティの胸をしっかりと貫いた。
突き刺さった場所から感情の高ぶりがゆっくりと抜けていくのを感じ、落ち着きを取り戻したパティは静かに席に着く。
「……うん、急に怒鳴ってすまなかった。ラパンちゃんも驚かせてごめん」
「そ、そんな、謝らないでください。パティさんが私を思ってくれたの、分かってますから……」
肩を落として申し訳なさそうに身を縮こまらせてしまったパティに、はっと我に返ったラパンは慌てて首を振る。
確かに驚きはしたが、自分の身を案じてくれたことは本当に嬉しかった。それをラパンが素直に伝えると、パティは「……ありがとう」とまだ少し落ち込み気味ながらも微笑んだ。
そうして話が一段落したのを見計らったサーヌがケルトーに声をかける。
「でも、連れて行くにもやっぱりラパンちゃんの髪は目立つよ?」
「そうだな……。パティ、どうにか隠せそうな服作れねえか?」
「えっ?」
「どうせ行くなら、此奴に少しでも安心出来る状態で楽しんで笑ってほしいだろ? それだったらお前の力も貸せってんだよ」
「……!」
潤んでいたパティの目が僅かに見開かれる。咄嗟にラパンの方を見れば「……お願いしてもいいですか?」と、遠慮がちながらも自分を頼る姿があった。
妹のように大切な少女が笑顔になる為に、自分が少しでも力になれる事がある。
それがパティにはたまらなく嬉しくて、今の今まで塞がっていた気持ちが一気に晴れていく。
「任せて! すっごい可愛い服、作ってみせるからな!!」
先程までとは打って変わって満面の笑みでそう高らかに宣言してみせたパティに、ケルトーは思わず「……単純な奴」と呆れ顔で呟き、ラパンとサーヌも顔を見合わせて小さな苦笑いを浮かべたのだった。
***
その翌日、普段よりも早めの朝食を済ませたラパン達は玄関ホールに集まって、街へ行く支度の最終確認をしていた。
今のラパンは普段着ているドレスとは違って、装飾が少ない厚手のワンピースの上からクリーム色のケープを羽織っている。そのケープには大きめのフードが付いていて、それを被ればラパンの銀髪は勿論、顔すらもすっぽりと隠すことが出来た。
「此処にお金と薬が何種類か、こっちにはお菓子、このポケットにはハンカチとちり紙が入ってるからな! あとは……」
「……どんだけ入るんだよ、そのリュック」
自分に出来る事があったのが余程嬉しかったのか、兎耳の装飾付きリュックまで作ったパティは確実に徹夜明けなのにも関わらず、目をきらきらさせながらラパンにリュックの中身を教えている。
そんなパティを若干引き気味に見ていたケルトーに、心配そうな顔をしたサーヌがそっと耳打ちをした。
「ケルトー、本当にラパンちゃんを連れて行くのかい?」
「あ? 何でだよ?」
「いや、確かに君となら護衛的な意味では安心だけど……」
「ケルトー! くれぐれもラパンちゃんに無理させないようにするんだぞ!?」
「わーってるよ、街でぶっ倒れられても困るしな」
横から割り込んできたパティの声にケルトーが意識を向けてしまったのを見て、サーヌはいまいち心配を拭えないままで言葉を飲み込む。
そして、リュックの中身を一人で確認しているラパンの傍に行くと、その小さな頭に手を置いて目線を合わせるように屈み込んだ。
「ラパンちゃん、気をつけてね。ケルトーから離れちゃ駄目だよ?」
「はい、分かりました」
「もしも離れちゃった時はその場から極力動かないでね。ケルトーなら匂いで直ぐに見つけてくれるはずだからさ」
サーヌの忠告をしっかりと胸に刻んだラパンはリュックをぎゅうと抱き締め、真面目な顔でこくこくと何度も頷いてみせる。
それを見たサーヌは少し安心したらしく、いつものように優しく微笑んでみせた。
「よし、んじゃそろそろ行くか」
「……! はい」
肩に引っかけていたフード付きのマントを羽織り、黒い革で出来た大きめのショルダーバッグを肩に掛けたケルトーはがちゃりと玄関のドアを開ける。
開いた先はまだ屋敷の敷地内なのでいつもと変わらない筈なのに、今のラパンには未知の世界への入り口のように思えた。
小さな胸がどきどきと高鳴っているのを感じる。
「じゃ、行ってくる」
「い、行ってきます……!」
「気を付けてな、ラパンちゃん! 行ってらっしゃい!」
「二人とも行ってらっしゃい。ラパンちゃん、街を楽しんできてね」
まるで永遠の別れかのように両手を振りまくるパティと穏やかな笑顔で自分たちを見送るサーヌに、ケルトーは「おう」とだけ言って片手を上げて応え、ラパンは何度も後ろを振り返りながら小さな手を目一杯広げて振ってみせた。
***
そうして屋敷の敷地内を出ると、あっという間に二人の周囲を濃い霧が包み込み、屋敷もパティ達の声も届かなくなった。
「おい、はぐれないように何処か掴んどけ。木苺取りに行った時よりも面倒な道通んなきゃなんねえから」
「あ……はい」
先を歩くケルトーにそう促され、ラパンは慌ててケルトーのマントの一部分をぎゅっと掴んだ。
右も左も分からなくなりそうな程に真っ白な霧の世界を二人は進んでいく。肌を撫でる空気はうっすらと冷たい。
