13話 止まらない
八月下旬。志乃との間にできた薄い膜は、まだそのままだった。三浦は、その距離を、無理に埋めようとはしていなかった。埋め方が分からない、というのが正直なところだった。
海外の状況は、相変わらず悪化を続けていた。南アフリカの非常事態は三カ月目に入り、事案は千五百件を超えていた。アメリカとフランスの件は、あれから一切、続報が入っていない。樫村も、それについては、もう多くを語らなくなっていた。宙ぶらりんのまま、時間だけが過ぎていた。
三浦の一日は、以前よりも、確実に長くなっていた。事態室の仕事に加え、連絡会議の準備、統括庁とのやり取り、そして今も続く、家庭の中の静かな緊張。どれか一つを疎かにすれば、他の何かが崩れる。三浦は、そういう綱渡りを、この夏、ずっと続けていた。
水曜の朝、内閣情報集約センターから、三浦のもとに、一件の報告が回ってきた。差出人は、大阪府から厚生労働省を経由して上がってきたものだった。見出しには「帰国邦人の体調急変に関する報告(大阪府)」とある。
三浦は、その見出しを見た瞬間、椅子から立ち上がりかけた。
【参考情報】
作成:内閣情報集約センター 件名:帰国邦人の体調急変に関する報告(大阪府)
一、JICA関連事業で南アフリカ共和国に派遣されていた技術協力専門家(40代男性)が、8月中旬に一時帰国。大阪府内の自宅で静養していたが、8月26日夜、突然の錯乱状態を呈し、家族が救急要請。搬送先の医療機関で、意識障害・興奮状態が確認された。
二、当該医療機関は、通常の鎮静処置を実施したが、効果はほとんど確認されていない。対応にあたった医師の一人が、患者から強く腕を掴まれ、皮膚に軽度の裂傷を負った。
三、大阪府は、東京都内で確認された二例との類似性を認め、本日、厚生労働省及び内閣感染症危機管理統括庁に対し、正式に情報提供を行った。
四、当該医療機関は、独自の判断で、患者を感染対策上の個室に移し、対応スタッフを最小限に限定する措置を取ったとしている。
以上
三浦は、この報告書を、これまでのどの報告書よりも、複雑な気持ちで読んだ。驚きは、思っていたより小さかった。むしろ、来るべきものが、ようやく来た、という感覚の方が強かった。
九時、樫村が事態室の全員を集めた。
「大阪の件は、もう読んだな」
「はい」
「これで、三例だ。しかも、東京とは無関係の場所で、東京の誰にも知られないまま、大阪の医療機関が、独自に、うちとまったく同じ壁にぶつかっていた。原因不明、鎮静剤が効かない、拘束するしかない——同じ結論に、別々の場所で、別々の人間が、たどり着いていた」
佐伯が、静かに手を挙げた。
「これはもう、『東京の特殊な事例』では説明できません。国内のどこで起きても、おかしくない段階に入っています」
「その通りだ。だからこそ、これまで以上に慎重に扱う必要がある。同時に、これまで以上に、悠長にもしていられない」
樫村は、手元の資料を見ながら、続けた。
「大阪府は、独自の判断で、厚労省と統括庁の両方に、正式に情報提供を行っている。これは、これまでのうちのやり方とは違う。向こうは、自分たちの判断で、上げるべきものを上げた」
「それは、良いことなんじゃないですか」
三浦がそう言うと、樫村は、少し複雑な表情を見せた。
「良いことだ。だが同時に、うちが半年かけて、時間をかけて、慎重に扱ってきたものが、今、大阪から、もっと早い速度で、上に届き始めている、ということでもある。情報の流れが、うちの手を離れ始めている」
三浦は、その言葉に、奇妙な感慨を覚えた。半年前、あの一枚の公電を、参考情報の棚に置いたのは、自分だった。今、その同じ現象が、日本のあちこちで、三浦の知らないところで、それぞれの現場の判断によって、動き始めている。
樫村は、三浦の方を見た。
「三浦さん、大阪の医療機関との連絡役を、あんたに頼みたい。志乃さんの病院の経緯を、一番よく知っているのは、あんただ」
三浦は、一瞬、返答に迷った。だが、頷くしかなかった。
「承知しました」
