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未定義感染  作者: 語り屋


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28話 かつての記憶

 十二月半ば。三浦のもとに、その日の経過概要が届いたとき、対策室の空気は、これまでとは違う、ある種の到達点を迎えていた。


【対策室・経過概要】


作成:内閣情報集約センター 件名:国内症例数の一万件突破について


一、本日未明、国内における症候群の累計確認症例数が、一万件を突破した。十二月一日時点(約千二百件)から、二週間で、約八倍の増加となる。


二、症例数の増加に伴い、対策室による個別事案の一元管理は、実務上、限界に達した。本日付で、症例対応の権限の一部を、都道府県単位に委譲する体制へ移行する。対策室は、今後、全体方針の策定と、都道府県間の調整機能に、役割を移行する。


三、これにより、対策室が個々の症例を直接把握する体制から、集約されたマクロ的な統計を管理する体制へと、実務の性質が変化することになる。


以上


 三浦は、その一文——「対策室による個別事案の一元管理は、実務上、限界に達した」——を、何度も読み返した。半年以上前、九件目の報告に、一人で判を押していた頃から、三浦は、常に、一つ一つの事案と、向き合い続けてきた。それが今、数字という、もっと大きな、しかし、もっと顔の見えないものに、置き換わろうとしていた。


「一万件、か」


 樫村が、静かに呟いた。その声には、これまでのどんな数字を聞いたときよりも、深い疲労が滲んでいた。


「都道府県への権限委譲は、うまくいきますか」


 三浦が尋ねると、樫村は、しばらく考えてから答えた。


「うまくいく、いかないの前に、そうするしかない。この規模になった以上、東京の一室が、すべてを把握しようとすること自体が、もはや、現実的ではなくなっている」


 厚労省の担当者が、補足するように言った。


「各都道府県には、すでに、症候群対応の専任部署の設置を、要請しています。ただ、地域によって、医療資源にも、行政能力にも、大きな差があります。すべての都道府県が、同じ水準で対応できるとは、正直、思えません」


「格差が生まれる、ということですね」


 佐伯が、確認するように言った。


「恐らく。都市部と地方、財政的に豊かな自治体と、そうでない自治体——これまで潜在していた格差が、この危機を通じて、はっきりと、可視化されることになると思います」


 三浦は、その言葉に、これまでの半年間、国という単位で見てきた事態が、今、さらに細かい単位——都道府県、市区町村、そして、一人一人の生活へと、その重さを、分散させながら、同時に、深く根を張り始めていることを感じた。三浦は、その言葉に、これまでの半年間、三浦たちが誇りにしていた——あるいは、誇りとまでは言えなくとも、頼りにしていた——「一つ一つの事案を、丁寧に扱う」という仕事のあり方が、静かに終わりを迎えつつあることを、実感した。


 十二月の東京は、例年であれば、年末商戦と、忘年会の喧騒に包まれる季節だった。だが、三浦が対策室から帰る道すがら目にする街の景色は、その例年の賑わいとは、まるで無縁だった。イルミネーションだけは、律儀に灯り続けていたが、その光の下を歩く人の姿は、まばらだった。商業施設のシャッターは、閉まったままの店が目立ち、飲食店の看板には、営業時間短縮を告げる張り紙が、あちこちに貼られていた。コロナ禍のあの頃と、よく似た光景だった。三浦は、当時、まだ所轄勤めだった自分が、同じように静まり返った街を、巡回していた記憶を、ふと思い出した。


 そして、あの頃と違うのは、街を満たす音だった。かつては、静けさそのものが、この街の異常を物語っていた。今は、その静けさを破るように、絶え間なく、救急車とパトカーのサイレンが、街のどこかから、聞こえ続けていた。一台の音が遠ざかったかと思えば、また別の一台の音が、近づいてくる。三浦は、その音の途切れなさに、これが、もう、非日常ではなく、この街の新しい日常そのものになりつつあることを、あらためて実感した。


 志乃は、この二週間、専用病棟のシフトを、休みなく続けていた。奈々の件以来、志乃の中で、何かが、確かに変わっていた。以前のような、恐怖に押しつぶされそうな表情は、少しずつ、影を潜めていた。代わりに、志乃は、これまで以上に、静かで、しかし、揺るぎない強さを、身にまとうようになっていた。


 姪の亜由美は、受験を間近に控え、これまで以上に、勉強に打ち込んでいるという。志乃が、たまに送ってくる、亜由美とのやり取りのスクリーンショットには、変わらぬ屈託のなさと、その裏に、少しずつ滲み始めた、大人びた緊張の色が、同時に見て取れた。「志乃おばさんも、恒一おじさんも、無理しないでね」——その一文を、三浦は、何度も読み返した。


