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未定義感染  作者: 語り屋


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6話 見えない足音

 六月の下旬に入っていた。国防軍投入のニュースから、三週間あまり。梅雨空の下、三浦は傘を差しながら坂を上っていた。この三週間で、三浦の日常は、もう以前の日常には戻れないところまで来ていた。


 六十一件だった事案は、百三十件を超えていた。舞台は、これまでの国境地帯や地方都市から、フリーステート州の州都、ブルームフォンテーンにまで広がっている。人口五十万を超える、南アフリカでも有数の都市だった。死者は、確認されているだけで二十四名。そして、この二週間で、これまでとは質の異なる情報が、三浦のもとに次々と届き始めていた。


 情報集約センターの朝の引き継ぎも、以前とは様子が変わっていた。当直職員たちは、もう「あの件」とすら呼ばなくなっていた。誰も呼び名を口にせず、ただ、経過概要の束を黙って三浦に手渡すだけになっている。呼び名がなくなる、というのも、名前をつけられないことの、もう一つの現れなのかもしれない、と三浦はぼんやり思った。


【参考情報・経過概要】


作成:内閣情報集約センター 件名:南部アフリカにおける一連の暴力事案について(経過概要・更新)


一、事案はフリーステート州都ブルームフォンテーン近郊にまで拡大し、現時点で確認されている件数は百三十二件。うち二十四件で死者が確認されている。


二、南アフリカ国立感染症研究所(NICD)の一部研究者が、非公式に、症例の臨床像が「狂犬病、あるいはその亜種」に類似するとの見解を示していることが、現地報道で伝えられている。ただし、NICDとしての正式な見解は、現時点で公表されていない。


三、南ア国防軍(SANDF)は、ブルームフォンテーン近郊での警戒任務中に、対象者との交戦が複数回発生したと発表した。詳細は別紙参照。


四、外務省は、南アフリカ共和国フリーステート州全域について、危険情報レベルを「レベル3(渡航は止めてください)」に引き上げた。


五、在留邦人及び日系企業への直接的な影響は、依然として確認されていない。


以上


【参考情報・現地報告(防衛駐在官経由)】


件名:南アフリカ国防軍現地部隊からの報告について


 在南アフリカ日本国大使館防衛駐在官が、南ア国防軍関係者から得た情報として、以下の報告があった。


一、六月二十二日、ブルームフォンテーン近郊における警戒任務中、部隊が複数の異常行動者と接触。制止のための威嚇射撃、続いて下肢への射撃を実施したが、行動停止に至らず、最終的に近接距離での複数発の銃撃により制圧した。


二、現場に居合わせた兵士の証言として「撃たれても速度を落とさなかった」との報告があるが、南ア国防軍は公式には、対象者が薬物の影響により痛覚を喪失していた可能性が高いとの見解を示している。


三、同種の交戦報告は、この一週間で確認されているだけで四件。


以上


 三浦はこの二枚の書類を、何度も読み返した。「狂犬病、あるいはその亜種」という言葉と、「撃たれても速度を落とさなかった」という一文。この二つが並んだとき、三浦の頭の中で、ようやく一つの輪郭が像を結び始めていた。だが、その像がどれほど具体的になっても、三浦にはまだ、それを声に出す言葉がなかった。


 狂犬病であれば、少なくとも、既知の病気だった。ワクチンがあり、治療のプロトコルがあり、国際的な報告義務がある。だが、報告書に書かれている症状の一つ一つが、三浦の知っている狂犬病の知識から、少しずつ、しかし確実にはみ出していた。はみ出した部分にこそ、この現象の本当の姿があるのだろう、と三浦はぼんやり思った。だが、はみ出した部分に名前をつける言葉は、まだこの世界のどこにも用意されていなかった。


