優しい悪者
「クレさん、これは何て読むんですか?」
「ああ、これは……」
ラパンの質問にクレは本から顔を上げ、指された文字を読んで意味を教える。それを聞いたラパンは用意してきた紙束に万年筆を走らせては書き留める。
そんな単純なやり取りを、クレの読書の邪魔にならないようにと昼食を終えた後の二時間に繰り返すようになってから、今日で早くも三日目を迎えた。
初めのうちは質問する事すら遠慮気味でぎこちなかったラパンだったが、クレが淡々ながらも分かり易く丁寧に説明してくれている事に気付いてからは安心したらしく、今ではすっかり慣れた様子で読み書きを習っている。
「ラパンは多分、賢い方に入るね。覚えが早い」
「そ、そんな事は無いです」
「それに勉強するのが楽しそうだ」
「あ……それは、はい、楽しいです……」
今まで勉強らしい勉強をしたことが無かったラパンにとって、クレとの勉強は実際とても楽しかった。
それに、新しい知識が入る度に自分が変わっていくような気がして、食事を取ったり散歩をした時とはまた別の満足感を感じられるのが嬉しかった。
素直に頷くラパンに、クレは「それは良いことだよ」と相変わらず感情が読みにくいぼんやりとした表情で言う。
「知識はあるに越した事は無いからね」
「はあ……」
「ああ、そうだ。今のラパンが読めそうな本を幾つか分けておいたんだっけ。そっちの方に積んであるから気になったの読んでご覧よ」
「あ、有り難うございます」
クレが目線だけで指した方を見れば、確かに薄い本が何冊か、分かり易いようになのか非常に分厚い本達の上にちょんと積み上げられていた。
ラパンは本の海をかき分けて其処までたどり着くと、腕を伸ばしてその薄い本達を手に取り、何冊かぱらぱらとページを捲って中身を見る。
どの本も文章は大きめの文字で書かれており、時折挿し絵が入っていて、どうやら簡単な童話小説のようだった。
「部屋に持って帰って、ゆっくりで良いからなるべく一人で読み切ってみなよ。どうしても分からない所があったら聞きに来ていいし」
「はい、分かりました。じゃあ読み終わったらまた来ます」
「うん。多分大丈夫だと思うけど、頑張ってね」
クレがそう言うのと、壁に掛かっている振り子時計が鳴ったのはほぼ同時だった。
ラパンは紙束と万年筆、そしてクレから渡された本達を抱えて「ありがとうございました」と丁寧に頭を下げてから書庫を出ていく。
それを見送ったクレがちょいと人差し指を動かすと、書庫のドアは独りでにゆっくりと閉じて、鍵穴は再びしっかりと塞がれたのだった。
***
自室に着いたラパンは、紙束と万年筆をテーブルに置いて、早速本を読もうと窓際の椅子に腰掛けた。
バルコニーに続く大きな窓には可憐なレースのカーテンが掛かっていて、天気の良い日は柔らかな日差しが射し込んできて気持ちが良く、ラパンのお気に入りの場所の一つだった。
今日も晴天なので其処には日溜まりが出来ている。ラパンはぽかぽかとした心地よさに目を細めると、とりあえず一番上にあった本を膝の上に開いた。
「ええと……」
指で文章をなぞりながら、一文字ずつ確認して読んでいく。途中で読めない字があったら、クレから教えて貰った事を書き留めてある紙束からヒントを捜して考え、それでも分からない部分は別の紙に書き残しておく。
しかしクレが予想していた通り、ラパンはあまり躓くことも無く、普通に読み書きが出来る者が読むのとほぼ変わらない速度で本を読み進めていけた。
そうして、一冊目の本を三十分ほどかけて読み終わったラパンはふうと息をついて、達成感と満足感に溢れた表情を浮かべた。
(パティさんみたいに優しい魔法使いが助けてくれて良かった……。あのまま虐められていたら可哀想だもん……)
たった今、読み終えた本の内容を思い返したラパンは満足げに笑う。
それから直ぐに新しい本に手を伸ばし、表紙に書かれた文字に指先をゆっくりと這わせながら、声に出して読んでみた。
「えっと、これは……『赤ずきん』?」
***
(あー……腹減った)
空の向こう側に夜が顔を覗かせ始めた頃、いつものように外出していたケルトーは屋敷に帰ってきていた。
空腹を主張する腹の煩さが気になるが、夕食までまだ時間があるので、それまで自室で寝ていようと廊下を歩いていると、
「お? ラパン、部屋にいたのか」
「あ、ケルトーさん……おかえりなさい」
静かに開いたドアから出てきた小さな姿に声をかければ、俯き気味だったラパンはそっと顔を上げて微笑んだ。
しかしその表情には陰が落ちていて、どう見ても元気があるようには思えず、それに気付いたケルトーは軽く眉を寄せる。
「……どうした」
「え?」
「元気ねえだろ。勉強上手くいってねえのか?」
傍までやって来たケルトーの灰色の瞳が、真っ直ぐにラパンを見下ろす。
一切の誤魔化しが通用しないと、受けた瞬間から分かる程に強いその視線に、ラパンは戸惑うようにふるりと深紅の瞳を僅かに揺らした後、
「っ、ケルトーさんは、優しいのに……っ!!」
小さな顔をくしゃりと歪めると、今にも泣き出しそうにしながら心底悔しげにそう言って、目の前に立つケルトーの腰にぽすっと抱き着いた。
「……は?」
出会ってから初めての行動と様子を見せたラパンに、普段は飄々とした態度をしているケルトーも思わず間の抜けた声を唇から漏らした。