時折錆び付いたような鳥の鳴き声が聞こえてきて、その度にラパンは怯えた様子で肩をびくりと跳ねさせては辺りを見回した。
(この森って、こんなに怖かったんだ……)
以前、ケルトーと木苺を採りに行った時は数分歩けば霧が晴れたのでそれほど怖くは無かった。しかし今は怖くて堪らない。
自分が今までどれほど危険な場所に幽閉されていたかを実感したラパンの胸の奥が冷たくなる。
自分を閉じ込めていた人間達は、恐らく此処まで森の深い場所に来た事が無いから平然とこの森に自分を置いていたのだろうが、いざこうして知ってしまうと恐ろしくて堪らない。
(……ケルトーさんに拾ってもらえて、本当に良かった)
目の前の背中をそっと見つめる。
お互いの距離は一歩半ほどしか無いにも関わらず濃霧の所為で少し霞んで見えたが、その背中はラパンにとって大きく広く、何よりも頼もしく見えた。
「少し止まれ。あと、なるべく息止めろ」
「……!」
不意に足を止めたケルトーの言葉を聞いて、ラパンは咄嗟に息を詰める。
そのまま言われた通り微動だにせず、呼吸も極力抑えていると、二人の目の前を黒い影がゆっくりと通っていった。ケルトーの背丈の三倍はあるだろうその巨大な影をラパンは見開いた目で見送る。
「よし、もういいぞ」
「い、今のは……?」
「魔物化した熊だ。動きは鈍いんだが、腹減ってるとしつこいから見つかると面倒なんだよ。んじゃ行くぞ」
ケルトーは平然と答えて歩き始める。
彼のマントを掴んでいるラパンはそれに引っ張られる形で、恐怖で竦んでいた足を漸く前に動かすことが出来た。
心臓は未だにバクバクと暴れていて、額や背中にはじんわりと嫌な汗が滲んでいるのを感じる。
「おい、ラパン」
「! な、何ですか……?」
もしかしてまた何かやって来たのだろうか、とラパンは無意識に身を強ばらせる。
しかし、肩越しに振り向いたケルトーの表情には警戒の色は無かった。
「怖いだろうけどついて来い。俺がいる」
いつも通りの調子でそう言ったケルトーは、自分を見上げるラパンの頭をぽんと軽く叩いてから、再び霧の中をすたすたと歩き始める。
ほんの数秒の事で咄嗟に反応を返せず、ラパンは暫し呆けたまま後ろをついて行くことしか出来なかったが、溢れそうになっていた不安が消えている事に徐々に気が付くと、
「……はい、ケルトーさん」
心の底から感じる安心感のままに、ふにゃりと笑った。
***
何十分か何時間か、霧の世界では時間は分からない。
あれからまた何度か得体の知れない生き物と出会いはしたが、先に気配を察したケルトーが機転を利かせたので、本格的な遭遇は免れた。
そうして森を歩き続けていた二人の前に、遂に明るい光が見えてきた。肌寒かった大気に温かさが混ざったのを感じ、ラパンの体から緩やかに緊張が抜けていく。
ケルトーも少しは気を張っていたのか、目を細めてふうと一息ついた。
「やっと出口か……」
「森を抜けたらリベルテ平原、でしたっけ?」
「おう。平原には魔獣もいねえから楽だぞ」
そんな会話を交わしているうちにも光は近付いてきて、二人は暗い霧の中から漸く抜け出した。
「きゃっ……!?」
途端、ぶわりと心地よい風が真正面から吹き上げてきて、ラパンは思わず目を瞑る。
そして風が止むと、眩しさに睫毛を震わせながらゆっくりと目を開いて、目の前に広がる景色をその深紅の瞳に映した。
「わ、ああ……っ!!」
「これがリベルテ平原だ。どうだ?」
「凄いです、凄い……! 思ってたより、ずっと、ずっと……!!」
澄んだ青空と、穏やかに流れる白い雲。何処までも続いていそうな草原を遮るものは何も無い。
開放感溢れるその光景にラパンは珍しく興奮で頬を赤らめて、堪らずケルトーのマントからぱっと手を離して駆け出した。
(世界には、こんな所があるんだ……!)
今までラパンが知っていた世界は、自分が生まれ育った小さな村と暗い森、そしてケルトー達と過ごす屋敷の三つだけだったが、それしか知らなかったので不満に思った事は無かった。
だけど今、こうして知れた途端、喜びと嬉しさが全身を包み込んでいく。
ラパンは目を瞑って両手を目一杯に広げ、その小さな体の全てで新しい世界を感じるようにその場でくるくると回る。そうすれば美しい銀の髪が踊り、笑うようにきらきらと煌めいた。
そんな少女の姿を普段よりも穏やかな眼差しで見守っていたケルトーだったが、暫くすると傍に歩み寄って、脱げてしまっていたフードをぽすんと被せてやった。
「ほら、まだまだ歩くぞ。はしゃぎ過ぎんな」
「あ……ご、ごめんなさい……」
我に返ったラパンは恥ずかしそうに俯いて、もそもそとフードを被り直す。
数秒前の興奮した様子が嘘のように変わったその姿に、ケルトーはつい堪えきれず、ぷはっと小さく噴き出してしまった。
「……?」
「くくっ……いや、何でもねえ。行くぞ」
「は、はい……?」
不思議そうにしながらも、ラパンは素直にケルトーの後をついて行く。
そんな二人を太陽は穏やかな表情で、透き通るような青空から見守っていた。
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