 九時の定例で、樫村肇は、二枚の書類を並べて、長い間、黙って見つめていた。


「狂犬病の亜種、か」


「NICDの研究者の、非公式な見解です。正式な発表ではありません」


「もし正式にそう発表されたら、うちはどう動く」


 三浦は少し考えてから答えた。


「厚労省の検疫・感染症対応の枠組みに、少なくとも一部は移ることになると思います」


「移ったところで、何をする。国内に狂犬病の亜種とやらの患者が現れたとして、それをどう隔離する。どう治療する。ワクチンも治療法も、まだ何もないんだろう」


 三浦は答えられなかった。


「名前がつけば、少なくとも担当は決まる。だが、担当が決まったところで、何をすればいいのか、誰も分かっていない。俺が薄気味悪く思っているのは、そこだ」


 樫村はそう言って、もう一枚の書類——防衛駐在官経由の報告——を指先で叩いた。


「これだ。撃たれても止まらない、という一文。狂犬病の患者が、こんな動きをするか」


「通常の狂犬病では、あり得ないと思います。痛覚が完全に失われることも、下肢を撃たれてなお行動を継続することも、既知の症例には、ほとんど報告がありません」


「だったら、狂犬病の亜種、という名前は、正しいのか、正しくないのか」


 三浦はしばらく沈黙してから、正直に答えた。


「近いが、正しくはないと思います」


「近いが、正しくない」


 樫村はその言葉を、一度、口の中で繰り返した。


「一番厄介なのは、それだ。まったくの謎なら、誰も油断しない。だが『近い名前』がついた瞬間、みんな、分かった気になる。分かった気になった瞬間、そこで思考が止まる」


「思考が止まる、というのは」


「狂犬病なら、こうすればいい、という手順が、みんなの頭の中に、うっすらとある。ワクチン、咬まれた後の処置、動物由来の感染症対策。だが、その手順のどれ一つとして、今回のこれには、通用しない。通用しないと気づくまでに、みんな、余計な時間を使うことになる」


 三浦はその言葉に、静かに頷いた。近い名前がもたらす安心感と、その安心感がもたらす遅れ。それは、これまでの「名前がないこと」による遅れとは、また別の種類の危うさだった。


「危機管理監は、正式にはどう扱うつもりですか」


「まだ決めていない。ただ、少なくとも、狂犬病という単語を、うちの内部文書に書く準備だけはしておく。書かない、という判断も、書く準備をした上でしかできない」


 夕方、佐伯が三浦のデスクに来たとき、その表情は、これまでと明らかに違っていた。


「もう、隠れて集める必要がなくなりました」


「どういうことだ」


「動画が、普通に出回るようになったんです。削除される前に見れば、誰でも見られます。むしろ、削除が追いついていません」


 佐伯はタブレットを差し出した。三浦は画面を見て、しばらく言葉を失った。市街地の路上、複数の人影が、逃げ惑う住民の一人に群がっている。画面は激しく揺れ、鮮明ではない。それでも、何が起きているのかは、もう疑いようがなかった。別の動画では、路上に倒れた人影に、複数の兵士らしき人物が発砲している。人影は、しばらくの間、明らかに動き続けていた。


「これで、何件目だ」


「数えるのをやめました。数えられる数じゃなくなったので」


 佐伯の声には、これまでの興奮とも違う、疲れたような響きがあった。


「黄色いピンの区別も、もう意味がなくなりました。負傷者が『変化』するかどうかを疑う段階じゃなくて、変化した後の人間が、市街地でどう振る舞うかが、映像で分かるようになったので」


「地図は、まだ更新しているのか」


「してます。でも、赤いピンが多すぎて、もう国単位でしか色分けできません」


 佐伯はタブレットをしまいながら、続けた。


「三浦さん、正直に言うと、私、もう自分がこの情報をどう扱えばいいのか、分からなくなってきてます。これまでは、裏を取る、報告に上げる、上げない、っていう判断がありました。でも今は、映像そのものが、判断を必要としないくらい、はっきりしてしまっていて」


「はっきりしている、というのは」


「見れば分かる、ということです。分析する必要すらない。ただ、見た人間が、それをどう受け止めればいいのか分からないだけで」


 三浦は画面を見つめながら、自分の中で、これまで慎重に保ってきた何かが、静かに崩れていくのを感じた。伝聞でも、噂でもない。映像として、これだけの数が、これだけ明確に、同じ行動パターンを示している。それでも、三浦は、その行動に名前をつける言葉を、まだ持っていなかった。持っていたとしても、それを口にした瞬間に何が起きるのか、想像がつかなかった。