その日の午後、三浦は、大阪の医療機関の対応窓口となっている医師と、電話で話した。相手の声には、疲労と、抑えきれない困惑が、はっきりと滲んでいた。
「正直に言うと、うちの病院だけで抱えるには、もう限界です。何が起きているのか、誰も説明できないまま、現場だけが対応を強いられている」
「東京の症例のことは、ご存じでしたか」
「報道で見た程度です。まさか、自分のところで同じことが起きるとは、思っていませんでした」
三浦は、その言葉に、半年前の自分自身を重ねずにはいられなかった。まさか、自分のところで。誰もが、その言葉を、一度は口にする。そして、その「まさか」が外れたことは、この半年、一度もなかった。
「腕を怪我された先生の容体は」
「幸い、傷は浅いです。ただ、経過観察の対象にはしています。東京の事例を踏まえて、うちとしても、慎重に見ていくつもりです」
「他に、何か把握されていることは」
「一つだけ。患者本人の家族から聞いた話ですが、発症の一週間ほど前、患者は現地で軽い切り傷を負っていたそうです。ちょうどその頃、滞在先の近くで、例の集団暴力事案の一つが起きていたらしく、負傷者の搬送を手伝った際に、傷口が何かに触れた可能性がある、と話していました。詳しい経緯は、まだ確認が取れていません」
三浦は、その一言に、体が強張るのを感じた。感染経路として想定してきたものと、寸分違わない話だった。
「その情報、書面にして、こちらにも共有していただけますか」
「もちろんです。むしろ、東京側の知見を、こちらにも共有してほしい。うちだけでは、正直、手探りです」
三浦は、電話を切ったあと、しばらく、受話器を見つめていた。手探りなのは、東京も同じだった。ただ、東京の方が、少しだけ早く、手探りを始めていただけだった。
夜、三浦は帰宅すると、珍しく、志乃に自分から声をかけた。
「今日、大阪で、似たような件があった」
志乃は、少し驚いた顔をした。三浦が、自分から仕事の話を切り出すのは、これが初めてだった。
「話していいの? 私に」
「詳しいことは言えない。ただ、お前の病院だけの話じゃなくなった、とだけ、伝えておきたかった」
志乃は、しばらく黙っていた。それから、小さく頷いた。
「教えてくれて、ありがとう」
それだけのやり取りだった。だが、この数週間で初めて、二人の間の薄い膜が、ほんの少しだけ、薄くなった気がした。完全には消えない。だが、完全に隔てられているわけでもない。三浦は、その曖昧な距離感を、今はまだ、受け入れるしかないと思っていた。
――読売新聞 2026年8月28日 朝刊(社会面)――
【大阪でも同種症例か JICA関係者、帰国後に体調急変】
南部アフリカに派遣されていたJICA関連の専門家が、帰国後に体調が急変し、大阪府内の医療機関に搬送されていたことが分かった。関係者によると、東京都内で確認された症例との類似性が指摘されており、大阪府は厚生労働省などに情報提供を行った。政府は、当該事案の原因について、依然として明らかにしていない。〔共同〕
三浦は、その夜、これまでの半年間を、あらためて振り返っていた。ナミビアの片隅から始まった小さな報告が、南部アフリカ全域を覆い、大西洋を越え、そして今、日本の中でも、東京と大阪という、二つの離れた街に、それぞれ独立した根を張り始めていた。
東京だけの問題ではない。日本だけの問題でもない。三浦は、その事実の大きさを、これまでのどんな数字よりも、はっきりと実感していた。そして、その実感こそが、これから先、三浦たちが向き合わなければならない現実の、本当の入り口なのだと、三浦は静かに悟っていた。
寝る前、三浦は、大阪の医師から聞いた「負傷者の搬送を手伝った際に、傷口が何かに触れた可能性がある」という一言を、もう一度、頭の中で反芻した。感染経路は、これで、また一つ裏付けられた。だが、裏付けられたところで、それを止める手段は、まだどこにもなかった。分かることが増えるたびに、できることの少なさが、かえって際立っていく。三浦は、その逆説に、この半年、ずっと付き合わされ続けていた。