 美咲は、あの記事以来、これまで以上に、精力的に取材を続けているという。三浦とのやり取りは、以前より頻繁になっていたが、その内容は、あくまで、公と私の境界線を、慎重に保ったものだった。二十年来の友情は、この半年余りの間に、確かに、形を変えていた。だが、変わらないものも、確かに、そこにはあった。


 三浦は、それぞれの人々の、それぞれの半年を思いながら、自分自身もまた、この半年で、大きく変わったことを、あらためて自覚していた。


 週の後半、樫村から、三浦だけに、あの計画についての、続報が伝えられた。


「政治機能移転計画、候補地が、ほぼ固まった。北海道苫小牧市を中心とした地域だ。行政インフラと、研究施設に加えて、国内有数の規模を持つ港湾を有している点が、決め手になった」


「北海道、ですか」


「本州側の感染集中地域から、津軽海峡を隔てている、という地理的条件も、大きい。海と海峡、二重の隔たりがある分、封じ込めという観点では、内地の候補地より、優位性があるという評価だった」


「対象者リストの作成は」


「進んでいる。そして——」


 樫村は、一度、言葉を切った。


「正式に、方針が固まった。対象者本人だけでなく、その家族も、同様に、保護対象に含める」


 三浦は、その言葉に、息を止めた。


「家族も」


「そうだ。首都機能の移転が、単身赴任のような形で行われれば、対象者自身の精神的な負担が、あまりにも大きくなる。それに——」


 樫村は、少し、口調を和らげた。


「守るべきものを、現地に置き去りにしたまま、冷静な判断を下せる人間なんて、そう多くはいない。それは、これまでの半年間、あんたを見てきて、俺が学んだことの一つだ」


 三浦は、その言葉に、これまでのどんな報告よりも、深く、静かな安堵を覚えた。


 その夜、三浦は、帰宅すると、すぐに、志乃に、その話を伝えた。


「志乃、聞いてほしいことがある」


「なに、あらたまって」


「前に話した、あの計画のこと、覚えてるか。もしものときの」


 志乃の表情が、一瞬、強張った。


「覚えてる」


「今日、正式に決まった。もし、あの計画が実行されることになっても——志乃も、一緒に行けることになった」


 志乃は、しばらく、言葉を失っていた。それから、ゆっくりと、三浦の手を握った。


「本当に?」


「本当だ。家族も、同じように、保護の対象に含まれることになった」


 志乃の目に、涙が滲んだ。だが、それは、単純な安堵の涙ではなかった。


「良かった。でも……」


「でも?」


「私、病院を、離れられるのかな。あの計画が実行される日って、多分、一番、現場が必要とされてる日だと思う。そのときに、私だけ、安全な場所に行っていいのか、正直、分からない」


 三浦は、志乃のその言葉に、何も言い返せなかった。志乃の葛藤は、三浦自身が、この数か月、ずっと抱え続けてきたものと、同じ形をしていた。守られることと、現場に残ることの間で、答えの出ない天秤を、揺らし続けること。


「今は、まだ、決まっていないことだ。その日が来たときに、また、二人で考えよう」


「うん」


 志乃は、三浦の肩に、そっと頭を預けた。二人は、しばらく、何も言わずに、そのまま、寄り添っていた。安堵と、それでもなお拭えない不安が、二人の間に、静かに、同居していた。窓の外では、十二月の夜が、いつも通りの、しかし、いつもとは違う重みを持った静けさで、更けていった。


――読売新聞 2026年12月16日 朝刊(一面)――


【国内症例、1万件突破 対策、都道府県単位へ移行】


 症候群の国内累計症例数が16日、1万件を突破した。政府は、症例対応の権限の一部を都道府県単位に委譲し、対策室は全体方針の策定と調整機能に軸足を移す方針を明らかにした。年の瀬を迎えた都市部では、例年の賑わいが影を潜め、閑散とした街並みに、救急車のサイレンだけが絶えず響く状況が続いている。〔共同〕


 三浦は、その夜、眠りにつく前、この一年を、あらためて振り返っていた。三月のあの朝、九件目の報告に判を押した自分。半年以上をかけて、少しずつ、崩れていった「参考情報」という言葉。そして今、一万件という数字と、その先に待つかもしれない、まだ見ぬ未来。


 三浦は、隣で眠る志乃の寝息を聞きながら、少なくとも、この先、どんな未来が訪れようとも、一人ではないという事実だけは、確かなものとして、胸に抱えていた。それが、この一年で、三浦が手に入れた、数少ない、しかし、何よりも大切なものだった。

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