――News24(南アフリカ大手ニュースサイト)6月23日付・日本語訳(内閣情報集約センターによる仮訳)――


「南アフリカ国立感染症研究所(NICD)の研究者は、匿名を条件に、一連の異常行動事案について、『臨床像だけを見れば、狂犬病、あるいはその亜種に近い』との見解を示した。ただし、同研究者は同時に、通常の狂犬病では説明のつかない点も多いと強調した。発症までの潜伏期間の短さ、患者の行動範囲の広さ、そして何より、通常の鎮静・鎮痛処置がほとんど効果を示さない点は、これまで知られているいかなる狂犬病ウイルス株の症例とも一致しないという。NICDは正式な見解の発表を控えているが、複数の研究者が非公式に、検体の追加解析を進めていることを認めている」


 この記事を読んだとき、三浦は「一致しない」という言葉に、奇妙な安堵と、それを上回る不安を、同時に覚えた。一致しない、ということは、誰かがまだ、正確な答えを持っていない、ということだった。だが、それは同時に、正確な答えが出るまでの間、誰も適切な対応を取れない、ということでもあった。


 その夜、三浦は珍しく、自分から美咲に電話をかけた。


「あの記事、読んだか。狂犬病の亜種、っていう」


「読んだ。あれ、うちのデスクも色めき立ってる。次の特集の目玉にしたいらしい」


「一つだけ言っておく。あれは、近いが、正解じゃない」


 電話の向こうで、美咲がしばらく黙った。


「恒一が、自分から電話してくるなんて、珍しいね」


「珍しいことを言ってる自覚はある」


「近いが正解じゃない、っていうのは、じゃあ何が正解なの」


「分からない。分からないから、こうして電話してる」


 三浦は、自分の声が、自分でも驚くほど頼りなく響いているのを感じた。美咲は、それ以上は追及しなかった。


「分かった。狂犬病だけを鵜呑みにした記事は書かない。それだけ、約束する」


 電話を切ったあと、三浦は自分が今、何をしたのかを、あらためて考えた。情報を渡したわけではない。ただ、確信の度合いを、一つ、外に漏らしただけだった。だが、それすらも、これまでの自分なら、絶対にしなかったことだった。


 その日、答弁書の想定問答にも、一行が追加されることになった。「一部報道にある『狂犬病』等の表現について、政府としての見解如何」。三浦はその一文を見て、白紙に向き合う自分の手が、これまでで一番重く感じられた。書けることは、また一つ増えた。だが、書けることが増えるほど、書かなければならないことの輪郭は、かえって曖昧になっていくようだった。


――読売新聞 2026年6月24日 朝刊(国際面)――


【南部アフリカの暴力事案、州都にも拡大 「狂犬病の亜種」との見方も】


 南部アフリカで拡大している集団暴力事案が、南アフリカ共和国フリーステート州の州都ブルームフォンテーン近郊にまで広がっていることが分かった。関係者によると、確認された事案は132件、死者は24人に上る。現地の専門家の一部からは、症状が「狂犬病の亜種」に類似するとの見方も出ているが、公式な原因究明には至っていない。南ア国防軍は、警戒任務中に対象者との交戦が相次いでいるとしている。〔共同〕


 三浦の机の上には、もう「上げるか、上げないか」では済まない量の情報が、積み上がっていた。百三十二件、二十四名、狂犬病の亜種という近い名前、撃たれても止まらないという遠い現実、そして美咲に漏らしてしまった、もう一つの確信。それらを一つの言葉にまとめる作業は、三浦にはもう、手に負えないもののように感じられた。


 名前がつきかけている。だが、名前がつくということは、三浦がこれまで思っていたような、救いではなかった。名前がついた瞬間、今度は「その名前で、何をすればいいのか」という、まったく新しい、そしてより大きな問いが、待ち受けていた。三浦はまだ、その問いに答える準備が、自分にも、この国にも、できていないことを、はっきりと感じ取っていた。


 その夜、志乃に「最近、疲れてる?」と聞かれたとき、三浦は初めて「ちょっとな」とだけ答えた。それ以上は続けなかった。志乃もそれ以上は聞かなかった。ただ、いつもより少し長く、三浦の肩に手を置いていた。三浦はその手の重みを、これまでのどの夜よりも、ありがたく感じていた。

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