そして自分の腰にぎゅうと引っ付いたまま、何やら呻いている少女の旋毛を呆然と見下ろす。
「……よく分かんねえけど、とりあえず来い」
このまま此処で立ち尽くしていても解決しない事だけは何となく察したケルトーは、未だ腰に抱き着いているラパンを半ば引き剥がすように脇に抱き抱えて自室に向かう。
その間もラパンはぐずぐずとしていて、自室に着いたケルトーがロッキングチェアに腰掛けてそのままラパンを自分の膝上に座らせても、不機嫌そうに眉を下げて小さな口をへの字に結んでいた。
「で、どうした?」
此奴はこんな顔も出来るのかと内心で少し感心しつつ、ケルトーはラパンの顔を覗き込むようにしながら問いかけてみる。
それでもむすりと頬を膨らませていたラパンだったが、数秒の間を置いてからその口をゆっくりと開いた。
「……クレさんが貸してくれた本が、ひどいんです」
「は? ……本?」
全く想定していなかった話題を出されて怪訝そうに首を傾げるケルトーを余所に、むっつりとした不機嫌オーラはそのままにラパンは話し続ける。
「どれも狼が、悪者なんです」
「……はあ?」
「子豚の兄弟のおうちを壊したり、子ヤギを襲ったり、女の子を騙して食べようとしたり。狼ばっかり悪者なんです。おかしいです。……ケルトーさんは優しいのに」
その言い分の最後の方で、ラパンはまた悲しそうに目を伏せていた。丸い膝の上で握られた小さな拳がぷるぷると震えている。
その姿を、話を聞きながら何か考えるように暫くじっと見ていたケルトーだったが、不意にはあっと溜め息をつくと、俯いているラパンの頭をわしわしと撫でた。
「世間的な狼のイメージってのはそういうもんだ。お前が気にする事じゃねえよ」
「でも……」
「でも、じゃねえよ。……あー、分かった。ちょっと待ってろ」
そう言うとケルトーはラパンを膝から下ろし、自分が腰掛けていたロッキングチェアに座らせるとさっさと廊下に出て行ってしまった。
部屋に一人残されたラパンは、抱えていた気持ちを吐き出して少し落ち着いた所為か、もしかして呆れられたのかと不安になる。が、その不安は杞憂だったと直ぐに分かった。
「ほら、いつまでも落ち込むな。お前の好きな菓子は無かったけどよ」
ものの数分で帰ってきたケルトーの手には、小さな籠があった。その中には可愛らしい丸形のスコーンが四つと、黄金色をした林檎のジャムが入った瓶が一つ。
ケルトーは再びラパンを膝上に乗せてロッキングチェアに着くと、瓶の蓋を開けて銀のスプーンでジャムを掬う。
そして、月を溶かしたようにきらきらと輝くそれをスコーンにたっぷりと塗り、ぽけっと半開きになっていたラパンの口元へひょいと差し出した。
「甘いもん食ってる時のお前は元気だからな。食え」
「え、あのっ」
「いいから、食え」
「……いただきます」
間近で少し強めに促されては断れるわけもなく、ラパンは大人しくスコーンを受け取ると、上に乗るジャムを零さないようにかぷりとかじり付いた。
スコーンの素朴な甘さとジャムの爽やかな甘酸っぱさが、舌の上でお互いを見事に引き立てあって、その美味しさにあれほど固かったラパンの表情もふわっと緩んだ。
自分の膝の上でスコーンをはむはむと頬張り始めたラパンを見て、ケルトーも心なしか安心したように目を細める。
と、スコーンを半分ほど食べ進めたラパンがふと食べるのを止めてちらりと目線を向けてきたので、何だと首を傾げてやれば、
「ケルトーさんは女の子を食べたりするんですか?」
「……はあ?」
そう尋ねるラパンの瞳に恐怖や軽蔑の色は全く無く、ただ純粋な疑問だけが浮かんでいる。
狼男である自分に対して、どこまでも無防備で無垢な目の前の少女に、ケルトーは思わず本日二度目の間抜けな声を上げた。そして、
「っ、ははははっ!!」
こみ上げてきた感情のままに、大声で笑った。
それに驚いたラパンがびくっと肩を跳ねさせたが、気にせずに笑い、笑い、笑い続けて気が済むまで笑ったケルトーは目尻に涙を滲ませながら、驚きが抜け切らずにぽかんとしているラパンの細い顎を指先で掴んだ。
「お前、最初の頃に見ただろ? 俺は人を噛み殺せるんだぞ? ……喰って欲しいなら喰ってやろうか?」
そう言ってケルトーはにんまりと口元を歪め、刃のように鋭い牙を見せつける。
人間の喉笛をあっさりと噛み切れるその凶器をラパンは静かに見つめ、長い睫毛をぱちぱちと上下させた後、紅玉色の丸い瞳にケルトーの怪しい笑みを映して、
「ケルトーさんが私の事を食べたいと望むなら、いつでも食べてください」
まるでスコーンでも差し出すかのような無垢な微笑みと共に、あっさりとそう答えた。
そこには、強がりも畏怖も諦めも無い。
そう心から思っているものだと、勘が良いケルトーで無くても分かってしまう程にまっさらな気持ちを乗せた言葉で返されて、返事に詰まったケルトーは牙を隠して口を噤む。
「……冗談だ、バーカ」
呟くようにそう言ったケルトーは、ラパンの鼻先に付いていた林檎のジャムをぺろりと舐め取って、にんまりと目を細めて笑った。
それに驚いて林檎のように真っ赤になったラパンが、ケルトーの膝上から転がり落ちて気絶してしまい、見計らったかのようなタイミングで様子を見に来たパティが案の定大騒ぎしたのはーーまた別の話である。
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